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カテゴリー | ダメダメ家庭にないもの |
アップ日 | 11年1月25日 |
タイトル | 自然な笑い (笑顔) |
「ダメダメ家庭は笑顔がない家庭である。」などと書くと、多くの人も、たぶん同意されるでしょう。 しかし、まあ、そんなことは誰でも書けること。 だから、ヒネリが多いこの私がわざわざ書くまでもないでしょう。 しかし、ダメダメ家庭において、笑いなり笑顔がないのは、現実のこと。 笑いということですと、以前にちょっと言及いたしましたが、イタリアのウンベルト・エーコの原作を映画化した「薔薇の名前」という映画が、その笑いというものをテーマにした作品でした。 「笑いというものは、対象を真剣に見つめ、そして、それをヒネリや才気をもって表現することにより生まれてくる。」そんな内容を持っていました。 つまり、笑いをもたらすためには、対象を真剣に見つめ、そして的確に認識する洞察力が必要ですし、その知見を、人が気がつかないような方法を持って表現する才気も必要になるわけです。 そのようなことをするためには、かなりの知性が必要になりますよ。 必要となる観察眼や表現力という面において、マトモ家庭の人に於いても笑いを作り出すのは難しいわけですが、そこにダメダメ家庭のファクターが入ってくると、さらに難しくなる。 頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭は現実逃避であり、目の前の現実を直視するようなことはしない。 むしろ、権威筋認定のご高説を、問答無用に連呼したり、人から言われたことをオウム返しするだけ。 だから、自分の心の中に何も残らず、「これを表現したい!」「これを分かってほしい!」という気持ち自体を持つこともない。 ちょっとした対象から、人が気がついていないような点を見つけ、それを、手垢がついていないような新鮮な形で表現し、周囲の人を喜ばせるようなこととは、どうしても無縁になってしまう。 しかし、本来は、ありきたりのものから、今まで気がついていないようなところを見せてくれると楽しいものでしょ? それこそ、今までにない指摘や表現を受けて、 「ああ!そうそう!あの人って、たまにこんなことをするよね!」とか、 「そうなんだよね!ボクたちも、こんなことをやっちゃうよね!アハハ!」なんて思うこともあるでしょ?普段は何気に見ていたものも、それを契機に新鮮に見直すことができるでしょ? そんなことができるためには、相応の観察眼と、表現力が必要になる。 そして、笑いをもたらすものを作り出すだけでなく、表現されたものを受け入れることにおいても、相応の、感性の面なり知的な土壌が必要になる。 だって、今まで、何となくだけど、持っていた感情なり違和感の土壌があるからこそ、ピンポイントでの指摘に反応して、それが笑いになったりするわけでしょ? 物事に接しても、何も違和感を持たなかったり、何も印象が残らない人は、「ああ!そうそう!アンタ、うまいことを言うね!」なんて笑いにはなりませんよ。 面白い表現に接して、それを笑って受け入れることができる背景には、物事に接して印象を受けたり、違和感を持ったりする精神的な土壌が前提として必要になるわけです。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、抑圧的である・・・このことは前にも書いています。 自分の感情を抑圧し、自分の希望を抑圧し、だからこそ、「この人に対して、このことを分かってほしい!」という気持ちも持っていない。 分かってほしいという気持ちがないので、表現力がつかない。 だから、誰かが行った才気がある表現に対して反応することもできない。 抑圧的な人間ができることは、規格品的な考えを学び、消費するだけ。 まさに「正しい考えを学ぶ。」というスタンスに徹している。 笑いという面においても、消費者的なスタンスになっている。 だから、ダメダメ家庭においては、人に見せるための作り笑いはあっても、心からの笑顔がなくなってしまう。 それに、ダメダメ家庭は被害者意識が強い。 ダメダメ家庭の親は、「子育ては親である自分が押し付けられた被害」と認識している。 そんな基本認識なので、もし、その親の前で子供が笑っていると、親の被害者意識が刺激されることになる。 「ワタシはこの子供を育てるために、こんなにイヤな思いをしているのに、この子は、ヘラヘラと笑っている。こんなことが許されていいのか?!」と立腹することになる。 こんなことだから、子供だっておちおちと笑っているわけにはいかない。 親の前では苦虫を噛み潰した顔になってしまうのも当然のこと。 しかし、ダメダメ家庭においても、笑いはあったりする。 それは、人を笑い飛ばす類の笑い。 それこそ、嘲笑に近いような笑いのようなもの。 別の言い方をすると、笑い飛ばすことで、その対象が自分よりも下であるという関係性を、確定させようとするわけです。 それこそ、そんな人の書いた文章中に、ムダに「笑」なる記号があったりする。 その笑いが自分で自分を笑う趣だったらいいわけですが、コンプレックスが強く、自分よりも下の存在がほしいダメダメ人間は、何かを笑い飛ばすことによって、笑い飛ばした対象を、自分よりも下の存在として規定しようとする。 笑いと言っても、洞察力や表現力に裏付けられたシンプルな笑いもあれば、コンプレックスに基づいた笑いもある。そして、ダメダメ家庭においては、コンプレックスに基づいた笑いがあるだけになっている。 だから、そんな家庭における笑顔も、必死で何かを笑い飛ばす雰囲気になっている。 まさに、目を血走らせて、「ここで笑っておかないと、自分が危ない。」という危機感を感じさせるような笑いになってしまう。 そうして、人を笑い飛ばすことで、自分の現状を見つめることから逃避するわけです。 それこそ、テレビを見て人をバカにする時での笑いがあるばかり。 ダメダメ家庭におけるそんな笑いのスタイルが、世代を超えて、場所を変えて連鎖していく。それこそ、インターネットの掲示板で、(嘲笑)とかの表記をわざわざ書き込んだりする。まさに「子は親の鏡」そのもの。 しかし、そんなことをしても、当人自身がつまらない人間であることは変わらず。 ダメダメ家庭の笑いは、余裕に基づいたものではないんですね。 そもそも、ダメダメ家庭の人間は趣味を楽しんだりもしないことは、別のところで書いています。 趣味の分野だったら、失敗しても、それこそ笑い事で済みますし、やっている最中に笑ってしまうようなこともあるでしょ? ダメダメ家庭にある笑顔は、マトモな家庭の人がする自然なものではなく、目を血走らせて他者を必死に笑い飛ばそうとするものだったり、あるいは、北朝鮮の人のような凍りついた笑顔だったり、あるいは、自分自身から逃避して、逃げ場を意識した薄ら笑いのようなものしかない。 それらは自然な笑顔ではなく、余裕の欠けた笑顔でしょ? それこそ、カルト団体のメンバーの笑顔は、笑顔自体が存在しないか、あるいは、それこそ、上記に列挙した余裕のない笑顔でしょ? カルトというものは、権威筋認定の正しい考えを学ぶというスタンスで生きている。 学ぶだけだから、自分では考えなくてもいい。 自分では考えていないわけだから、自己責任も発生しない。 つまり、カルトは自己否定状態を提供することによる、人間の解放をその手法としているわけです。 しかし、自己否定であるがゆえに、別の言い方をすると、人の感情なり知性を否定しているがゆえに、自然な笑いとも縁がなくなってしまう。 自然な感情を肯定すれば、笑うこともありますよ。 しかし、感情そのものを全否定することで、「苦痛」から解放しているのがカルトなんだから、自然な笑顔はありえない。 実際問題として、カルトには自然な笑いがないでしょ? 宗教系のカルトでも、政治団体系のカルトでも、市民団体系のカルトでも、その手の人たちが自然な笑顔でいるところを、皆様も見たことがないでしょ? むしろ、それこそ「子供には見せたくない!」などと言いながら、笑いにつながるものを排除しようとするものでしょ? 自然な笑いを生み出す心理的な土壌は、カルトとは対極なんですね。 物事を的確に洞察し、そして、それを才気を持って表現すれば、笑いも生まれますが、ある意味において、それは苦悩にもつながってしまう。 なぜって、物事を的確に観察し、洞察すれば、楽しいことばかりが見えるというものではありませんよ。 商品として笑いにつながるものを作り出す場合は、そのあたりのバランスを調整する必要があるでしょう。 だからこそ、そのバランスのために、笑いに繋がらない面がその人の心の中に残ることになる。 だから、ギャグ的な作品を作る人は、そのジャンルがなんであれ、意外にも「根暗」の人が多かったり、あるいは、その作家としての寿命が短かったり、あるいは、その一生そのものが短かったりするもの。 それだけ、精神に負担がかかってしまうものなんですね。 実際にギャグ的な作品を作るようなことは、一般の人にとっては、なかなか難しいでしょう。 自然な笑いを作るためには、色々なことを考えなくてはならないもの。 ちょっとしたネタも必要ですし、表現力も必要になる。表現力と言っても、文章のボキャブラリーの問題だけでなく、それこそ「間」のような問題もある。 そして、何よりも、「人に楽しんでもらいたい。」という気持ちが必要でしょ? たとえば、カルトの人たちは、「ワタシは悪くない!」ということを言いたいがために、笑顔を作るもの。しかし、カルトの人は、部外者に対して、「部外者の皆さんも、笑って、楽しんでほしい。」という発想は持っていないでしょ? 楽しんでほしいという気持ちそのものがない状態だったら、どんなことをしても、共感は得られないでしょう。 逆に言うと、楽しんでほしい、笑ってほしい・・・という気持ちを持って、日々を生きることも、ダメダメからの脱却の方法としては意味があるのでは? メールマガジンの最終回で取り上げたロシアの作家のチェーホフは、父親に虐待されて育ちましたが、彼は少年時代から、自分でコントを作って、それを一人で知人や家族の前でやっていたそうです。 彼に、もともと卓越した観察眼があったことは当然でしょうが、そんなコントを制作することで、観察眼も表現力も、ますます磨きがかかるわけです。 そのようなことを通じて、出身家庭のダメダメを繰り返すことを避けることができたわけです。 自己逃避するための笑いや、コンプレックスから来る引きつった笑いを、いくら組み合わせても、本当の笑いにはならない。 卓越した観察眼や表現力は、当人の努力だけの問題ではないでしょう。 作り出すだけでなく、優れた人が作り出した笑いを受け入れるにも、相応の現状認識や思考や問題意識も必要になってくる。 そんな笑いは、その人の尊厳につながっているわけでしょ? つまり、カルトの人達のような自己否定の笑いではなく、自分自身を肯定しての笑いと言えるわけです。 それこそ、イタリア・オペラの巨匠と言えるジュゼッペ・ヴェルディの最後のオペラは「ファルスタッフ」という作品です。ご存じシェークスピアの原作をオペラ化したものです。その最後はこのようなセリフになっています。 まあ、これがヴェルディ最期の境地と言えるのかも? Ma ride ben chi ride La risata final 最後に笑うものだけが、 本当に笑うものなのだ。 |