トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ家庭にないもの |
アップ日 | 11年1月27日 |
タイトル | 怒り (憤怒) |
一昨日、ダメダメ家庭では笑顔がないと言う内容の文章をアップしております。 まあ、そんな話だと、誰でもが納得するでしょう。 ダメダメ家庭では、親も子供も、笑顔がなく「ブスーっ」と、しているのが日常風景ですしね。 子供がちょっとでも楽しげな表情をしていると、親の側から、「オマエは何も苦労がなくて、のんきで笑っていていいねぇ・・・それに比べてこのワタシは、いつもイヤなことばかり・・・オマエのためにお金を稼がなくてはいけないので、今日も大変だ・・・昨日もこんなイヤなことがあって・・・」とグチを浴びせられることになってしまう。 そんなことだから、子供としても、とてもじゃないけど、笑っていられませんよ。 当然のこととして、笑顔とは無縁となってしまいますよ。 ダメダメ家庭は笑顔がないわけですが、ダメダメ家庭というものは、怒りとは無縁の家庭とも言えます。 しかし、こんなことを書くと、多くの方は、「オマエは、何をバカなことを言っているんだ?オレは実際のダメダメ家庭の出身だけど、親はいつも怒っていたぞ!オマエはダメダメ家庭の現実を知らないのか?!」・・・「まあ、だけど、この人は『えっ?』と思うことを書いていると思っていたら、最後には説得力を持って、文章をまとめちゃうんだよなぁ・・・」と思ったかも? 頻繁に書いていますが、ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、似て非なるものに注意する必要があります。 さて、その「怒り」ですが、ダメダメ家庭にあるのは、「不満」であって、「怒り」ではないでしょ? 親はいつも怒っていた・・・と言う言葉はともかく、それは怒った表情をして、言葉としては怒りの言葉だったかもしれませんが、その内実としては不満と言った方が近いでしょ? ダメダメ家庭の親が語っていたのは、「あ〜あ、うまくいかないなぁ。」という不満の言葉であり、あるいは、「アイツはイヤなヤツだ!」という他者を貶める類の「毒」のようなものであったり、「オマエが生まれたからうまくいかないんだ!」という犯人認定の言葉であるかもしれませんが、それは怒りではないでしょ? 自分の子供に対して怒りの言葉を向けて、犯人として認定しても、それは心からの怒りと言えるの? 子供に対し、本当に怒っていたら、さっさと養子に出せばいいだけですよ。 そもそも、人間にとって、怒りとは何でしょうか? 「誰にでも分かるように説明してよ!」 そのように求められると、意外にも答えられないでしょ? 怒りに限らず、感情というのは、明確な形では言葉にはならないもの。 前に、怒りと不満は違うという話をしましたが、完全に違っているとも言えない。 怒りに関しては、嘘や欺瞞に接して、「それを許せない。」という気持ちを「怒り」と称すことはあるでしょ? 別の言い方をすると、自分の信念との齟齬が発生したら、怒りの感情を持つことになると言えるのでは? しかし、別のところで文章をまとめましたが、ダメダメ家庭の人間には、その信念というものがない。価値について考えるにあたって基準のようなものがあるとしても、第3者的な体系といえる理念だけで、自身の身になった信念は持っていない。 ダメダメ家庭の人間は、「自分として、これを絶対にやり遂げたい!」とか、「ワタシは、これだけは大切にしたい!」という信念とは無縁となっている。一人の人間にとって、自分の身になっている信念には実体感があっても、理念というものは、実体感がないものでしょ? 前にも書きましたが、人は、自身の信念から外れたものに接すると、怒ることになる。 それは単なる不満とは違っている。 あるいは、自分が持つ理念と外れても、やっぱり怒ることになる。 しかし、理念からの怒りは、それほど深い怒りにはならないでしょ? だって、理念とは所詮は第3者的な価値基準であって、それが本当に自分の身になっていれば、理念ではなく信念という言葉になりますよ。 ダメダメ家庭の人間は、自己逃避で抑圧的であるので、自分の身になった信念などは持っていない。だから、自分の身になった怒りにもならない。 理念的な、つまり、べき論的な不満はあっても、心からの憤怒にはならない。 また、自分を抑圧しているので、怒りの感情だけでなく、喜怒哀楽すべてを持っていない。感情自体を抑圧しているので、規格品的な感情を消費し、それっぽい言葉を語るだけとなっている。ダメダメ家庭においては、商品としての怒りを消費することはあっても、全身を怒りが貫くようなことはない。 その人の信念は、その人の尊厳とつながっているもの。 怒りとは尊厳と関係しているわけです。 真剣に生きていない人は、怒ることもできないのでは? それこそ、インターネットの掲示板に入り浸っている人なんて、怒りの言葉はあっても、心からの怒りはあるの? その手の人にあるのは、被害者意識から来る被害感情や不満だけでしょ? あるいは、理念的な、べき論的な不満の言葉や、規格品的な、つまり商品としての怒りでしょ? 自身の信念から来る憤怒ではないでしょ? そもそも憤怒は信念に根ざしているのであって、だからこそ、憤怒が発生するためには、信念を持っていることが前提になるし、つまり、その人が一貫したものを持っていることが必要となるでしょ? しかし、その人に一貫した信念があれば、断片の集積と言えるインターネットの掲示板などには入り浸っているヒマなんてありませんし、一貫したものを理解できない連中に対して語る言葉もありませんよ。 そんな人は、人に合わせて、怒った姿を見せているだけ。 人に合わせる一環として、怒りの言葉を使っているだけ。 人に合わせることが目的なので、電話などによる抗議にも「ノリがいい」。 しかし、その抗議だって、心からのものではなく、群れるためのイベントとなっている。 もし、その人に信念があるのなら、そんなスタイルの抗議はしませんよ。 もっと自分で責任が取れる一貫した対応を取りますよ。 常に断片状態だったら、感情も断片になってしまって、心からの感情を持ちようがない。 それこそ、一時的な不満はあっても、憤怒はない。 あるいは、憤怒はなくても、被害者意識から来る瞬間的な逆上はあったりする。 怒りだけではなく、笑いにおいても同じ様相になっている。 掲示板には、一時的な冷笑はあっても、心からの笑顔はない。 と言うか、掲示板の連中は、それらの区別すらつけられないのでは? 確かに、憤怒は、昔から言われる7つの大罪の一つでもあるでしょう。 しかし、真剣に生きて、その人なりの信念を持っているのなら、心からの憤怒を持つこともあるでしょ? それこそ、キリストがやった山の上の垂訓なんて、キリストさんも猛烈に怒っているじゃないの? マタイによる福音書を映画化した、あのパゾリーニの作品では、キリストさんは「愚か者!」と何回も怒りの声を上げています。 キリストは、偽善に対して心の底から怒っている。 偽善を目の前に見て、怒らないのはヘンなのでは? 見て見ぬふりをすることが寛容の美徳なの? 憤怒を7つの大罪とするのはいいとして、憤怒を否定してどうなるの? 偽善に対して怒ることができないのなら、そんな光景を見てしまったらどうすればいいの? 憤怒の否定は安っぽい現状満足にしかならないのでは? 怒りを否定して、尊厳に到達できるの?高貴さに到達できるの? 怒りのないいい子ちゃんには、尊厳はあるの?あるいは、信念はあるの?真剣さがあるの? そんな人とやり取りをしたいと思うの? しかし、常に断片状態で、マイナス面に反応するだけの人間は、そんな程度の人でないとやり取りができない。 憤怒と無縁のいい子ちゃんは、周囲の人と仲良くおしゃべりをして、しかし、何も達成しない。 何かを達成する人は、真剣に怒ることもありますよ。 それこそ、憤怒というと、晩年を迎えた芸術家がそんな憤怒を作品に込めることが多くあります。 それこそベートーヴェンなりミケランジェロなり、あとは音楽家だと、フランスのフォーレやイギリスのエルガーも、晩年になって猛烈な憤怒を、作品に込めている。 だって、天才芸術家は、ものが見える。 それこそ、偽善的な光景がよく見え、それが偽善であることもよく見える。 そして、晩年に入っているので、それまでの経験が加わって、若い頃よりも、さらに見えるようになってしまっている。 ありありと偽善を見せられれば、当然のこととして怒りますよ。 周囲の人間と不満は共有できても、信念に基づく怒りは共有できない。だって、信念とは個人に存するものなんですからね。もし、共有できるとしたら、作品として客観化する方向に向かうしかない。 掲示板などに怒りの言葉を書き込んでいる段階で、それは心からの怒りではなく、単なる不満であり、つまりグチなんですね。 まあ、そんな姿は、結局は、その人の親譲りでしょ? ダメダメ人間は、怒りすら軽い。 それは、その人の人格として軽いということ。 信念から来る怒りと、単なる感情的な不満なり、被害者意識から来る不満なり、べき論的な不満の違いからダメダメの問題も見えてくることになる。 イギリスの20世紀文学における「怒りの世代」のようなものがあったそうですが、その中で作品が残っているのはアラン・シリトーくらいでしょ? シリトーは信念からの怒りであり、それ以外の作家は、自分の身になっていない、理念的な、つまり第3者的な不満だったわけです。 全身全霊を掛けてやり遂げたいものがあれば、全身全霊を掛けて怒ることもありますよ。 自慢じゃあありませんが、この私は、あまりに怒っていたので、目が覚めていながら、電車で2駅乗り過ごしたこともあるくらいなんですからね。 怒りがないということは、一貫したものがないということ。つまり、真剣さや覚悟や信念がないということ、 信念のない人は、心からの怒りの代わりに、自身が感じている不満を被害者意識をもって大仰に語ることになる。しかし、心からの怒りは大仰に語るものではありませんよ。 大仰に語られる怒りの言葉は、「自身がかわいそうな被害者なんだ!」と言っているだけのもの。 そして、「かわいそうなボクちゃんを慰めてよぉ〜」というもの。 やり取りをして、異常なまでに怒りが巻き起こってくるのは、見解の相違によるものではないでしょ? 真剣さの相違でしょ? 一方が真剣であっても、もう一方がおちゃらけな態度だったら、真剣な側は怒るでしょ? たとえ、見解が一致しても怒るものですよ。 信念というものを持ち合わせないダメダメ人間は、真剣さがないがゆえに、怒ることもないわけですし、そんな人は、信念からの怒りと、我を忘れる逆上や、何となくの不満の違いが判らない。 ちょっと気に入らないことがあると、瞬間的に逆上して、その後にはスグに忘れてしまっている。 怒りの言葉が軽く出てくるけど、物事を真剣に、継続的に考えることはしない。 ただ、断片的な怒りの言葉が連鎖しているだけ。 そんな軽い人は、どんな人とやり取りをするの? 同類同士でしかありえないでしょ? 心からの怒りを持ち、真剣さや信念を持っている人同士がやり取りし、 高邁な一般論は語れても個人としての信念がなく、常に腰が引けている人間同士がやり取りをする。 そして、そんな信念のない人が子供を持ってしまったら、その子供とどのように接するの? その子供はどうなってしまうの? 一貫性のない人間は、一貫した怒りも持ち得ない。 何事にも真剣さがなく、怒りにも真剣でない。 逆に言うと、お軽い断片的な、商品的な不満が飛び交うだけの家庭となる。 そんな家庭環境で育ったらどうなっちゃうの? 怒りのない、「ふつう」の人になってしまうわけです。 しかし、そんな人は何も達成しないので、常に不満を持ち続ける。 と言うことで、ダメダメ家庭においては、心からの怒りが持続することはなくても、断片的な不満が、世代を超えて連鎖していってしまう。 全身全霊を掛けて怒ることのない人は、真剣さとは無縁の人。 怒りの言葉を気軽に続けられる人は、その場の空気に乗っているだけの人。 そんな人は、当人としても信念がなく尊厳もない。 ダメダメ家庭の中では怒りの言葉がお軽く出てきて、不満を語る言葉が飛び交っている。 しかし、そこには心からの怒りはない。 信念も尊厳もないダメダメ家庭においては、怒りすら持ち合わせていないわけです。 このように書くと、最初に申し上げた「ダメダメ家庭においては、怒りがない。」ということも、ご納得いただけたのでは? もし、その人が本当に、一貫した怒りを持ち合せているような人なら、ダメダメ家庭を作っている自分自身に対して怒りますよ。そんな怒りがない程度の人だからこそ、ダメダメ家庭を作ってしまうわけです。 皆さんもご自身が心から怒ったことを思い出してみてくださいな。 もし、簡単に忘れてしまっているのなら、それは怒りではなく、単なる逆上だったり、不満にすぎないわけです。 心からの怒りは、そうは簡単に忘れないものですよ。心に刻み込まれるものなんですからね。 ダメダメ人間とやり取りをすると、「腹が立った。」とかの話を散々としても、その状況を説明できなかったりする。ただ、被害感情や不満をそれっぽく語るだけ。しかし、その「腹が立った」のが真実のものだったら、ヘタはヘタなりに人に説明できなければウソですよ。 血が逆流するくらいの怒りを持つことは、楽しいことではないにせよ、そんな体験とは無縁の人などは、逆に言うと信念がないわけです。 心からの怒りとは無縁の人とやり取りをして、怒りを覚えないとしたら、逆に言うと、同じ程度なんですよ。 心からの怒りのない「いい人」と、何となくやり取りをしていて、その「いい人」の言動によって、逆に異常に怒りがこみあげてきてしまう・・・ことってありませんか? まあ、晩年になると、やっぱり、そうなっちゃうのかな? |