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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
アップ日 10年12月18日
タイトル 説明能力の二極化
ダメダメ家庭の人間は説明能力がないことが多いことは、以前にメールマガジンとして配信しております。
そもそも、自分自身の感情を抑圧しているんだから、相手に対して分かってほしいという気持ちもない。それに、当事者意識もなく、達成したい目標もないので、相手に分かってほしいこと自体もない。あるいは、問題意識もないので、解決したい案件もなく、だから現状を説明する必要もない。
だから、たとえ説明能力の資質があったとしても、それを使うことはなくなってしまう。

それに、ダメダメ家庭の人間は自己逃避であり、自分の考えをまとめ上げることもできない。だから、やり取りにおいては、断片的な感情をそのまま相手に投げ付けることになる。
断片的な印象や感想や感情を、自分なりに統合する心理的な能力を失調しているわけです。
そして、そんな断片止まりのやり取りを、「ワタシは感性で生きているんだ!」と豪語したりするもの。しかし、そのご自慢の感性とやらも、類型的でどこにも転がっているようなものどまりであって、とびきり鋭敏な感性を持っているのではなく、考えをまとめあげるだけの統合力が失調しているだけなんですね。

そんな断片止まりなので、それにフィットしたスタイルになってくる。
つまり、統合された説明を「受けなくても済む」「しなくて済む」やり取りの場なり、状況を求めるようになるわけ。

その代表例が、インターネットの掲示板でしょう。
断片止まりの人間にしてみれば、インターネットの掲示板はまさに自分の居場所と言えるでしょ?掲示板では、統合された説明を「受ける」ことはありませんよね?あるいは、統合された説明を求められるわけでもないでしょ?

しかし、だからと言って、掲示板のような場で、相互理解に到達するわけではないでしょ?
だって、相互理解に到達するためには、自分の考えを説明し、相手の説明を理解することが必要になるでしょ?説明が存在しないインターネットの掲示板のような場では、必然的に相互理解とは無縁になりますよ。まあ、そのような場は、会話ではなく、おしゃべりの場としては有効なんでしょう。だから、その点について認識した上で、そんな場を利用すればいいだけ。

じゃあ、人はどこで説明に接するの?
あまりに当然のことですが、仕事においては、説明というシチュエーションが頻繁に発生します。相手に対して自分のことを分かってもらわないと、一緒に仕事することはできないでしょ?職場内では命令と服従の関係も成立していても、その会社の外でのやり取りにおいては、分かりやすい説明が必要になりますよ。

逆に言うと、説明能力が低い人は、どのように仕事をしているの?
やり取りの相手方に対して、どのように接しているの?
「萌ぇ〜」とか「イタイ」とか言っていれば、相手が自分の意向に沿って動いてくれるの?
そんなわけないでしょ?
ちゃんと客観的な説明をして、相手から合意を取らないと、相手も自分の意向に沿って動いてはくれませんよ。

まあ、その人の説明能力を見れば、その人について、色々と分かったりするもの。
逆に言うと、説明能力がない人は、普段は何をしているの?
前にも書きましたが、説明能力が低い人は、会社などでは使い物にならない。

と言うことで、前に書いたようにインターネットの掲示板に入れ込んだり、あるいは、命令と服従の関係で事が済む仕事に逃げ込んだりする。
だからこそ、ダメダメ家庭出身者は、相手に命令するだけの職業に就こうとすることが多い。たとえば、学校の教員とか、あるいは、福祉の仕事などだったら、明確な序列が形成されるでしょ?だから、説明能力の低い人にしてみれば、自分の説明能力の不足と向き合わなくていいのでラクなんですね。

あるいは、「学ぶ」ことに徹することにより、「説明」というシチュエーションから逃避する方法もあります。「学ぶ」なんだから常に一方方向となり、「学んだ」成果を説明する必要はないでしょ?
だから、いわゆる優れた学力を持っていても、そこに「説明能力」があるかというと、別問題になるわけです。それこそ、現在の日本の社民党の党首さんなんて、学力はすばらしいのでしょうが、説明能力はほとんどゼロでしょ?

相応の学力がないと、説明能力を向上させることは難しいわけですが、学力があったとしても、それが豊かな説明能力になるとは言えないわけです。
自分というものを分かっていて、ちゃんと現状が見えていないと、的確な説明はできませんよ。

相応の説明能力がないと、意志疎通ができず、相互理解にはならない。
これはまさにその通りなんですが、物事はデジタルというより、程度問題が絡んだアナログ的な面があります。説明能力だって、「完全か、ゼロか?」の問題ではなく、様々なレヴェルがありますよ。そして、その人として説明能力が低い場合には、何かで補えばいいだけ。
それこそ、当人自身として多少説明能力が低くても、自分より説明能力が高い人のサポートを受ければいいだけですし、あるいは、添付資料を事前に色々と用意しておくという方法もある。
つまり、説明能力をトータルとして考え、そのトータルの説明能力で勝負するパターンです。まあ、この方法が一番建設的と言えるでしょう。

しかし、別の方法もあるわけです。
情緒で補う方法です。
以心伝心とかの言葉もありますが、説明能力が低い分を、お互いの気配りで補えば、それはそれで相手に伝わることにもなる。
勿論、そんな方法によって、「正確に」伝わったのかというと、それは別問題でしょう。
しかし、「相違点が見いだせない」という二重否定的な成果は得ることができるでしょ?

しかし、そうなると、相互理解というよりも、なんとなくのおしゃべりに近くなってしまう。お互いがお互いの気持に配慮して、つつがないやり取りになってしまうわけ。
この情緒の問題は、このサイトにおいて、以前より触れたりしております。
説明能力の低い人は、自分の説明能力の低さを棚に上げ、「情緒」とか「気持」とかの必要性を前面に出してきたりすることが多いもの。
「お互いがお互いの気持に配慮しましょうよ!」と執拗に呼びかけることになる。
それはそれでいいとして、その前段階として、明確な説明がないと、どのように配慮していいのかわからないでしょ?情緒を従の役割で使うのならまだしも、主の役割で使われても対処できませんよ。

それこそ、以前に日本の総理大臣をなさっておられた鳩山由紀夫さんは、「沖縄に対する思い」とかの言葉を持ち出してきました。本来なら、「ワタシは総理大臣として、沖縄の問題を、○○の観点から理解していて、△△の点に手をつけ、将来的には□□を達成したいと考えている。」とかの文言で「説明」すれば、聞いていても分かりやすいわけですが、「沖縄に対する思い」では、何も分かりませんよ。「思い」で、いったい何を理解すればいいの?
と言うことで、結局は、相手から合意を取ることができず、支配・被支配の構図に基づいた命令で対処するしかない。
あるいは、その手の人は、支配・被支配の構図を形成し、維持するために、やたら相手に恵もうとすることになる。

説明能力があれば、相互理解を積み重ねて、合意を取ることができるわけですが、説明能力がないがゆえに、合意ではなく、命令に従わせるという形にならざるを得ないわけ。逆に言うと、「思い」というか、情緒というものを、異常に早い段階から持ち出してくるような人は、結局は、命令に従わせるという方法になってしまうんですね。だって、情緒は合意とは無縁ですよ。

前にも書きましたが、当人の説明能力が低くても、説明能力が高い人のサポートを受ければ済むだけですよ。
しかし、説明能力の低い人は、説明能力の高い人によるサポートという発想そのものを持っていないことが多い。

説明能力の低さを、自分の側が相手に対して命令できるという立場を使うことで補ってきた場合には、その立場の強化を持って説明能力の補助としてしまうことが多い。
あるいは、説明能力の低さを、情緒で補っていた人は、より一層の情緒でもって、説明能力の補助とすることになる。まさに、「思い」が暴走してしまうわけです。
まあ、だからストーカー事件も起こってしまうことになる。

そもそも、説明能力の低い人は、周囲に説明能力の高い人がいても、そんな説明能力の高い人とのやり取りは敬遠したりするんですね。
まあ、なにか・・・丸め込まれてしまうように感じてしまうんでしょうか?
それとも、ヘタクソな説明をして、説明能力の高い人からバカにされるように思ってしまうんでしょうか?
それについては、説明能力の高い側にいる人間にしてみれば・・・完全には理解しがたいところです。

説明能力が高い人にしてみれば、ヘタクソな説明であっても、バカにはしないもの。
そもそも説明能力が高い人だって、生まれた時から説明能力が高かったわけではない。
少しずつ向上して行ったに決まっていますよ。だから、ヘタクソな説明をされても、怒ったりはしませんよ。まあ、ヘタクソで居直ってしまわれると不快ですが、ヘタクソでも一生懸命であれば、むしろ丁寧に聞きますよ。

説明能力が高い人がバカにしたり、理解不能になるのは、そもそも説明の意思すら示そうとしない人に対してです。
最初の段階から、いきなり情緒が出てきたり、あるいは、いきなり立場を利用して来られると、非常に立腹することになる。
「ヘタでもいいから、アンタなりのベストの説明をしなさいよ!」となってしまうのも当然でしょ?説明能力が高い側は、説明をしようともしない態度はそもそも理解不能なんですね。そんな発想でないと、説明能力は向上しなかったわけですからね。

しかし、説明能力の低い側としては、説明能力の低さを、立場や情緒で補うという習慣になってしまっている。だから、自分より説明能力の高い人と向き合うと、習慣的に立場や情緒を持ち出してくる。
だから、結果的にモメることになる。

モメるような事態になったりするので、結局は、説明能力が高い人は、同類と結びつき、説明能力が低い人は、やっぱり説明能力が低い同類と結びつくことになってしまう。
本来は、説明能力が低い人ほど、周囲には説明能力が高い人をおくようにした方がいいのは小学生でもわかることですよ。
しかし、結局は同類同士が集まってしまうわけ。
と言うことで、説明能力についても、絵に描いたような二極化になってしまう。

説明能力が高い側の結びつきは、相互理解に基づくものなので、そのように維持されることになる。そもそも、イヤなことなら、それがイヤなことであると説明すればいいだけだし、それを的確に説明し、その説明を理解できるのが説明能力というもの。だから、大きなトラブルになることもない。

説明能力が低いもの同士の結びつきとなると、支配・被支配の構図に基づく命令と服従の関係か、情緒を基本とした「べたぁ〜」としたやり取りになってしまう。
情緒を基本としたやり取りについては、このサイトで取り上げることもあります。
まさにおしゃべりの延長であり、「相違点がない」ということが最大の成果となる。
そして、お互いの情緒を害さないように、皆が配慮することになる。

しかし、そんなおしゃべりどまりのやり取りでどんな意義があるの?
どんな知見が得られたの?
もちろん、当人たちが楽しければそれで十分ということでしょう。
それはそれで楽しいことではあるのでしょうが、そんな微温的な状態が崩れてしまったら対処ができないことは誰でもわかること。
だからこそ、情緒主体の集団は、異分子の排除には念入りになってしまう。
説明能力が高い集団だったら、たとえ異分子が来ても、「アナタの権利はこのようなところ、アナタの義務はこのようなところ・・・」と説明して、相手から合意を取ればいいだけ。
しかし、情緒だけでやり取りをしている集団になると、異分子に対しては「空気を読めよ!」と要求するだけになってしまう。

「空気を読めよ!」との命令を受けた側は、そんなあいまいな要求に呆れて、その集団を出ていくか、それとも、自身の感情や思考を抑圧し、まさに空気に合わせることで、その場に「溶け込む」ことになる。
結局は、その集団の説明能力が向上したわけではなく、むしろ情緒主体の運営に対しての成功体験となっただけ。

もちろん、それはそれでいいわけです。
集団のメンバーがお互いの情緒に配慮して、みんなが「溶け込んでいる」状態だったら、そりゃラクでしょうよ。まさに涅槃の境地と言えるのかも?
そんな涅槃の境地にいるがゆえに、相違点を認め、説明によって合意形成を積み重ねることが必要となる現世には住めない。
現世の住人からの、客観的な説明を受けると、そそくさとトンズラしてしまうだけ。
だから、ますます説明能力とは無縁になる。

説明能力が低い人は、やり取りの相手から説明を求められると、それを被害として受け取ってしまうこともある。そもそも当事者意識があれば、たとえ最初はヘタクソでも、相応の説明能力はつきますよ。前にも書きましたが、説明能力の高い人のサポートを受ければいいだけだし、あとは、門前の小僧をしていれば、それなりに説明能力も向上しますよ。いい歳をして、説明能力がかなり低いということは、それだけ当事者意識がないということ。だから、被害者意識が強くなる。だから、何事も被害と考える習慣があり、説明そのものに対して苦手意識を持っているので、心理的に被害と認識してしまうわけ。

被害と認識するだけでなく、「情緒や立場を利用したやり取りが通用しなかったらどうしよう?」という恐怖心も持っている。恐怖心や被害者意識があるがゆえに、ますます立場を利用した命令を主体とした物言いになってしまう。

それに、説明能力のない人個人やその集団は、いかにも説明能力が高そうな人を見ると、妙に緊張したりする。だからこそ、心理的なインパクトが大きくなってしまう。
説明能力が高い人は、相手の話を聞く姿勢を見せるので、説明能力の低い人間にしてみれば、それがプレッシャーになってしまうわけ。あら探しをされるのではないかと警戒してしまうことになる。

「あら」はともかく、客観的な説明であれば、一貫性が要求されるのは当然のこと。
しかし、情緒だったら、断片のみのやり取りでしょ?
情緒のみのやり取りばかりなので、一貫した説明を受け取る能力自体が失調してしまっているんですね。
だから、一貫した説明を聞かなくてはならない事態になると、緊張してしまうわけ。

まあ、人間もそこそこの年齢になると、顔を見るだけで、その人の説明能力も想定できますよ。
だから、いかにもそれらしい人の前にいると、緊張してしまうんですね。
何というか・・・もはや、目が泳いでいるような雰囲気。
その目だけで、「こりゃ、マズイことになっちゃったなぁ・・・」と語っている。
つまり、その時点で恐怖心を持ってしまっているわけです。
その恐怖心がヘタをすれば敵対心になってしまうことになる。
敵対心となると、それなりに相手の目を見るでしょ?
ということで、今どの段階なのかについては、目を見ると見えてくるわけです。
まあ、もともと情緒を主体としてやり取りしてきた人は、それなりに情緒に配慮するので、露骨な敵対心にまではいかないことが多いもの。
ということで、説明能力の低い人は、その手の能力の高い人とのやり取りを避けてしまう。

と言うことで、説明能力の二極化が、ますます進行してしまう。
逆に言うと、一人の説明能力が低い人の存在は、その周囲の人も説明能力が低いことを示しているわけです。
命令と服従の関係なり、情緒への配慮という方法などで、その集団が「つつがなく」運営されている状態であっても、本質的には相互理解には至っていない集団なんですね。

個人として説明能力が低いことは、とりあえずはしょうがないわけですが、それに安住してしまい、周囲もそれにフィットした環境を求めてしまうと、結局は人からの説明への対応力がなくなってしまう。

そして、そのような説明への対応力がない人は、自我を消失した涅槃グループ以外では、自分の子供とのやり取りくらいしかできない。
しかし、その子供は、じゃあ、誰から説明能力を習得するの?
だって、親に対して説明しても、親からは鬱陶しがられるだけ。
親からは、「空気を読め」と要求されるだけ。

子供としてはどうすればいいの?
もう涅槃に旅立つしかないじゃないの?
まあ、現実的には、涅槃に旅立つまではいかないでしょうが、客観的な説明により相互理解を積み重ねていくことはできないでしょ?
そんな子供は、結局は、現世には居場所がなくなってしまうんですね。
ということで、現世において、親譲りの涅槃グループを作ることになる。
そうやって、二極化がますます進行していくわけです。