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カテゴリー | ダメダメ家庭の人間の行動 |
アップ日 | 10年11月10日 (11年1月1日 記述を追加) |
タイトル | 否定コメントの共鳴 |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 自分で自分なりの目標を掲げ、その達成のために自分で努力するということとは無縁。 自分なりの目標と言っても、それこそ国家資格を取るとか、オリンピックに出場するとかのいかにも立派なものでなくても、それこそ、自転車に乗れるようにするとか、オタク向けにマンガの同人誌をまとめるとか、マラソンを毎日するとか、メールマガジンを定期的に配信するとか・・・そんな一般レヴェルの目標だってあるでしょ? しかし、ダメダメ人間は、当事者意識がないので、「その気」になりさえすれば、誰でも達成可能なはずの目標も掲げない。だから、加点法的に物事を見ることができず、目の前にあるものを否定するだけになってしまう。 「あれは違う!」「くだらない!」「偏っている!」「ケシカラン!」「笑っちゃうよ!」 そんな否定形ばかりになってしまう。 物事の視点が否定形であるというだけではありません。 ダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、自分で考えることから逃避している。 だから、何かに接しても感想どまりになってしまって、自分なりの見解にはならない。 断片的な感想はあっても、それを統合するだけの心理的な能力が失調しているわけです。 そんな日々なので表現能力も向上しない。だって、そもそも「どうしても伝えたいもの」「何としても分かってほしいこと」それ自体が存在しないわけですからね。表現能力も向上するわけがありませんよ。 つまり、ダメダメ家庭の人間は、常に否定形であり、そして、感想どまりとなっている。この2つが合わさると、否定コメントとなるでしょ? それこそ「くだらない。」「偏っている!」「ケシカラン!」「それは、違うぞ!」 そんな単発的で、感想どまりの否定コメントになる。 接したすべてのものに同意しなくてもいいわけですが、「じゃあ、自分ではどう考えるのか?」そこのレヴェルまで考察を進めないと意味はないでしょ? しかし、「自分としてはどうしたいのか」について考えることから逃避しているんだから、結局は、断片的な否定コメントどまりになってしまう。 そんな否定コメントをあえて公表しても得になるわけもないし、公表する必要はないわけですが、逆に言うと、その手のダメダメ人間が何かを表現すると言っても、やれることといえば否定コメントを公表することくらいなんだから、いささか得意気に否定コメントを公表したりするもの。 そんな否定コメントしか言えない人間は、当事者意識があるマトモな人間とはやり取りができない。 それこそ、よく情報交換という言葉がありますよね? 自分の達成したい目標があって、そのために有益な情報を得る。それをお互いで交換する。 それが情報交換というものでしょ?逆に言うと、その情報交換に意味が出てくるのは、参加者がそれぞれ自分の目標なり問題意識を持っていて、課題が明確になっていることが前提でしょ? しかし、当事者意識が欠落したダメダメ人間は、達成したい目標そのものがないんだから、自分にとって価値がある情報というものも存在しない。 結局は、交換するのは人の悪口くらいになってしまう。 昔は、そんな場所として、ダメダメな井戸端会議があったようですが、今現在はインターネットの掲示板がその代表でしょ? 情報交換であれば、自分の目標を肯定した上での行為と言えるわけですが、そのような情報交換が目的であれば、自分にとって価値のある情報が得られれば、その時点で、その情報収集ミッションは終了となるでしょ? だから、そんな場所に長居をする必要はない。 たまたま訪れて、かつての自分と同じように困っている人がいたら、サポートの情報を提供するだけ。 しかし、ダメダメ人間は、情報交換ができない。と言うよりも、自分にとって価値のある情報というものが存在しない。 情報交換だったら、必要な情報を得たらその場はお役御免となるけど、否定コメントの共鳴だったら、いつまでもその場にいることになる。 だって、否定的な感情を共鳴することそのものが目的なんですからね。 コメントというものは、所詮は感想でしょ? 客観的な紹介や説明ではないでしょ? 紹介や説明だったら、読む人にとって、自分が書いた文章がわかりやすいものにする必要があるでしょ? 「どんな人に対して、どんなことを分かってほしいのか?」 そんなことをちゃんとアタマの中で整理した上で文章をまとめないとね。 しかし、感想だったら、その場の感情をそのまま書き込めばいいだけ。 感想と言っても、ダメダメ人間の感想なんだから、否定的なコメントに決まっている。 やっぱり「つまらない」「役に立たない」「くだらない」そんな言葉が並ぶことになる。 そして、ダメダメ人間は被害者意識が強く、そのような否定コメントを「書かざるを得ない」「書き込む状況に追い込まれた」という受動的な形で自身を認識し、それを自分への被害として受け止めることになる。 否定コメントを書き込みながら、自分の被害者意識が高揚していく。 「ホントに、コイツの○○のせいで・・・このワタシは!」 と言うことで、ますます否定コメントに盛り上がってしまう。 否定的な感想を持つこと自体は、その人の勝手でしょう。 ただ、それを書き残したり、誰かに伝える際には、客観的な紹介というスタイルが必要になるというだけ。紹介は他者に宛てて表現するものですが、感想というものは、一人で完結するものですよ。 ダメダメ人間の否定コメントは、「伝えたい」「わかってほしい」という発想自体がないので、「その文章は誰に宛てているの?」「誰に言っているの?」ということが不明な、独り言系の文章になってしまう。 そんな文章は、何もインターネットの掲示板の文章だけでなく、政治家やマスコミのコメントにもあったりするでしょ?あるいは、掲示板だけでなく、インターネットのニュースサイトに書き込まれる閲覧者のコメントもそのような感じでしょ? そして、そんなコメントは、何かを否定したコメントでしょ? 肯定は共鳴しないけど、否定は共鳴する。 肯定の場合は、認識の共有になる。だから、その認識を的確に、そして客観的に表現する必要がある。 逆に言うと、共鳴しているということは、否定してばかりということ。 必要な情報の交換と、否定コメントの共鳴は、当然の如くに二極化する。 そして、その二極化がスパイラル進行することになる。 自分を被害者という立場でしか認識できないダメダメ人間は、何かを否定することで、否定している対象による被害者という自己認識となる。それは被害者意識の強いダメダメ人間にとっては、心地いいもの。 だからこそ、あら探しをして、自身が否定できる対象を探してばかりとなる。 そして、同類がさらに集まることになる。 仲良くグチで共鳴したり、あるいはそんな場所に、「オマエたちは何をバカなことをやっているんだ?!」と、バカにしに来る人もいる。 しかし、バカにすると言うことは、まさに否定形でしょ? その人に本当にやりたいことがあるのなら、オバカさんと関わるだけ時間の無駄ですよ。 しかし、自分でやりたいことが自分でもわかっていないダメダメ人間は、グチで共鳴している人を笑い飛ばして喜ぶことになる。 そんな攻撃に対して、従来からの人間の側が反撃してバトルとなる・・・そんなシーンは、インターネットの掲示板でよく見られるものですよね? まさに、ゲーテが「冬のハルツの旅」の中で書くように、 『軽蔑され やがては自ら軽蔑者となり 飽くことのない自我の妄執にとらわれて ひそかに自らの価値を食い尽くしてしまう。』そのもの。 突然の来訪者にバカにされた側も、本来なら、自分たちの行動を否定するような人間は、無視すればいいだけだし、自分たちに明確な目標があれば、構っているヒマはない。しかし、その手の集団の心理的な目的が、何かを否定し、その否定感情を共有するということなら、自分たちを否定してきた来訪者の存在は、心理的には、干天の慈雨のようなもの。 怒りに顔を真っ赤にして、悦びに打ち震え、一生懸命に反論する。 否定コメントに共鳴している状態を、「バカなヤツらだ!」と嘲笑しても、嘲笑された側は盛り上がるだけ。 しかし、「そんなことをして何が楽しいの?」「結局はアンタは何をしたいの?」「アンタたちのこれまでの成果はどこにあるの?」となると、反撃はないのでは? もちろん、そんな指摘ができる人は、そんなところには関わらないわけですが。 掲示板の議論とやらで成果があったら、客観的な形で成果をまとめるはず。 成果をまとめようとしないこと自体が、その議論の無内容さを語っているわけでしょ? 笑い飛ばしている側の人も、それに対して反撃する側の人も、否定コメントを発しているだけ。問題点を的確に説明した文章をまとめることができない。 ダメダメ人間は、自分で何かを作り出す意欲や発想そのものがない。 だから、否定的なコメントを出している自分に酔っていられる。 「ああ!コイツをバカにしているオレって、なんてかっこいいんだ?!」 バトルのような状況においては、否定する対象にはヴァリエーションがあっても、所詮は何かを否定するしか能がないという点は双方とも同じ。そして、その否定的な精神なり、否定コメントが共鳴しているという状態も、新たな来訪者が来ても、結局は同じ。 結局は、「類は友を呼ぶ」そのものなんですね。 バトルであろうと、雰囲気的には仲が良い状態であっても、何かを否定しているだけ。 逆にいうと、その手の「お騒がせ」来訪者は、その来訪を呼びこんでしまった当人たちのダメダメさの鏡のようなもの。 何かを否定していればいいだけなので、当人たちにしてみればラクなもの。 それこそ、オタクの分野で同人誌をまとめるようなことですら、当人たちにしてみれば、大変な労力が必要になるのでは?肯定方向への成果を出すには、相応の労力が必要になるもの。 しかし、ダメダメ人間は、そんなこともせず、誰かを否定しているだけ。そして、客観的な形の反論にまでまとめることができずに、断片的で散発的な否定コメントを出しているだけ。 文章の内容なり記述そのものに力がないので、無駄なところに工夫したりする。 それこそ、よく「(笑)」とか「www」とかの表記があるようですが、そんなに笑わなければならないようなことについて、書き込むだけ時間の無駄ですよ。 当人は、自分なりにやりたいことはないの? あるいは、「(笑)」とか「www」とかの表記を使って、どんな人に、どんなことを分かってほしいの?と言うか、分かってほしいことがそもそもあるの? まあ、もし、あったらそんなことはしていないでしょうね。 頻繁に書いていますが、感想は人それぞれでしょう。それが否定なり肯定なりどちらの方向でも結構でしょう。 しかし、何回も書きますが、人に読まれる文章にする際には、コメントではなく客観的な紹介のレヴェルにしないと意味はないでしょ? しかし、断片的な感想を臆面もなく公表している・・・そんな姿に共感したり安心感を持つ人もいるわけ。そんな程度のものしか読めない人も実際にいるわけ。 その結果として、共鳴を求めている同類を引き寄せることになる。 否定コメントで盛り上がっているのは、その人の勝手だけど、結果的に何を得たの? wwwとか書きこんでいる人間との仲間意識が得られたの? 得意気に公表されている否定コメントに対して違和感を持たないの? それこそ、wwwなる表記に何の違和感もないの? そもそも、そんな表記を喜んで使っているオバカさん当人はともかく、そんな記述があるところに、よく、自分の文章を書き込めるなぁ・・・ 私だったら、自分の制作した文章の横にそんな表記があったら虫唾が走りますよ。 見解の方向性の問題ではなく、真剣さの問題です。 まあ、しかし、その傍観者然とした立ち位置が、当人たちにしてみれば、共感できるお仲間なんでしょうね。 ホント、おめでとう!これからも仲良くお幸せにね! 何かに接して否定的な見解を持つのは勝手ですが、だったらなおのこと、自分なりに肯定できる考えを紹介できるような文章をまとめてみたら?否定するにせよ、真に示唆的な文章とするには、ちゃんとした客観的な説明になっていないとダメでしょ? しかし、現実では、それができないがゆえに、程度の低いコメントを書き込んで、いい気になっている人が多いでしょ? 逆に言うと、そんなところで共鳴して満足している状態だったら、その時点でオシマイですよ。 傍観者然としたお気楽コメントは、逆に言うと、石にかじりついても達成したいものがないと言うこと。 そんな否定コメントに違和感がないようになったら、もう毒されているわけ。 議論の方向性の問題というよりも、場所自体が腐っているわけ。 腐った皮袋なんだから、新しい酒を入れても、入れたお酒はスグに腐りますよ。 感想どまりで満足しているからこそ、自分の成果が何もないまま。 一生懸命に文章をまとめても、結果的にできの悪いものになってしまうのはしょうがないでしょう。しかし、そもそもが傍観者的で冷笑的なスタンスだから、出来の問題ではなく文章をまとめること自体ができないわけ。 だからこそ、ますます、どこかにコメントを残そうとする。 本来は、否定コメントを100回出すよりも、説明に足る自分の成果を作る方がいいんじゃないの? しかし、自分自身の目標なり問題意識がないので、文章をゼロからまとめることができない。 これは、文章力の問題ではなく、心理の抑圧の問題から来ているわけです。 「で、結局は、何か言いたいのか?」 その点について考えることから逃避しているんですからね。 ゼロ状態から何かをすることができないので、逆に言うと、人の話や文章に対して、異常に「食いつきがいい」ことになる。 達成した自分の成果がないので、コンプレックスが強く、だからこそ必死になって誰かを笑い飛ばそうとする。否定しか出来ないがゆえに、否定する対象を探し回る。 そして、笑い飛ばすネタを探し回る。 だから、あら探しや揚げ足取りが大好きで、そうしてバトルになって、そんなバトルによって、ますます同類を引き寄せてしまう。 否定できるものへの食いつきがいいとなると、何かの事件があった場合に、抗議の電話をかける人もいますよね?そんな電話で事態が改善するわけもないのですが、それはまさに否定コメントの一種と見ると、インターネットの掲示板でのやり取りと共通性が見えてくるでしょ? 何かを否定することしかできないということは、そのための否定する対象が必要になると言うこと。そうして、あら探しをしているわけですが、たまたま、肯定できるものがあったら、断片的なサポートをしたりする。 それこそボランティアの連中なんて、その典型でしょ? 一時的には肯定方向に動いても、その本質は否定的な精神なので、事態がクリティカルになってくると、さっさとトンズラしてしまう。たまたま肯定方向に関与しても、あくまで断片的なんですね。 そして、そんなボランティアは、後になって、サポート対象について、「せっかくオレたちがサポートしてやったのに・・・アイツらは結局はダメだな!」と否定コメントとなってしまう。あるいは、対象をサポートするよりも、その対象に害をなしている・・・と、みなす犯人を設定し、その犯人に対して否定コメントを出すようになってしまう。 まさに「みんな、あの○○が悪いんだ!あの△△さんがお気の毒だ!」とのコメントになる。 結局は、否定に安住するわけです。 どんなに気の毒な境遇の方であっても、その方がグチの共鳴に入り浸っている状態だったら、そんな人とはやり取りをしたくはないでしょ? 逆に言うと、そんな状況に喜んで寄っていくボランティアも、結局は同類なんですね。 それこそ、ボランティアの親戚といえる市民運動は、「あの○○を断固糾弾せよ!」といいながら、客観的な説明もなしに、誰かを否定しているだけでしょ?まさに、否定行動の共鳴じゃないの? そうやって、一生、何かを否定し続けるの? と言うか、本当に否定し続けるのがダメダメ家庭の人間。 否定してばかりの人間は、「人と違っている」ことを否定して、結婚しようとする。 そして、そして「避妊を否定して」子供を持ってしまう。 そうして、できた子供を否定し、あるいは「ワタシは親を反面教師としている」と親も否定。反面教師は語れても、肯定に足る「人生の師」を見つけようともしない。 親を反面教師としても、否定するしか能がないと言う点は「子は親の鏡」。 ダメダメ家庭においては、家族でテレビを見ながら、ダメダメな親は常に否定的な感想を子供の前で言っているもの。 「ふんっ、くだらない。」 「ザマー、見ろ!」 「なんなんだ、バカだなぁ・・・」 「コイツのせいで、オレたちはうまくいかないんだ・・・」 そんな親の姿を、テレビ前ではなく、インターネットの掲示板に置き換えただけなのが、その手の掲示板に常駐している人間でしょ? テレビで映っている人物に否定的な感想を言っているだけの親を見て、なんとなくの不満に思っていた子供も、結局は、その親と同じ道を歩むことになる。 そして、インターネットの掲示板に常駐している人間は、「団塊世代のオヤジたちのせいで・・・」と、仲間同士で嘆きを共鳴することになる。 団塊世代云々はともかく、そんな姿は、親譲りそのものですよ。 インターネットの掲示板でのやり取りは、ダメダメ家庭でのテレビの前でのやり取りと瓜二つでしょ?傍観者然として、被害者意識ばかりを語っている点で、まったく同じですよ。 否定コメントで共鳴していた人間が親になっても、子供を肯定的に見るわけがない。 子供が問題行動をしても、「困ったものだなぁ・・・」と評価者然とした否定コメントを出しているだけ。 ああ、どこかで見たなぁ・・・そんな姿。 しかし、当人たちは、そんな否定コメントをしなくてはならないという被害者意識に浸っていればいいし、自分たち自身で事態に対処する必要はないと思っている。そんな人とやり取りをすると、危険なだけ。と言うか、そもそも何が楽しいの? しかし、そんな事態は、ちょっと注意してみれば、予想できることなんですね。 否定コメントに盛り上がっている人は、その否定の対象の問題ではなく、否定コメントしがすることがないという意味で、危険人物と言えるわけです。 感想やコメントのような断片の次元に留まっているのではなく、それを統合することを考える。 そして、何かを否定するのはともかく、肯定できるものを見つけ、作っていく・・・ そんなことは当たり前のことですし、そんなこともできない状態で、ダメダメからの脱却も何もないでしょ?? |
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R.11/1/1 |