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カテゴリー ダメダメ家庭の被害者意識
配信日 10年12月25日
タイトル ため息を見せつける
以前に、「いちいち面倒な姿」というタイトルの文章をメールマガジンで配信しております。
当事者意識がなく、何事も「やらされている」という受け身の姿勢でいるダメダメ人間は、何をするにも、「いちいち面倒な姿」を、やり取りの相手に対して見せるわけ。
そうして、「こんなことは、ワタシはやりたいわけではないんだけど、アンタがそのように言うから、しょうがなく、やってやるよ。」と相手に対して恩を着せようとする。
恩を着せるだけではなく、「結果的に不都合な事態になってしまっても責任は取らないよ。」「オマエがやれといったから、やってやるだけなんだからな。」との無責任宣言になっているわけ。

別の言い方をすると、人から命令され、やらされているという被害を、言葉で語るのではなく、背中で語るわけです。
「はぁ〜、どっこいしょ・・・」
と、わざわざ、「いかにも面倒な姿」を周囲に印象付けようとする。
そして、「こんなめんどうなことをしているかわいそうなワタシ!」とアピールするわけです。

そんな姿を見た側は、「ああ!この人は、こんなに大変なのに、ワタシにために骨を折ってくれて・・・なんて、ありがたいんだ!」と思うの?
そんなわけないでしょ?
依頼を受けるのがそんなにイヤなら、そのように相手に説明することがスジと言うもの。
最大限の説明をしても、それでも追加で要求してくるようだったら、これはしょうがない。
しかし、そのように無体な命令をしてくる人と、やり取りを絶つことをまずは考える必要があるでしょ?

何気に付き合いを継続しながら、その人から頼まれると、いかにもイヤイヤの雰囲気で、対応していたら、嫌われてしまうことは確実ですよね?
相手からの依頼なり要求に納得しているのなら、サッサとその依頼に対処すればいいだけだし、その依頼に納得していないのなら、拒否したり、反論したり、「今回限り」と言い含めて対処するのが合理的な発想と言えるでしょ?
背中で被害を語るのは、結局は、コミュニケーション能力の不足であり、あるいは、「やらされている」という被害感情が、むしろ心地いい状態となっているわけです。

このように、ダメダメ家庭の人間は、「いちいち面倒な姿」をみせて、背中で被害を語るわけですが、それ以外の方法を使って、自分の被害を語ることもよくやっているものです。

それは、「ため息」を使う方法です。
それこそ、「はぁ〜」という、いかにもなため息を、相手に見せるわけ。
疲れた場合などに、自然とため息をつくことはあるでしょう。しかし、ダメダメ人間は、自分の被害を相手に語るためにため息を利用するんですね。自己アピールのツールとなっているわけです。

それこそ、ちょっとしたやり取りで、その人に対して補足説明を求めたとしましょうか?
そうすると、「はぁ〜」なるため息と、いかにも面倒くさそうな表情があった後で、「ぼそぼそ」と説明することになる。
しかし、そんな補足説明を聞かされた方は、その説明に納得するの?
そもそも、「ため息」と、「面倒くさそうな表情」を見せられた段階で、説明を聞く気にもならなくなってしまうものでしょ?

しかし、被害者意識が強いダメダメ人間は、「自分がわざわざ補足説明をした」という、自分の持ち出しというか被害に目が行っていて、「ワタシがこんなに面倒なことをして、アナタのために説明したのに・・・」と後になって言い出すことになる。

本来なら、やり取りに当たって、相互理解を達成することが成果と言えるでしょ?
その成果を出すために、やり取りの当事者がベストを尽くす必要があるでしょ?
補足説明もしたくないような人は、そもそも言葉によるやり取りなんてしてはダメですよ。

しかし、被害者意識が強いダメダメ人間は、被害にしか反応しない。
不調に終わったやりとりを振り返り、「自分がわざわざ補足説明した。」という被害と、「結局は、相手に同意してもらえなかった。」という被害を認識することになる。
そんな被害感情が積み重なり、ますます、何事も面倒くさそうに取り組みことになる。
そして、「みんなに分かってもらえない、かわいそうなワタシ!」と自己憐憫することになる。その自己憐憫が被害者意識には心地いい。

何も対面でのやり取りだけでなく、それこそメールでのやり取りにおいても、わざわざ「はぁ〜」なる文言を入れる人も、結構いるんですよ。皆さんも、そんな表記を見たことがあるのでは?
そんな人にしてみれば、
「あ〜あ、めんどくさ。」
「どうして、こんな簡単なことがわからないのかなぁ・・・」
「オレって、いつも人から誤解されているんだよね。アンタだったら分かってくれるかと思ったけど、ダメだったかなぁ・・・」と、むしろ上から目線となっている。

しかし、その人の文章が分かりやすい文章だとはとても言えない。
そもそも、そんなにめんどくさがりなんだから、相手にわかりやすいような文章にしようなんて発想自体を持っていない。そんな日々だから、文章表現力も低いまま。
文章表現力が低いのはともかく、追加説明を求めても、まさに「はぁ〜」と不満な表情となってしまう。そして、メールに「はぁ〜」と書き込むことになる。

人とのやり取りに当たっては、「このことはどうしても分かってほしい!」なんて気持ちがまるでないのに、やり取りをしている。
相手に分かってほしいことがあるとすれば、「ワタシがかわいそうな被害者だと分かってほしい。」ということくらい。逆に言うと、だからこそ、そのことを、言葉を使って客観的に語るよりも、ため息で語ったり、背中で語ったりするわけです。

「アンタは、どうして、こんなことも分からないのかなぁ・・・」なんて上から目線で不満を表明はしても、そんな人は「一つの案件を、一つの文章」にまとめることすらできない。色々と不満を持っているのなら、それを客観的にまとめればいいのに、そんなことすら「めんどくさがる」わけです。
その人の最大限の表現能力をもって、相手に説明して、それでも相手が分かってくれないのなら、「どうして分かってくれないんだ?」との不満になってしまうのもしょうがない面もあるわけですが、「てきとう」「あ〜あ、めんどくさ」という雰囲気でやり取りをされても、そんなやり取りで相手に伝わるのは、その人のダメダメさだけでしょ?

まあ、現実的にはそんな人とのやり取りは長く続くものではない。
ため息を示して、被害を主張して来る人の相手の側は、当然のごとくイライラしてくる。だから強い調子の言葉を言うハメになる。
まあ、その前段階で、ため息ばかりの人が、そそくさと逃げ出してしまうことが通例です。

そうして、別のところで、「オレって、いつも誤解されているんだよね。アンタだったら分かってくれるかと思ったけど、ダメだったかなぁ・・・」「ホント、この世はオレたちに冷たいよね。」と、上から目線での、ため息を繰り返すことになる。

これが知人のような対等というか同格の間柄だったら、大きな問題にはならない。
ため息を見せられた側が、不快な思いをするくらいで済む。
前にも書きましたが、そんな人とのやり取りなんてスグにしぼんでしまって、ため息の人は、捨てセリフを投げ付けてトンズラしたり、あるいは、「後で連絡する」とかの曖昧な言葉を残して、トンズラするものですよ。

しかし、そんな人が、結婚し、親となってしまう。
そんな親が子供とどのようにやり取りをするの?

そんな親に対して、子供が何を尋ねても、まずは、「はぁ〜」とのため息。
そして、「そんなことも、分からないのか?」「そんなことも、自分でできないのか?」と、グチが続くことになる。
親からのグチを聞いていたら、最後には、求めていた対処が得られるのか?というと、そうではない。
結局はグチで終了してしまい、子供が求めていたものは何も得られないまま。

前にも書いていますが、知人同士の間柄だったら、そんな人とはやり取りは続くわけもない。
しかし、そんな人が親だったら、やり取りというか関係は、子供の意向に関わらず続くことになる。
そんな親とやり取りをしているので、「背中で被害を語ったり」「ため息でめんどくささを語る」ことが、結局は、子供にも身に付いてしまう。

現実でも、あるいは、メールのやり取りでも、やたらため息を強調する人って、いますよね?そんな人は、説明能力が低いものでしょ?そして、そんな人が語っているのは、結局は被害感情だけでしょ?
そんなため息からは、その親の姿が見えてくるわけです。
ため息というものも、まさに「子は親の鏡」となっているわけです。
そんな人は、やり取りにおいて分かってほしいことそれ自体がなく、だからこそ、分かってもらいたいという気持ちとも無縁。
そんな人とのやり取りが楽しいわけがないんですが、その人の子供としては、やり取りをしなくてはならない。周囲の人がため息人間を避けてしまうので、そんな、ダメダメな親とやり取りをするのは、結局はその人の子供だけになってしまう。だからこそ、自分の子供に対して、ため息いっぱいでグチをますます語ることになる。

そんなダメダメな親を相手側としてのやり取りにおいて、「あ〜あ、こんなやり取りはしたくないなぁ・・・」と、ため息をしながら、被害感情を持ちながらやり取りをしていると、結局は親と同じようにため息が身に付いてしまうだけ。実際に、対面でのやり取りにおいても、あるいはインターネットの掲示板においても、これみよがしのため息を強調する人もいるでしょ?
そんなため息人間と、たとえ、やり取りをするハメになったにせよ、精神的な距離感を持ち、同化しないように自分自身を強く持つことが必要になるわけです。
ため息の背景には被害感情があり、その被害感情を受け入れてしまったら、自分もダメダメになってしまうだけ。
たとえ、その人が気の毒な境遇であるにせよ、その人なりの考えを的確に説明できるようにならないと状況の改善なんてありえないでしょ?
しかし、ダメダメ人間は、自身の境遇なり不満を客観的に説明することすら、ため息とともに、めんどくさがるだけなんですね。