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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
アップ日 10年12月29日
タイトル 結果の受け入れ方
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。
自分なりに達成したい目標があるわけではない。
目標そのものがないんだから、自分なりに努力することもないし、結果的に達成できたかどうかについて、後になって考え直すこともない。

ただ、「人に合わせて」「てきとう」に生きている。
そして、そんな「人に合わせる」だけのライフスタイルを「ふつう」と言って称揚することになる。
求める結果を得るために努力することがないので、その手の人は、現状を認識することはない。
達成したい目標があるのなら、現状をふまえ、改善点を見いだしていく必要があるわけですが、目標そのものがないんだから、現状なんて見る必要もない。と言うか、ヘタに現状を見てしまうと、不都合なことが見えてしまうだけ。

達成したい目標もなく、なんとなくで生きているだけなので、逆に言うと、結果というものとの接し方がわからない。

それこそ、学校の試験での例を考えてみましょう。
試験があれば、それなりに準備することになる。
準備しても、結果的にダメの場合もある。
結果的にダメだったら、自分が行った試験準備について、自分なりに見つめ直す必要があるでしょ?
「もっと早くから準備する必要があった。」とか、「参考書を別のものにした方がいいかも?」とか、「あの子と一緒に勉強したのがマズかったのかな?やっぱり勉強は一人でやらなくちゃ!」という自問自答も起きるでしょう。
逆に言うと、そんなチェックをすればいいだけ。そして、次に生かせばいいだけ。

たとえば、上位10番以内に入るという目標を掲げ、そして、結果的に12番だったら、準備の仕方を修正することになる。
しかし、目標も何もなく、「な〜んとなく」試験を受けただけだったら、後になって、自分の試験準備を見つめ直すことはしないでしょ?
それこそ、試験の後になって、「ああ!赤点を取らなくてヨカッタ!」となるだけですよ。

と言うことで、次の試験でも、同じように準備して、やっぱり「赤点を取らなくてヨカッタ!」と安堵したり、「あらら!今度は赤点を取っちゃった・・・」と嘆くことになる。そして、そんな感想で終わってしまうことになる。
結果をふまえ、次のアクションにフィードバックするのが本来のあり方なのに、目標が存在しないと、フィードバックとは無縁になるわけです。

目標があるからこそ、その時点での結果と向き合うことができるのであって、目標そのものがなければ、結果も何もありませんよ。
その時点での結果が、目標とするものに到達したかどうかの問題ではなく、目標そのものが存在していないわけです。だから、結果についても、その「意味」が喪失してしまう。

だから、当事者意識が欠如したダメダメ家庭の人間は、「結果との付き合い方」なり「結果の受け入れ方」が分からない。
結果を受け入れると言っても、現時点では目標の「何%」分だけ達成できた・・・それくらいで十分でしょ?
しかし、目標そのものが存在しないんだから、そんな評価もできないわけです。

結果との接し方ができないがゆえに、結果とは無縁の領域を好んだり、あるいは、結果が出ないようなシステムにしようとする。
それこそ、学校での成績を付けない・・・なんてことを求めたりする。
本来なら、学校での試験によって、その時点での達成度合いをチェックすればいいだけ。
しかし、目標そのものがないんだから、達成度合いも何もない。
だからこそ、その時点での結果も意味がない。
意味がないんだから、ヘタに自分の目の前に出てきてしまうとジャマくさい。
だからこそ、自分の目の前にその結果が出ないようにしたい。

学校に対して、過激に抗議したりする親たちの行動を考えるにあたって、「結果というものとの接し方」が分からないという心理を想定すると、その手の親の心理も見えてくるでしょ?彼らとしては、「結果を見たくない。」と思っているわけです。だって、その手の人にしてみれば、結果なんて百害あって一利なしのものなんですからね。

学校に対して過激に抗議して、結果が顕在化しないように主張する親もいるわけですが、そもそも、結果と向き合うのがキライなんだから、結果と無縁の領域を求めることが多くなる。
その代表が家庭です。

家庭は、結果で評価される発想とはなじまない。
これについては、そんなものでしょ?
多くの人は、家庭そのものについて高い評価を得るために、自分の家庭を維持運営しているわけではないでしょう。
むしろ、結果を出さなくてもいい場所として、家庭という場がある・・・そのように言えるでしょ?
しかし、逆に考えれば、現状を認識し、その時点での達成度合いなどをチェックするという発想が出来ない人にしてみれば、家庭という場しか生きられないわけです。
家庭という場であれば、結果を直視する必要もなく、安心して、自己逃避や現実逃避をすることができる。そして、実際に何も考えない。
その手の人にしてみれば、家庭の外の世界において、色々と考えて、そして、家庭の中においてはノンビリとしているのではないんですね。現実逃避で自己逃避の人間にしてみれば、結果とは無縁である家庭しかいられないわけです。

だからこそ、そんな家庭の親は、自分の子供が、現実世界でのトラブルを家庭の中に持ちこむことを拒絶することになる。
ダメダメな親にしてみれば、家庭という場は、思考停止状態を満喫できる、唯一の居場所になっている。
そんな家庭の子供が、親と同じよう現実逃避になって、それこそ登校拒否とかになってしまうのも、当然でしょ?

本来は、現実から逃避し、何も考えないような人間と一緒にいても不快になるだけですが、その手の人は、自身では何も考えないが故に、日頃から人に合わせているだけになっている。だからこそ、コミュニケーション不全の人間にしてみれば、扱うのにラクな人と言える。
人に合わせてばかりなので、やり取りの相手方のヘタクソな物言いに対しても、それなりに合わせてくれるわけですからね。
理解して対処したわけではないにせよ、少なくも逆らうことはない。
だから、とりあえず「問題が顕在化」することはない。

そして、「人に合わせる」ことしか能のない人間にしてみれば、家庭という居場所に落ち着いてしまえば、将来的にも何も考えないで済むことになる。
そう言う意味では、利害が一致することになる。
コミュニケーション不全の人間と、思考停止で抑圧的な人間がくっつくことになる。
と言うことで、「何も考えない場所」として、新たな家庭ができてしまう。

自分では何も考えずに「人に合わせてばかり」の人なので、まさに、周囲の「人に合わせて」子供を作ることになる。
しかし、そんな子供はどうなってしまうの?
だって、そんな家庭を作った側にしてみれば、現実逃避で、自己逃避の人間がやっと到達した居場所としての家庭という位置づけなんだから、子供という現実と向き合う発想そのものがありませんよ。
ダメダメな親は、何も考えたくないがために、家庭にいるのであるので、家庭内外での事態に対処する能力がない。というか、事態に対処するという発想そのものを持っていないわけです。

ダメダメ人間は、自分なりの目標などを持つことはない。
そして、目標や成果という発想とはなじまない家庭という存在に逃げ込んでいるダメダメな親としては、結婚前の状態に輪を掛けて、目標とは無縁になっている。
だからこそ、「ふつうの家庭を築きたい。」と周囲に対して言ったりする。
「ふつうの家庭を築きたい。」ということは、周囲と違いがなければそれでOKということでしょ?それだけ、自分なりの目標を持つことができないわけです。

それこそ、「家族が笑顔でいられるような楽しい家庭を築きたい。」とは言えないわけです。
「楽しい家庭」というのは、目標としては実におぼろげと言えますが、一応は目標の体をなしている。
しかし、思考を恐怖するダメダメ人間にしてみれば、「楽しい家庭」という目標すら存在しない。
あくまで「人に合わせるだけ」の「ふつうの家庭」なんですね。
「ふつうの家庭」なんだから、とにもかくにも、「大きな問題がなければそれでいい。」となっている。人に合わせてばかりで、家族の意向を聞くこともしないんだから、結果的にトラブルが発生してしまうのは、本来なら小学生でもわかること。

子供がトラブルを起こしたら、それはそれでそれまでの家庭運営なり子育ての結果と言えるでしょ?
しかし、結果の受け止め方が分からないんだから、何も対処しない。
と言うか、その結果を見ないようにするだけ。
どうしても、見えてしまったら、「あ〜あ、時代が悪い!」とか「政治が悪い!」とか「学校が悪い!」とか「あの○○が悪い。」とか、あげくに「夫が悪い。」と言い出すことになる。
夫に問題があるのはともかく、だったらなおのこと、そんな夫と結婚した自分の問題を見つめればいいわけですが、そんなこともしない。
そもそも、自分では考えたくないがゆえに家庭にいるんだから、家庭内で自分の目の前で起こった結果を受け入れようがない。

それに、そもそも当事者意識がなく、何も考えず、何も判断しないんだから、不都合な事態は、自分の失敗と認識するのではなく、自分の被害と認識することになる。そして、その被害者意識が大きくなっていく。
だから、それこそインターネットの掲示板でウサをはらして喜んでいる。
そんな親の姿を見た子供がますます問題行動を起こすのは当然のこと。

会社などで働いた経験があれば、結果との向き合い方が多少は経験的にはできることになりますが、それこそ学校から直接に近い状況で結婚したがる女性は、結果との接し方ができない人のケースが多いんですね。結果との接し方ができないということは、現実との接し方ができないということ。

そして、不都合な事態に直面して、クレーマーなり市民運動に入れ込むことになる。
まさに「あの○○が悪いんだ!」「ワタシは悪くない!」と行動することになる。

クレーマーや市民運動や、あるいは、それに類するボランティアたちは、色々と活動はしても、結果を出すことはないでしょ?
求める結果を出すために、そんな活動をしているわけではないでしょ?
それこそ、ボランティアの連中は、「てきとう」にサポートはしても、最後までは付き合うことはない。成果というか結果が顕在化してくると、「あとはアンタたちの問題でしょ?」とサッサとトンズラしてしまうだけ。

そんな人が家庭を持っていたら、その家庭の子供が問題行動を起こすに決まっているじゃないの?必要もないのに、人の問題に首を突っ込んで、結局は途中でいなくなる人間が、子供とどのように向き合うの?最後まで向き合うの?
しかし、現実においては、事態の最後まで向き合い、結果を受け入れることができない人間の唯一の居場所が家庭となっている。
だからこそ、そんなダメダメ家庭が次々と誕生し、そして連鎖してしまうわけです。