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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
アップ日 10年11月27日
タイトル 切磋琢磨 (真剣さ)
このサイトでは、「似て非なるもの」に注目するとダメダメが見えてくると、よく書いたりしております。何もダメダメ家庭を考えるためだけではなく、一見は似ているものの間にある違いに着目すると、今まで気がつかなかった諸相が色々と見えてくるもの。

似ているというと、日本語的に、意味が似ている文字を組み合わせた言葉があったりします。
たとえば「岩」も「石」も、意味的にはほとんど同じでしょ?そして、その「岩」と「石」を合わせて、「岩石」なる言葉ができたりする。あるいは、「労働」とか「希望」とか「音響」とかもそのパターン。

あるいは、日本語には「競争」という言葉がありますよね?
「競う」も、「争う」も、意味的には似ている。
「岩」と「石」の間にある違いとなると、まあ、「大きさ」ということになるでしょう。
では、「競争」という言葉における「競う」と「争う」の間の違いはどのようなものなの?

日本語的なニュアンスを考えれば、「競う」となると、「競う相手」を肯定的に見ていて、「争う」となると「争う相手」を否定的に見ていると言えるでしょ?
スポーツの世界における「競争」となると、「争う」という面よりも「競う」の方の比重が高いもの。
スポーツの世界においては、たとえ誰かと競争していても、その目的として、相手の存在を否定するためのものではないでしょ?
というか、相手の能力を肯定的に見ているがゆえに、競っているわけでしょ?

しかし、「争う」となると、違ってくる。
争っている場合には、その目的としては、相手の存在を否定すること・・・もっと極端に言うと「抹殺」すること・・・そうなってくるでしょ?
それこそ「戦争」という言葉を考えてみると、その中の「争」という字を、「競」という字に置き換えて、「戦競」なる言葉は存在しない。
戦争ともなると、相手の存在を抹殺すること・・・それ自体が目的となっていて、「競う」ことでお互いが成長するような悠長なものではない。

「石」と「岩」の間の文字の意味的な互換性は結構あっても、「競」と「争」の間の文字の互換性は低いわけ。
「競争」している相手を、否定的に見ているのか?それとも肯定的に見ているのか?という点で大きく違っているのだから、簡単には置き換えられないものなんですね。

さて、以前にメールマガジンを配信していた際に、「平和」という言葉を取り上げております。ダメダメ家庭の人間は、不必要なのに「平和」とか「ピース」という称号というかレッテルを使いたがるわけ。あるいは、平和そのものを目的とする運動をしたがるもの。
じゃあ、その平和って、具体的にはどんな状態なの?
あえて、言うとしたら、「争いがない状態」と言えるでしょう。

最初に書きましたが、「争う」という言葉には、その根底として、相手を否定的に見ている心理があるわけだから、「争いがない」ことは確かにいいことですよ。
しかし、一番問題なのは、「争う」ということの中にある「相手を否定的に見る」心理であって、競争すること自体が問題とは言えないでしょ?
相手を肯定的に認めた上で、競争すればいいだけだし、そのようなことは必要なことでしょ?

「アイツに勝ちたい!」と思い、自分なりに努力することは結構なことですよ。それは「競う」に近いニュアンスですからね。
しかし、「争う」に近いニュアンスとなる「アイツをやっつけたい!」という願望は、ちょっと危険な面があると言えるわけ。つまり、相手を否定することが目的になっているわけですからね。
「競う」となると、本質的には、自分が成果を出すために競っていて、「争う」となると、自分の成果よりも、競争している相手方を見ている・・・そのように見ると理解しやすいのでは?

スポーツでも、学業における試験でも、「アイツに勝ちたい。」と思うことは、その競争相手の尊厳を否定したものではないでしょ?むしろ、それなりに尊厳を認めているからこそ、競争しているわけでしょ?
スポーツでも学業でも、その分野で誰かに負けたとしても、負けた人の尊厳が否定されたわけではないでしょ?

お互いがお互いを認めた上で、切磋琢磨することで、お互いが成長できるとともに、お互いの間の理解が深まるわけでしょ?
それって、当たり前のことでしょ?
全身全霊を込めて、その競争を行っているからこそ、相手方も、「全身」も「全霊」もわかり、その人のことを理解できるわけでしょ?逆に言うと、全身全霊をかけなかったら、その人のことを理解しようがないじゃないの?

前にも書いておりますが、平和とは争いがないこと。
しかし、それを「競争がないこと」とか「お互いに相違点がないこと」と誤解している人も多いでしょ?
それこそ、世の中に跋扈する平和運動家なんて、そんなパターンでしょ?

しかし、お互いの尊厳を認め、そして、お互いの相違点を認めた上で、切磋琢磨しないと、本当の意味での相互理解にはならないでしょ?
真剣さの存在しないところに、本当の意味で、相互理解はありませんよ。だって、やり取りの相手について、わからないままなんですからね。
競うところは、競って、自らの真剣さや能力を相手に伝えないと、本当の相互理解には達成しようがないわけ。
だからこそ、学業の分野でも、スポーツの分野でも結構だけど、自分が真剣になれるところを、早く見つけないとね。
そうでないと、本当の意味で、コミュニケーションもできませんよ。だって、本当の意味での相互理解にはなっていないわけですからね。何回も書きますが「相違点が見えない」状態に留まっているだけ。
それに、真剣さとは無縁のところでは、その人の尊厳なんてわからないでしょ?

「世の中のすべての人が楽しくあればいい・・・」
そんな理想論を語る人もいますが、何かを実現させるためには、楽しいだけでは何も達成できませんよ。
たまには、無理を自分に課さないとね。
真剣さとは、まさに剣を扱うようなもの。失う覚悟もはらんでいるわけでしょ?

逆に言うと、どこにも無理な負荷がかかっていない状態だったら、本当の意味で達成したいものがないし、あるいは、問題意識を持っていないということでしょ?

以前にちょっと言及したローランド・ジョフィ監督の映画「ミッション」において、「我々はデモクラシーではなく、神からの命令に従っているんだ。」というセリフがありました。
みんなの幸福に安住していては使命は達成できないわけ。
みんな仲良くという微温的な状態を逸脱するくらいの真剣さや使命感がないと、大きなことはできませんよ。

それこそ、政治の世界で、「すべての人が幸福になるように!」なんて真顔で言っている人もいますが、その結果が、負担の付回しというか、先送りをやっているだけでしょ?誰もが無理をしなかったら、何も達成できないし、問題も解決しないでしょ?皆で仲良くもいいけど、そんな発想は、何かを達成するためや、問題を解決するための方法論にはなりえないわけ。
負担が発生していないということは、あるいは、負担を覚悟しなければ、それは真剣とは言えないでしょ?
真剣でなかったら、そして、覚悟もなかったら、何も達成できませんよ。
「皆が仲良く、幸せに・・・」という美辞麗句は、負荷の平等というよりも、目の前に問題が見えなくなればそれでいい・・・という逃避的な心理に陥ってしまうだけ。

現在の日本社会では、競うことを否定している雰囲気があり、本当の意味で相互理解の方法論がなくなってしまっている。従来からの美風と言える「言わなくてもわかる」点はそれなりに結構なことと言えますが、その雰囲気では、もし、いったん齟齬なり相違点が見えてしまったら、対処不能になってしまうわけ。
そうなると、相違点を見ないようにするという逃避的な対応とならざるを得ない。
結局は、問題の先送りに徹するだけ。

「すべての人が幸福に!」というと、それこそ物理学的には、エントロピーが極大化した状態と言えるでしょう。それは生物的には、死を意味する。
生物における生命活動とは、エントロピーを小さくする活動と言えるわけですからね。
社会全体だって同じですよ。完全な平等は、社会の死を意味するわけ。
何も、不平等を目的とする必要はないわけですが、負荷がどこかに集約するようなことがない限り、発展性もないわけ。そして、負担の集約する先は、基本的には能力の高いところとなる。
だって、能力の低いところに負担が集約しても、事態は何も改善しませんよ。
解決能力が高い人だからこそ、そこに負担を集めないと、事態は改善しないでしょ?

負荷の集約が、発展のための方法論だと申し上げているわけではありませんよ。
達成したいもの、そして、解決したいものが明確になっていれば、その達成のためのプライオリティの問題を考える必要があるし、無理も発生すると申し上げているだけです。

逆に言うと、「皆が仲良く」ということで、すべての人にいい顔をするのはいいとして、じゃあ、その人が本当の意味で達成したいものは何なの?

無理もなく、お互いに相違点もない状態・・・それは、まさにダメダメ家庭にお約束の「ふつう」そのものでしょ?
しかし、その「ふつう」で何が達成できるの?
あるいは、無理を自分に課さない状態で、それを真剣と言えるの?
真剣さと「ふつう」とは、相反する状態でしょ?
そして、前にも書いておりますが、真剣さがないところには、相互理解もありませんよ。

「ふつう」という言葉を頻繁に使う人は、コミュニケーション能力の低い人でしょ?
だって、相違点を見ることから逃避する人なんですからね。
「ふつう」という言葉を使いたがる人と、どうやって相互理解をするの?あるいは、相互理解が達成された事例があるの?
相違点を見ないという「おしゃべり」には適していても、何かを達成するとか、事態を解決するという「会話」のパートナーとしては不適ですよ。

お互いが真剣に競うこと・・・
そんな切磋琢磨がない状態は、相互理解もない状態。
ただ、相違点が見えないというだけ。
お互いが理解し合っているという肯定形ではなく、相違点が見えないという二重否定状態に留まっている。
相互理解の方法論がないからこそ、あるいは、尊厳をかけたやり取りをしていないがゆえに、ちょっとのことで、「争う」ようになってしまう。

逆説的になりますが、真剣に「競う」ことをしないがゆえに、戦争になってしまうわけ。
実際に、世の中に跋扈する平和運動家は、やたら過激で、そして、反対者の存在を抹殺しようとするものでしょ?
平和運動も、そして、戦争状態も、自分との相違するものの存在自体を認めない点なり、他者の存在を否定的に見ている点において、実に共通しているわけ。

「平和の大切さ」「皆が仲良く」という大義名分を掲げ、相違点がないという「ふつう」を肯定し、競うことによる真剣さを否定する。
競うことからして否定しているんだから、ちょっとしたことで大騒ぎとなる。
以前に、日本のプロのサッカーチームの応援の人たちが、別のチームの成績の悪さを揶揄するような横断幕を作ったことで問題になりました。「オマエたちも、降格だよ!」とかの内容だったとのこと。そこで横断幕を作った側のチームの社長さんが、相手方に謝罪したとか・・・

しかし、プロだったら、成績が悪ければ、揶揄されるのは仕方がないことですよ。
これが、民族的な問題とか、肌の色の問題とか、宗教に関わる問題を揶揄したら、大問題といえるでしょう。しかし、プロサッカー選手のサッカーの成績が悪いことを揶揄されても、それは揶揄された側も受け入れなくてはならないことでしょ?
相手方の選手を揶揄した側も、サッカーの能力を問題にしたわけで、全人格を否定したわけではないでしょ?

会社の中だって、「なんなんだ?これは?オマエも、もう辞めちまえ!」なんて言われることもありますよ。
真剣勝負というものは、負けることや失うものを含んでのもの。
負けること自体を否定したら、逆に言うと、真剣になれませんよ。

結局は、全身全霊を込めて、何かに取り組むということがなくなってしまって、双方が真剣さを認め合うことによる相互理解がなくなってしまい、相手の尊厳も分からない。
「争うのを止めよう。」という言葉はいいとして、競うのも止めさせてしまうので、相手方の尊厳もわからない。だからこそ、相手を否定するような争いになってしまう。

真剣さのないところほど、否定的な心理となっているでしょ?
たとえば、インターネットのニュースへの閲覧者によるコメントを見ていると、真剣さがまるでないでしょ?
「このことだけでも分かってほしい。」という命がけの覚悟があった上で、そんなコメントを書き込んでいるの?
覚悟のない状態で、何が伝わるの?そんなところでは相互理解はできませんよ。
それと同じように、傍観者感覚なり、周囲に合わせているだけの「ふつう」では、相手に何も伝わりませんよ。
ただ、何かを否定しているだけになってしまう。

よく、ライバルの存在が自分を成長させてくれた・・・なる述懐があるものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭は否定的な精神であり、相手を肯定的に見る「競う」ではなく、否定的に見る「争う」になってしまう。
つまり、ライバルというよりも、純然たる「敵」であり、そして、倫理的に色づけされてしまって、「悪」と認定してしまう。
だからこそ、本来は競っている間柄のスポーツの分野でも、相手を抹殺しようとする「争う」のメンタリティになってしまう。そんな様相は、それこそ、韓国とか中国とかでいつも見られるものでしょ?
よく言われる、「政治とスポーツは別」という言い方も、「争うことと、競うことは別」という言い方にもできるわけ。

真剣に競うことなく、何かと言うと、「ふつう」という言葉を使いたがる人ほど、自分以外の人間を「悪」としてしまっているものでしょ?
相手を悪と認定してしまうので、逆に言うと、自分の能力を向上させるよりも、「汚い手を使っても、悪いアイツを蹴落としてやるんだ!」という発想になってしまう。
そんな人は、それこそインターネットの掲示板にいっぱいいるでしょ?
インターネットの掲示板こそ、「競う」のではなく、「争う」様相を呈している典型といえるのでは?

「競う」状態であったら、そこに参加するのも意味があるでしょう。
しかし「争っている」状態だったら、外から見ていた方が参考になるわけです。
ダメダメというのは、争うことはあっても、競うことはない。
それだけ、その精神の根底が否定的なものなんですね。

否定してばかりで、肯定することが出来ないダメダメ人間は、相手の完全な否定を目指すことになる。
議論においても、相手を説き伏せることを目標にして、いわば論争に近い様相になり、自分の考えを説明したり、相手に対して有効な見解を提示することができない。だから、「論破する」というヘンテコな言い回しが跋扈する。
「アイツを論破した。」と自画自賛している人は、相手を否定しているのはいいとして、じゃあ、いったい何を肯定したの?肯定しているの?

お互いを尊重して、競い、高めあうこと・・・
そんな切磋琢磨の経験を通じて、相手を肯定して、自分を肯定することもできるわけ。
逆に言うと、否定的な精神しか持っていない人は、そのような競うことを否定して、真剣になることも否定し、冷笑的なスタンスにいる。だからこそ、相互理解がなく、結局は相手の抹殺を目指すことになる。
だからこそ、結果的に、何も達成できないわけですし、その理由として、やっぱり何かを否定することになる。
そうして、そんなことをいつまでもやっているものでしょ?