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カテゴリー ダメダメ家庭の対抗心
アップ日 11年1月15日
タイトル 解放論という縛り
ダメダメ家庭の人間は「大義にすがる」ことは、以前にメールマガジンの文章として配信しております。自分で考えることから逃避し、そして、人に対して説明することに対して恐怖心や苦手意識を持っているダメダメ家庭の人間は、周囲に対して通りのいい立派なご高説を掲げることで、思考や説明から逃避するわけです。

また、以前にはメールマガジンにおいて、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を集中的に取り上げましたが、その中で、「○○からの自由」と「○○をする自由」を明確に区別することにより、心理的な抑圧状況にある人間の言動が見通しがつけやすくなることをフロムは指摘しております。
「○○をする自由」は、くだけた言い方をすると、「自分がやりたいこと」であり、「○○からの自由」は、「あの○○のせいでうまくいかない!」という犯人認定の心理につながるわけです。

そして、その「○○からの自由」は、犯人認定の心理であるがゆえに、敵認定となり、「その○○をやっつけろ!」と対抗心につながってしまうことになる。あるいは、「あの○○さえやっつければ、我々の問題はすべて解決だ!」と「約束の地」のような発想につながっていく。
これらの心理は、このメールマガジンなり、このサイトにおいて、今まで頻繁に取り上げてきております。

さて、「○○からの自由」ですが、それが立派な大義としての色彩を帯びると、「解放論」と言った趣になります。
解放論と言うと、よくあるのが婦人解放論とか、労働者の解放とか、歴史的には奴隷とか人種とか民族の解放とか色々とありますよね?

あまりに過酷な状態にあるようならば、そのような制度的な対処も必要になるでしょう。
それこそ、言論の自由もなく、選挙権もなく、デモ行進もできないような状態だったら、解放を目的として、いささか過激な方法を取るのもやむをえない。
しかし、それなりに言論の自由があり、選挙権もあるような状態だったら、つまり、制度的な問題ではない状態だったら、解放論よりも、もっと具体的で地道なアクションの方が有効でしょ?
それこそ、「○○からの自由」から「○○をする自由」にシフトした方が有効なんですね。
だって、立派な業績を上げた女性とか、敬意を持たれている黒人の方の存在こそが、女性とか黒人の地位を高めてくれるわけでしょ?
業績もないのに、高邁な解放論の連呼だけでは、抽象的な理念で終わってしまい、実感的な敬意にはつながりませんよ。
業績を上げる際のハンディキャップを地道につぶしていき、卓越した業績を示すことの方が有効なんですね。

しかし、そのような思考は「○○をする自由」を掲げることができる人間、つまり当事者意識があるからこそできること。当事者意識がないダメダメ人間は、「○○をする自由」つまり「自分はどうしたいのか?」について自分で考えることができない。
と言うことで、理念というか大義としての「解放論」にすがりつき、周囲にクレームをつけることになる。そして、「解放されていないから、自分たちは何もできないんだ!」と自分に言い聞かせることになる。しかし、立派な大義を語るのはいいとして、そんな人にも、身近に色々とやれることがあるわけですし、やらなければならないこともあるわけです。

女性解放論というと、以前にメールマガジンで取り上げたチェーホフの「ワーニャおじさん」の母親のヴォイニーツカヤ夫人が、婦人解放論の書物を熱心に読んでいるというキャラクター設定でした。そんな本を熱心に読むのはいいとして、彼女は、女性としてのハンディキャップを意識していたの?じゃあ、そのヴォイニーツカヤ夫人は、具体的には何をしたいの?具体的にはどんなハンディキャップがあるの?そんな具体こそが重要でしょ?
本来は、そこそこ余裕があるヴォイニーツカヤ夫人なんだから、女性としてハンディはあるにせよ、色々とチャレンジしてみればいいだけ。
そうなんですが、彼女は何もしない。というか、彼女の孫娘であるソーニャを助けようともしない。もし、女性としてハンディを感じているのなら、身近な女性であるソーニャをサポートすることが先でしょ?
しかし、ヴォイニーツカヤ夫人は立派な解放論の書物を読んでいるだけ。
それどころか、「オマエたちは、何も考えずに、あの偉い○○先生に従っていればいいんだ!」と周囲に要求したりする。
「従っていればいいんだ!」という言葉と、解放という言葉は、本来は相反するものでしょ?

つまり、ヴォイニーツカヤ夫人は、自分が何もしないための言い訳として、女性解放という言葉を持ち出しているだけなんですね。
解放論と言うと、立派な大義があるように見えるわけですが、現実的に見ると、身近な問題から逃避して、そして、自分なりの目標を掲げることからの逃避と見た方が理解しやすいわけです。「○○からの自由」を声を大にして主張することで、「○○をする自由」から逃避していると言ってもいいでしょう。
まさに、「我々△△には、こんなに事情があるから何もできない。」という言い訳を事前に、そして格調高く示すことができるのが、その手の解放論と言えるわけです。

さて、日本で女性解放となると、有名な女性で市川房江さんという方がいます。第2次大戦前から活動なさっておられた女性です。
ちなみに、その選挙ボランティアをなさっておられた方が、現在(11年)の日本の首相をされている管さんであることは有名ですよね?
その市川房江さんは、国会議員として長く活躍し、選挙においては、非常に多くの得票数を上げていました。
女性解放のために努力した市川房江さんですが、じゃあ、彼女の実績となると何だろう?
その女性解放というか、女性の地位向上のために、どんなことをして、どんな法律になったの?
女性解放運動に活躍という市川さんの枕詞はともかく、じゃあ、具体的な実績って何?
あるいは、市川さんの功績によって、女性の地位はどのように向上したの?
解放して何をしたの?
実際に立派な業績を上げた女性は、その市川さんに感謝しているの?
市川さんは「運動」には貢献したかもしれませんが、「結果」には貢献していないと言えるのでは?

もちろんのこと、第2次大戦前における市川さんの活動は、意義があるといえるでしょう。
なんと言っても、法律の次元で男女間で差があったわけですしね。
しかし、第2次大戦後は法律的には差がなくなったわけだから、そこからは、第2次大戦前までの方法論や目的意識とは別の発想を取る必要があったのでは?
それこそ財団でも組織して、奨学金などを整備して、優秀な女の子が進学しやすい環境を作ってあげるとかの具体的なサポートに軸足を移した方がよかったのでは?
もちろん、彼女なりに真摯に活動なさったのでしょうが、今となっては、成果としては何も残っていないのでは?
残っているとしたら「お弟子」扱いといえる菅さんくらいと言えるでしょう。

まあ、弟子が総理大臣になったんだから、その面では成果と言えるでしょう。
その市川さんですが、「○○からの自由」には視点が行っていたようですが、「○○をする自由」への目配りができていないのでは?
もちろん、それこそが解放論の属性と言えるわけですが、だからこそ、「で、結局は、何がしたいの?」という問いかけに対する逃避の心情を持つ人間から支持されたのでは?
まさに、「ワーニャおじさん」におけるヴォイニーツカヤ夫人のように、体のいい言い訳として活用された面もあるのでは?解放論にすがりつくことによって、「あの○○のせいで、自分はやりたいことができない。」と格調高く言い訳できるんですからね。
市川さんを支持した人には、そのような言い訳を求める心理がある人が多かったのでは?
まあ、実際にそんな人をご存じの方もいらっしゃるでしょうね。

さて、成果を志向するのではなく、解放論を向いたスタンスを持ち、「○○をする自由」から逃避して、「○○からの自由」を志向し、「で、結局は、何がしたいの?」という問い掛けから逃避しているとなると、菅さんもまさにそのパターンと言えるのでは?

その菅さんですが、「○○からの自由」と「○○をする自由」の乖離という抑圧的な心理という視点から見ると、実に見通しがよくなるでしょ?
彼は、「官僚政治からの自由」を掲げ、「自民党政治からの自由」を主張し、「小沢一郎からの自由」を実行している。
あるいは、「最少不幸社会」という言葉を用い「不幸からの自由」を語っている。
しかし、「○○をする自由」は何も持っていない。だから成果も何もない。
成果がないどころか、総理大臣として、いわば位人臣を極めても、相変わらず「○○からの自由」の「○○に該当する対象」つまり自分の対抗心の対象を探し回っている。
しかし、自分の達成したい目標を探すことはない。
まさに、「解放」のために行動はしても、「達成」のためには何もできないわけです。

「ワーニャおじさん」におけるヴォイニーツカヤ夫人が自身としては解放論を共感を持って読んでいながら、人に対しては「文句を言わずに従え!」と要求するように、現実的には、解放論は、拘束につながってしまう。「○○をする自由」と対立するものとして、解放論と、拘束は心理的には共通性があるわけです。
解放論と、自身への縛りは密接に関係しているとみることができるものなんですね。
抑圧的な人は、解放論という縛りで、自らを拘束することになる。
私としては、このような指摘を、ためにしているのではなく、この手の問題は常に起こっていること。

それこそ、資本主義による圧迫から労働者を解放するはずだった共産主義社会は、資本家はともかく、一般の労働者をも、厳しく拘束したわけでしょ?
まさに、相互が監視しあう恐怖社会になりましたよね?
女性解放運動だって、ちょっとでも男性に融和的な姿勢を見せると、それこそ「裏切り者を断固糾弾せよ!」と怒られてしまうでしょ?
あるいは、左翼学生運動も、結局は、内部で拘束しあってリンチをし合っただけ。
「○○からの自由」に留まっているがゆえに、むしろ「自分たちからの自由」が切実な問題になってしまう。
このような流れは、フランスのジル・ドゥールーズが指摘するまでもなく、歴史の上では常に起こっていること。

そんなことよりも、「○○をする自由」を自覚し、立派な業績を上げれば、地位が向上すると言うだけではなく、それこそが「解放」と言うものでは?
成果を上げることを想定していない解放なんて意味ないでしょ?
解放に意味を持たせるのは、業績なんですね。
自身の目標を見ている人こそ、そして、地道にしっかりとやりとげる人こそ、解放につながり、そのための方法論と結果こそが解放に導くのでは?
哲学的な言い方をすると、自身の欲望を解放することこそが、自身の尊厳へとつながるのでは?
目線が、成果ではなく、解放論を向いている人は、犯人認定に堕してしまう。
そして、言い訳ばかりになってしまう。
そんな人が語る解放論は、所詮は言い訳なので、都合のいい時だけ、解放論を持ち出し、「アイツのせいでうまくいかない!」と言うばかり。
そして、自分に思考停止状態を保証してくれる解放論をありがたがり、周囲にも要求する。まさに、「オマエたちは、文句を言わずに、この解放論に従っていればいいんだ!」という、よく考えれば論理矛盾そのもののような言葉となってしまう。

そのような解放論の使われ方は、それこそダメダメ家庭出身者が、ダメダメからの脱却を声高に語る際にも典型的に見られるもの。
「親のせいで、うまくいかない!」
「親を反面教師にしている!」
と、豪語いたしますが、達成したい自身の目標は何も語れない。
結局は、言い訳として、ダメダメな親の存在を有効活用してしまっている。
そんな人が多いでしょ?

市川さんの不肖の弟子?たる菅さんですが、達成ということがアタマに入っていないという点では、嫡流と言えるのかも?
成果そのものが、その人の本質を見せてくれるもの。
解放論の成果が拘束であることを考えてみれば、その手の解放論にすがるのは「従う」ことを求めるマゾヒズムがあるからなんですね。
マゾヒズムは自己否定であり、まさに自分でやり遂げたいと考えること自体を抑圧すること。実際に、解放論を語る人が達成したものとなると、単にそれまでの状況を否定して、ひっくり返しただけとなっているでしょ?肯定的な業績は達成されていないものでしょ?
逆に言うと、自身の達成目標を考えることからの逃避の大義として、解放論は効果的なんですね。

解放論という縛りは、もっともらしい言葉を使うくらいの知能くらいは持っているヘンタイさんにしてみれば、なかなか心地いいものなのかも?
ただ、個人の趣味趣向はともかく、そんな方法で、自分以外の人間を縛るようなことをされてもたまらない・・・と思うでしょ?
 R.11/2/3