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カテゴリー ダメダメ家庭にないもの
アップ日 10年12月11日 
タイトル 心配
ダメダメ家庭の問題を考えるに当たって、似て非なるものに注目する必要があることは、このサイトで頻繁にふれております。
一般の人は、言葉の使い方において、厳密に使ってはいない。まあ、こんなに多くの文章を書いている私と比較してしまえば、誰だって厳密に使っているとは言えないでしょう。
そして、ダメダメ家庭の人間は、言葉の使い方が、その一般人に輪を掛けていい加減となっている。

これは単にボキャブラリーが貧困ということではなく、やり取りにおいて、相手に対して伝えたいこと自体がなく、その場の雰囲気に合わせるだけで、「な〜んとなく」で言葉を使っているので、「もっと的確な言葉はないか?」「より正確に伝えるためにはどうすればいいのか?」と考えてはいないことも関係しています。ただ、「人に合わせている」だけで、相互理解などの成果を意識してやり取りをしているのではないので、その場がつつがなく過ぎればそれでいいやと思っている。だから、もっと的確な言葉を知っているのに、とおりがいい「なじみ」の言葉を使って、その場を流しているだけになっている。

なじみの言葉であるがゆえに、自然に出てくるわけですし、その言葉を聞かされた周囲としても、「な〜んとなく」受け入れてしまう。
しかし、その言葉によるやり取りでは、結局は相互理解には至っていなくて、ただ単に相違点が見られないという二重否定状態というだけ。

さて、そのように、とおりがよく、だからこそ、頻繁に使われたりしますが、その実体を的確には表していないことが多い言葉として、今回は「心配」という言葉を取り上げます。
ダメダメな人は、「あの○○が、今後どうなってしまうのか、ワタシも心配だ!」などと言ったりすることが多いわけ。
しかし、そんな物言いは、何もダメダメ家庭だけではありません。マトモな人も、「ウチの子が心配だ!」などと言うものです。
しかし、その心理状態が違っているわけ。

ダメダメ家庭においては、言葉としては「心配」という言葉を使っていても、その心理をより正確に表するためは「警戒」という言葉の方が的確なんですね。
ダメダメ家庭は、心配という言葉は頻繁に飛び交っているけど、心配という感情を持っていない家庭といえるわけです。

そもそも、ダメダメ家庭は、当事者意識がない。
当然のこととして、子育てに対しても当事者意識を持ってはいない。
子育てに当事者意識を持っていれば、子供の将来を親として心配することになります。
しかし、ダメダメ家庭の親は被害者意識しかないので、子供からの手間というか、迷惑というか、被害を警戒することになる。
子供が現在なり将来において、親に対して面倒なことを持ち込むことを「警戒」しているわけ。
しかし、言葉の上では、なじみの言葉と言える「心配」という言葉を使ってしまう。

「ウチの子の将来が心配だ!」とダメダメ家庭の親が語る場合には、「子供がちゃんとやっていけるように、親として何とかしないと。」という感情ではなく、「子供が将来にとんでもないことをしでかして、親として、そのとばっちりを受けるかもしれない自分の身が心配だ!」と、なっており、子供ではなく、自分の状況に視点が向かっている。

それこそ、登校拒否のような状況においては、そんな状況になってしまった子供の将来を心配はしない。
子育ての失敗を、親として周囲から指摘されることを警戒しているだけ。
そのように見ると、その手の親の言動もよく理解できるようになるでしょ?

あるいは、風紀のよくないところで遊んでいる子供に対して、大人が「こんなところで遊んでいてはダメ。」と声を掛けるとかで、逆に警察沙汰になったりする事例があるようです。
『不審者に声を掛けられた!』で、大騒ぎになるんだとか。
なんでも大阪では、その種の「騒動」が、頻繁に起こっているそう。
しかし、風紀の悪い地域で子供だけで遊んでいることを大人が注意する・・・それこそが、心配というものでは?そんな注意に対して、『不審者に声を掛けられた!』と騒ぐのはいいとして、じゃあ、そのまま、風紀の悪い地域で子供だけで遊ばせておくの?

前にも書きましたが、ダメダメな親は心配という感情は持っていない。警戒心だけを持っている。
だから、子供の身の安全よりも、子供を放ったらかしにしていた自分への非難が来ることを警戒しているわけ。そもそも、親として自分の子供を本気で心配しているのなら、風紀の悪い地域で子供だけで遊ばせないでしょ?
何回も書きますが、ダメダメ家庭の親は、子供を心配しているのではなく、親である自分への非難を警戒しているだけ。だからこそ、「不審者に声を掛けられた!」と大騒ぎすることになる。
そうやって、誰かを犯人認定しようとするわけ。
まさに、ダメダメ人間が人から注意された後に、涙目になって「ワタシは悪くないわ!」「全部アイツが悪いのよ!」と絶叫している姿と同じなんですね。

あるいは、子供が自殺未遂をした。そんな場合に、マトモな親だったら、子供のことを心配し、ケアーをするわけですが、ダメダメな親の場合は、「ああ!この子が心配だ!」と周囲に対して大仰に語っても、事件以降も、子供をウォッチするわけでもなく、サポートするわけでもない。親である自分に面倒が降りかかってこないように、「警戒」しているだけ。
だから、「こんなことになったのは、あの○○のせいだ!」と誰かを犯人認定することは熱心でも、子供と話をしたりしないわけ。むしろ、自殺未遂をした子供を放っておいて、「社会を変えよう!あの○○をやっつけよう!」と、市民運動や政治運動に入れ込むことになる。あるいは、自分が設定した犯人認定を国にオーソライズしてほしくて裁判に訴えたりする。
しかし、だからこそ、子供がまたやってしまうことになるのは、本来なら誰でも分かること。

そんな流れは、自分の娘が結婚後にドメスティック・ヴァイオレンス状態になってしまう親にも顕著に見られるものです。
「相手から暴力を受けている自分の娘が心配だ。」と周囲に対しては語っても、娘の家庭に直接的に乗り込んで事態を解決する意欲も発想もない。
そして、「社会からドメスティック・ヴァイオレンスを根絶させるべきだ!」と一般論による御高説を掲げ、周囲の人が思っている『あの女性の実家は何をやっているの?』という疑問の声を封殺する。
つまり、自分の娘の身を心配しているのではなく、自分の娘に対し、結婚前も、後も、親としてサポートしないことを、周囲から指摘し、非難されることを警戒しているだけ。

しかし、そんな親も、言葉の上では、「心配」という言葉を使っているわけですし、周囲もその言葉を受け入れてしまうので、「心配」という言葉を使ったダメダメな親は、まさに自分で自分を騙してしまう。
「自分は親として、子供のことを考えている、立派な親なんだ!」と、勝手に認定してしまうわけ。
しかし、その内実としては、子供から持ち込まれるトラブルを警戒しているだけなんですね。

相手のことを本当に心配しているのなら、「○○のことが心配だ!」と声に出しているだけではなく、ちゃんと相手の意向を聞き取ったり、現状をちゃんと認識していく必要があるでしょ?
「心配」という言葉は、相手をサポートすることと不即不離の問題でしょ?
「心配だ!心配だ!」と遠くから言っているだけでは、単なるバカというか、オバカよりも、もっとタチの悪い人と言えるでしょ?
本当に心配しているんだったら、手をさしのべることが絶対に必要ですよ。

「心配」という言葉を持ち出した人は、心配する相手を、具体的にどのようにサポートしていくの?その点が重要でしょ?そして、その覚悟があるの?
だから、本来は、「心配」という言葉は、発するに際し、「重い」言葉と言えるわけ。
気軽に発してはいけないんですね。
逆に言うと、気軽に「心配」という言葉を発してしまうことから、その発した側の問題も見えてくるわけです。

軽々しく「心配」という言葉を使う人は、「心配」という言葉が持つ重さを理解していない、自分でどのように対処するのかという点をまるっきり考えていない、つまり当事者意識がないということなんですね。

しかし、当事者意識がなく、「心配」という言葉を乱発してしまうがゆえに、自分とは関わりがないところに、「心配」を名目に、必要もないのに首を突っ込むことになる。
それこそ、ボランティアの連中は、サポートする相手先のことを本気で心配した上でサポートしているのではなく、「自分の身にトラブルが降りかかってこないのか?」あるいは、「自分のアンタッチャブルな面を指摘されないのか?」そんな警戒が先に立っていて、相手のことは実は本当には考えていない。
言葉の上では「彼らのことが心配だ!」とキレイ事を持ちだし、だからこそ、相手に関わるわけですが、その手の人は、最後まで相手に付き合ったりはしないでしょ?
本当に相手のことが心配だったら、それなりの目処がつくまで付き合うことが必要じゃないの?

あるいは、安っぽいマスコミの記事には、「このままでは、○○がどうなってしまうのか心配だ。」なる文言があったりしますが、その手の人は、「心配」という文言を持ち出すことによって、ある程度の関わりを持つ傍観者の立ち位置を確保するわけ。
しかし、所詮は傍観者なので、サポートの手をさしのべたりはしない。端から状況を見て、ヘラヘラ笑っているだけ。そんな冷笑的な態度の大義名分として「心配」という言葉を持ち出しているだけ。

そのように、「あの人が心配だ!」とかの話を熱心にする人は、現実にいたりするでしょ?
そんな言葉を熱心に語る人に対しては、こんなツッコミがあったりするもの。
『そんなことよりも、アンタ自身の身を心配したら?』
そんなツッコミに、心配を語っていた人は逆上するばかり。
「どうしてそんなことを言うんだ?!」「オレはアイツが心配なんだ!」「オマエはアイツがどうなってもいいと思っているのか?この人でなしめ!」
それはそれでいいんですが、善意や心配を叫んだその人が、その心配の対象者を傍観者然として見ているだけで、最後まで面倒を見る覚悟がないのは相変わらず。
せめて、自分自身について、自分なりに考えていけばいいわけですが、当事者意識がなく、自己逃避なので、自分の身の心配もできない。

自分の身の心配をしないどころか、周囲を警戒心を持ってウォッチし、その警戒感を「心配」という言葉で表現することになる。「アイツたちが自分を悪く言わないか、心配だ!」と思ったりするわけ。その物言いにおける「心配」という言葉は、意味的には「警戒」であっても、言葉の上では「心配」なので、その人自身が「心配」という感情を持っていないことについて自覚が生まれない。

本来は重い言葉である「心配」という言葉を、いかにも軽く持ち出してしまう。
そんな人は、その思考も軽いわけですし、当然のこととして尊厳も軽い。
心配と言う言葉を頻繁に語る人に限って、「心配」という感情を持っていない。
ダメダメ家庭を理解するためには、そんな視点から見てみると、理解しやすいことも多いわけです。