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カテゴリー 信頼と好意の諸相
アップ日 11年2月6日 
タイトル 好きになってもらうための文章
このホームページは、03年から10年まで配信しておりましたメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」のバックナンバーの文章を収録しています。
そのメールマガジンは、内容だけでなく、文章が長すぎることでも、悪評を受けたものでした。
まあ、確かに、メールマガジンの文章としては、長すぎるのは確かでしょう。

そんな長い文章を書く私に対して、お便りをされる方もいらっしゃいます。
文章に対する感想なり、質問なり、相談なり、あるいは抗議なり・・・
もちろん、どんなお便りでもウェルカムです。

あんなに長い文章を書く私に宛てた文章ということなので、「安心して」、長いお便りをされる方もいらっしゃいます。
もちろんのこと、長いお便りもウェルカムです。
それに、もし相談ということなら、逆に言うと、事態を詳細に記述していただかなくては、こちらとしても困りごとを具体的に把握できないでしょ?ただ単に「困った、困った!」だけで相談とされても、そんな相談を受けた私が困ってしまうだけですよ。

もちろん、常軌を逸した洞察力を持っている私なので、お困りの事態の基本的な問題点は全文を読まなくても、スグに分かったりしますが、逆に言うと、相談のお便りからは「できるだけ、詳細に伝えよう。」という気持ちそのものについても見えてくるでしょ?
文章において記述されている内容だけでなく、文章の長さなり、あるいは、記述の具体性なり客観性も情報の一つと言えるわけです。
ですから、長い文章で失礼します・・・なんてエクスキューズも必要ありませんよ。

あれだけ・・・と言うか、今回も・・・長い文章を書く私なんだから、お便りの際にはどんなに長い文章でもヘッチャラと言えますが、この私でもなかなか読み切れない文章も、現実にあったりします。
それは単純に文章の長さの問題ではありません。
ヘンな話になりますが、その2倍以上の長い文章でもラクに読めるようなお便りもあれば、文章自体はそれほど長くはないのに、心理的に長く感じてしまう文章もあるわけです。
それこそワードで2枚にも満たない文章量であっても、長く感じる文章もあるわけです。
そんな文章は、ホント、最後まで読むのが苦痛なんですよ。
単語の数とか文章の長さの問題ではなく、あるいは、記述の文法的な不適切性の問題でもなく、異常に長く感じられる文章もたまにあったりするんです。
そんなお便りをたまにいただくので、それらのお便りが持つ、ある種の共通性が見えてきました。

その種の、心理的に長く感じられる文章は、「好意を求めている文章」なんですね。
「相手から好かれたい」という思いが優先している文章と言えるでしょう。
そのようなことを私が申し上げると、
「相手から好かれるように文章を書くことは、むしろ当然のことじゃないの?」
と、怪訝に思われる方も多いでしょう。
あるいは、
「つーか、アンタは、その配慮がそもそもなさすぎるんだよ!」
と、ご立腹される方も実際にいるでしょうね。

さて、このサイトにある一連の文章においては、ダメダメ家庭の人間は「信頼と好意の区別がつかない。」ことについて頻繁にふれております。もっと端的に言うと、信頼というものが心理的に理解できないわけです。
信頼と好意ということでは、本来は、人と人の関係は、信頼があって、その後で好意が来るのが自然なのでは?
信頼していない人に対して好意などは持ちようがありませんよ。
警戒心を持っている段階で好意も何もないでしょう。
だから、初対面では、まずは信頼関係の構築を目指すものでしょ?
いきなり、「ワタシを好いてよ!」と言われても、対処はできませんよ。

しかし、逆に言うと、信頼というものを理解できないと、相手との肯定的な関係となると、好意という感情次元でしか存在しなくなり、だから、やり取りにおいて、いきなり好意を求めるようになってしまう。誰かにメールするなどのお便りをする際においても、相互理解を積み重ねていき、信頼関係を作っていくパターンにはならなくなってしまう。
「好いて!好いて!ワタシを好いてよ!」という雰囲気の文章になってしまうわけです。
もちろんのこと、直接的にそのような文言があるわけではありません。
逆に言うと、そのような文言が実際にあったら、そのメールの意図もまだ分かりやすい。
そんな文言がないにもかかわらず、相手に好意を求めていると、趣旨が分かりにくく、それゆえに実際以上に長く感じるお便りになってしまうことになる。

まあ、あまりに一般論だと、それこそ分かりにくいでしょう。
と言うことで、その種の、「好意を求める文章」の特徴を具体的にみてみましょう。

好きになってもらいたいので、まずは、「嫌われたくない」と思っている。
「嫌われない」ためには、相手を罵倒するような文章にしないことは当然のことですが、それ以外にも、多くの人に配慮することは当然でしょ?
そして、多くの人に配慮する「いい子ちゃん」として自分をアピールすることで、「こんないい子ちゃんのワタシを、好きになってもらいたい!」というアピールとすることができることになる。
だから、その手のお便りは、必要以上の配慮があるものなんですね。
それだけでなく、ちょっと媚びを売るような表現があったりする。

必要以上に各所に配慮しているので、文章自体もそこそこの長さになってしまう。
まさに「あーでもない、こーでもない。」と言った記述が延々と続くことになる。文章の長さも、伝えたいという気持ちによって長くなったのではなく、各方面への配慮によって長くなってしまっているといえるでしょう。
誰かを傷つけるようなことはしないように過剰なまでに配慮するので、非常に減点法的な記述になっている。だから、加点法的に見ると、具体的なことが何も分からない。
このようなことは、個人宛のメールだけでなく、それこそメールマガジンのような、より客観的な文章でもあったりします。
「あーでもない、こーでもない。」というスタイルをとることで、無意味に長くなってしまう。ちなみに、私の文章は、「これでもか、これでもか。」で長くなっているでしょ?長さの心理的な意味合いが違っているわけです。

あるいは、「好きになってもらいたい。」という思いが主となり、「事態を説明する。」ことが従となると、記述に具体性なり客観性がなくなってしまう。
そんな文章を読むと、まさに「で、結局は、何が言いたいの?何を分かればいいの?具体的にはどうなっているの?」となってしまう。
質問とか相談なら、事態を明確に記述する必要があるでしょ?
相手の気を悪くするとかの気分の問題ではなく、直面している事態の理解に齟齬が発生してしまったら、事態の解決も何もありませんよ。ヘタをすれば、誤解が誤解を呼び、やり取りの相手とトラブルになってしまうだけ。まずは記述の正確性が第一でしょ?

もちろん、単なる感想だったら、主観的な記述でもいいわけですが、その主観的な感想も優先順位があるはずでしょ?これだけは分かってほしい感想と、どうでもいい感想は、扱いが違ってくるはずでしょ?
そのあたりのプライオリティができていないと、多くの感想を言われても、対処できませんよ。そんなプライオリティを付けられないのなら、逆に言うと、短いメールで一つの感想をまとめて、その後で、別のメールで別の感想を送ればいいだけ。
一つの文章の中で、多くの感想を、並べただけだったら、対処しようがない。
逆に言うと、多くの感想を送って、何を分って欲しいの?何をアピールしたいの?
たぶん、「ワタシはアナタの言っていることに、いっぱい共感したわ!」ということなのでは?

そんな人は「いい人アピール」として、「ワタシを頼って!」という雰囲気があったりする。
「ワタシはこんなに人の役に立ついい人なのよ!」そんなアピールがあるわけです。
しかし、逆に言うと、それだけ、当事者意識がなく、他者に依存しているともいえる。
そんな人は、いい人アポールだけでなく、被害者アピールもしてくる。
「誰かに対してわざわざしてやった。」・・・なる持ち出しを意識した表現が多くある。
それこそ、この手のお便りに実に多いのが、「せっかく、このワタシがアドヴァイスしてあげたのに、あの人は聞く耳を持とうとはしない。ああ!どうして分かってくれないんだ?ああ!なんて困ったことなんだ!」そんな記述は、この手の読みにくいメールの王道表現と言えます。

あるいは、「あの○○のせいで、困ったことに!ああ!アタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と言った嘆きの言葉に類するものが頻発してくる。
そんな文章を読むと、『お嘆きになるのはいいとして、で、アンタとしては、具体的にはどうしたいの?』と途方に暮れるばかり。
と言うことで、読んでいても、なかなか最後まで読み切れない。

何も上手な記述にしなくても、「ワタシの現状は○○のようになっていて、将来的には△△を達成したい。今現在は□□のような問題点がある。また、過去には◎◎のようなことがあった。現在は☆☆に取組んでいるけど、アナタはどのように考えるか?」そんな記述でいいのでは?
そんなスタイルだったら、読みやすいといえるのでは?
逆に、あまりに余計な装飾的な記述が多い表現だと、メインの流れが分からなくて、読めないんですよ。

「あーでもない、こーでもない」というスタイルのお便りは、前にも書いていますが、文章表現自体は「悪くはありません」。
別の言い方をすると、「徹底的に、不可もなし」に拘り、「可がなくなってしまっている。」状態とも言えます。
むしろ、嘆きの言葉に色合いを付けるために、様々な装飾的記述を持ち出してきたとも言えます。

どうしても分って欲しいことはないので、表現がもったいつけた雰囲気になっている。
端的な表現ではなく、持って回った表現が多いんですね。
「これだけはどうしても分って欲しい。」という気迫を持って文章をまとめているというよりも、一歩引いたスタンスでそれっぽい言葉を並べているとも言えるでしょう。
何気に「格好がいい」・・・と本人は思っていそうな、もったいぶった記述も多くある。
「ヘイ!こんな小粋な物言いができるオレって、格好がいいだろ!」
「どうだい?オレに惚れてもいいんだぜ!」
・・・と言いたげな雰囲気になっている。
まあ、当人がどのように思おうと勝手ですが、そんな文章は最後まで読めたものじゃありませんよ。

ちなみに、女性によるこの手のメールだと、被害アピールの面が多くなり、「こんなにかわいそうなワタシを好きになって!」となる傾向が強く、男性の場合は、もったいぶった表現を使って、「オイラに惚れてもいいんだぜ!」という雰囲気になります。
ちなみに、そんなもったいぶった物言いの文章は、インターネットの掲示板などでやっている人もいるでしょ?端的に言えばいいのに、引いたスタンスで小細工を使った表現が多発している文章スタイルの書き込みがあったりしますよね?

何気に自意識過剰で、ムダに丁寧な表現で、その丁寧さも、思わせぶりな丁寧さであって、相手に配慮したというよりも、自分を向いた丁寧さとなっている。自分を向いているといっても、自分の尊厳に配慮しているというよりも、「ボクを好きになってよ!」という丁寧さとなっている。客観性もなく、信念もない、ヨハネが黙示録でいう「冷たくも、熱くもない」雰囲気。
そんな書き込みの文章を見たことがある方もいらっしゃるのでは?

本来は掲示板なんて、情報交換ができればそれでいいのでは?
しかし、あんな場に入れ込んでいる人は、そんな場で、自己アピールをすることになる。だからこそ、「オレは格好いいんだ!」と一生懸命にアピールするのでは?
ただ、読んだ側としては、「惚れる」とか「憧れる」というよりも、「途方に暮れる」ものなんですが。

その手の、「オイラに惚れてもいいんだぜ!」的なお便りが意外にも多かったりするので、いただいた私としては、『何を理解すればいいのかな?』『どうすればいいのかな?』と、不思議に思うことも多かったのですが、要は「好きになってあげれば」いいんでしょうね。
それこそ、『まあ、アナタって、なんていい人なの?!』と言っておけばいいんでしょうね。

まあ、そうなんですが・・・
今回の文章の最初にも書きましたが、人と人との間の好意は、信頼関係が前提となっている。
信頼がない相手に対して好意などは持ちませんよ。
好意を持ってもらいたいと思うのは自由ですが、だったらなおのこと、信頼関係を構築するように努力するのがスジというものでは?

メールでのやり取りにおいても、たとえば、直面している問題を的確に説明し、相手からいいアドヴァイスを得て、事態が解決したら、相互に信頼感を抱くことができるでしょ?
成果が得られたからこそ、信頼につながるわけでしょ?困っている事態の解決という目的ではなくても、相手を尊重しながら相互理解を達成すれば、それが信頼につながるのでは?
しかし、好意を求める人は、「○○のせいで、成果が得られない。」ということを語ることによって、自身を被害者として主張し、「かわいそうなワタシを好きになって!」と言っているのでは?

そのように見ると、読む際に、異常に長く感じるメールの趣旨も理解できるようになるわけです。
まあ、メールのやり取りくらいだったら、別にいいんですが、「かわいそうな被害者」という点をアピールすることが習慣化してしまうと、まさに、クレーマーになったり、「どうして分かってくれないの?」とつきまとうストーカーになってしまいますよ。

誰かとのやり取りをする際にも、相手の問題ではなく、まずは自分自身の問題なんですね。
相手にどうしても分って欲しいこと、伝えたいことをしっかり自覚すること、それが重要なのであって、その前の段階で相手を見てやり取りを始めても、コケてしまうだけ。
しかし、そこでコケてしまうと、まさに「あの人はワタシのことを全然分かろうともしないわ!ああ!ワタシって、何てかわいそうなの!アナタもそう思うでしょ?」と、別の人に対して、「好きになってよ!」とアピールすることになる。
そして、そんなアピールに、コロっと引っかかってしまう人も現実にいたりする。
しかし、「こんなにもかわいそうなのよ!」と言うことしかアピールできない人と一緒になっても、トラブルになり、またもや、別のところで「こんなにもかわいそうなのよ!」とアピールする。
そして、そんなことを何回も繰り返す。

相手に対して好意を求める人は、好意を持たなかったら、まあ、必ずと言っていいほどに「ふてくされる」ものなんですね。
それこそ、捨てセリフを投げつけるようなことをする。
「ワタシは悪くないわ!」ということを自分に確認させる行為をするわけです。
つまり、その手の人は個人としての尊厳を持っていないわけです。だからこそ、信念もなく、信頼というものも理解できず、人からの好意にすがるしかない。
その好意が得られなければ、何もない状態となってしまう。
逆にいうと、好意を求めるコンタクトは、その人の信念なり尊厳の不在を意味しているわけです。そんな人は、当事者意識もなく、問題意識もありませんよ。

たとえば、この私へメールする場合でも、この私を利用するくらいの感覚でいいんですよ。
そもそもタイトルの「目次録」は辞書のようなものをイメージしていて、辞書がそうであるように、必要に応じ利用してもらえればそれでいい・・・そんなスタンスなんですからね。
しかし、好意を求める人は、利用するというよりも、操縦しようとしてくる。
そうやって、自分への好意に導こうとする。
しかし、だからこそ嫌われることになる。
辞書は、立派な本棚において、拝んだりするよりも、十分に使ってくれた方が、その価値が発揮できますよ。

やり取りに当たって、ダメダメ家庭の人間は「言いたいこと」はあっても、「分かってほしい」ことはない。
事態を具体的に記述するよりも、事態に直面している自分自身を語っている。
求める成果を説明できないけど、成果が出せない理由は一生懸命に語ることになる。
好意を求めても、信頼関係は作ろうとはしない。

そんなちょっとしたところに目を付けると、ダメダメ家庭の問題も、よく分かってくるものなんですね。