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カテゴリー ダメダメ家庭が好きな単語
アップ日 11年2月10日
タイトル 変えたい、変わりたい
ダメダメ家庭の人間が、「あの人を変えたい。」と言い出すことは、以前にメールマガジンの文章として配信しております。
それこそ、「子供たちに暴力をふるう夫の態度を変えないと!」「もっと、お金を稼いで来て、家族のためにがんばるように夫を変えないと!」「家族と会話するように、夫を変えないと!」そんな感じで、いかにも「困った、困った。」という雰囲気を漂わせながら、「変えたい。」という言葉が登場するもの。

「あの人を変えたい。」というパターン以外にも、「自分を変えたい。」と言い出すパターンもダメダメ家庭ではポピュラーであり、「今の自分じゃダメだ!ワタシはワタシを変えるんだ!」そんな感じで語ることも多い。
この「自分を変える。」ということについても、以前に文章を配信しております。

「変えたい。」「変わりたい。」という言葉は格好良く聞こえることもありますが、「変えたい。」なんて言っている段階で、ダメダメに安住してしまっていますよ。まずは、そんな態度を変えないとね。

たとえば、「子供に暴力をふるう夫の態度を変えないと。」という嘆きに近い言葉ですが、一見は、子供思いの母親の発言のようですが、そもそもそんな男性と結婚し、子供を持ってしまう当人自身はいったい何を考えていたの?
自分の子供に暴力をふるう夫を見て、宝くじに外れて全財産をすってしまった雰囲気で嘆いているだけで、自身の判断なり選択について何も考えない。
と言うか、「あの人を変える。」という言葉を持ち出し、自分の問題を見ようとしないわけです。

逆説的になりますが、自分自身に対処するのがイヤだからこそ、「あの人を変える。」という言葉になっているわけです。「あの人を変える。」の「あの人」という言葉は、「自分以外」という意味になっていて、心理的に否定的な意味となっている。結局は、「自分としてはこうしたい!」というシンプルな肯定形では言えないという意味なんですね。つまり「あの人を変える。」という言葉は、ダメダメにお約束の二重否定と見ることもできるわけです。

じゃあ、「『自分自身を変える。』という言葉であればいいか?」というと、そうではない。
この「ワタシ自身を変える。」なる文言もダメダメの領域ではお約束のように出てきますが、そんな人が、マトモだったことはありませんし、マトモになったという例を皆様はご存じですか?

「変える」というのは、本質的に否定形の発想と言えるでしょう。
もし、全体として肯定的に見ていれば、「修正する」「改善する」あるいは「この点ができるようにする。」という言葉になるでしょ?
全体的には肯定していて、一部分で問題があれば、「変える」ではなく、「修正する」という言葉になりますよ。
「変える」と言っている段階で、全人格を否定しているわけです。
まずは、そんな否定的なところを見直す必要があるんじゃないの?

それに「修正する」ということなら、対処が具体的でしょ?
結果として達成できるかどうかは別として、手を付け、対処すること自体は難しくはありませんよ。
しかし、「変える」となると、実際にどうすればいいの?
全人格をチェンジするの?
そんなことはできるの?
逆に言うと、そんな人は、自分自身をどのように認識しているの?
「自分自身として気に入っている点は○○と△△で、今後は直していきたいと考えているのが☆☆と★★。」と明確に言えるの?
自分を変えるというのは、そのように具体的に言えないということでしょ?
もっと的確に言ってしまうと、「自分自身を知らない。」し「見たくない」と思っている。
つまり、自己逃避なんですね。
自己逃避なんだから、「修正する」や「このことをできるようにする」ではなく、「変える」という言葉になるのは、考えてみれば当然のことでしょ?

しかし、逆に言えば、「変える」と言っておけば、「自分を知る」必要もないし、「修正する」必要もない。
「ワタシは今の自分を変えたいんだ!チマチマとした細かなことはどうでもいいんだ!もっと全部を変えたいんだ!」という言葉はいいとして、だからこそ、地道に取組むことから逃避してしまう。

前にも書きましたが、「変える」と言うことは、全面的に否定していることになる。全体的には肯定していても、部分として問題がある場合には、「修正する」という文言になりますよ。
まあ、自分を変えたいという文言で、自分を否定するのは勝手ですが、その文言を持ち出してくるということは、自分の全人格を否定しているということだから、逆に言うと、そんな人は、具体的なアクションを何もしませんよ。だって、全否定しているものを良くしていく必要なんてないでしょ?
そして、その点を周囲の人から突っ込まれると、「ワタシはワタシを変えたいんだ!」と感情的に言うばかり。

あるいは、「あの人を変える。」という文言も、その対象となる「あの人」の全人格を否定的に見ているわけです。だって、「変える」であって「修正する」ではないんですからね。
「脱ぎ散らかした服をちゃんと片付けるようにしてもらいたいわ!」という具体的な問題点なら、聞いていても分かりますが、そんな場合には「変える」という言葉は使わないでしょ?逆に言うと、「変える」という言葉が使われる、「子供に暴力をふるわないように、夫としては、自分を変えてもらいたい。」という言葉となると、じゃあ、その夫について肯定しているものはあるの?どこがよくてそんなオトコと結婚したの?
そんな人と一緒になることが最大の間違いであり、離れないということが間違いであって、「変える」「変えない」という問題ではないでしょ?

どうして離れないの?

逆に言うと、「あの人を変えたい。」という文言の最大の問題は、「どうして離れないのか?」あるいは、「どうしてそんな関係ができてしまったのか?」という点にあるわけです。
結局は、同類同士ということなんですね。
以前にも触れましたが、お互いの間が、「love」という肯定的なものではなく、「need」という二重否定的なものになっている。Needという二重否定だからこそ「離れられない」状態となっている。
「変える」との勇ましい言葉はいいとして、自分の子供に対して暴力をふるう人との間がneedという依存関係である当人自身という問題は厳然として存在しているでしょ?

しかし、そのような自身の問題は見たくないがゆえに、「あの人を変えたい」と、問題を別人物に投げつけることになる。
そして、そんな人間であるがゆえに、自分のダメダメさを許容してくれるダメダメな環境を求めてしまう。
人に同情するしか能がないボランティアの連中や、「アイツをやっつけろ!」と言ってばかりの市民運動とか、決められた言葉を繰り返すばかりの宗教関係者とかが跋扈する環境を求めることになる。
そんな思考停止が日常化した環境だからこそ「あの人を変えたい!」と言っておけば、周囲からの共感の声が集まってしまう。
『そうよ!そうよ!アイツを変えないと!アナタって、なんてお気の毒なの?!』
逆に言うと、「あの人を変えたい!」という言葉がスグに出てくる背景には、周辺環境がダメダメとなっている事態も見えてくるわけです。
よく言う「類は友を呼ぶ。」というヤツですね。

結局は、「あの人を変える。」でも「ワタシ自身を変える。」でも、対象としているものについて肯定的な見方ではなく、基本的に全否定となっていることは変わらない。そして、具体的な対処とは無縁であることも変わらない。
結局は、そんな人は、「あの人を変えようとしてもダメだった。もう諦めた!」などと言い出すことになる。しかし、「離婚する」とは決して言わない。

「離婚したいけど、何かいい知恵はないか?あるいは、注意する点は何か?」
という質問ならともかく「子供に暴力をふるう夫を変えようとしてもダメだった。」という言葉に対しては、何も言いようがないでしょ?そもそもどうしてそんなオトコと結婚して、子供を持ってしまったの?それに、諦めるのは勝手ですが、その子供はどうなってしまうのさ?
しかし、当人としては、「自分なりに色々とやっている。」つもりになってしまっている。そして、自分なりの努力を「変える」という言葉で表現しているわけです。
そうして、「ワタシは悪くない!」というダメダメにお約束の二重否定に回帰する。

そして、当人自身としては、曲がりなりにも努力はしているつもりなので、結局は「アイツのせいでうまくいかない!」と誰かを犯人認定し、その犯人を攻撃することになる。
そんな姿を見せられれば、「まあ、そんな攻撃的な女性だからこそ、子供に暴力をふるうオトコと結婚し、何も考えずに子供を作ってしまうんだよなぁ・・・」と呆れることに。

「変える」という文言を持ち出しておけば、現実的には何も対処しなくてもいい。
現実はそうなっているわけですし、ダメダメの領域では、それが実に効果的に活用されているわけです。

あるいは、自分で対処するのがイヤだから、「ワタシはもう変わってしまったわ!」と豪語するパターンもあります。いわば、過去の自分を全否定してしまうわけです。
そして「ワタシ自身は変わったんだから、うまくいかないのは全部アイツのせいだ!」と言い出す。
ホント、いったい何が変わったのやら?

「変わる」という言葉の背景には、「全否定」の態度があり、それは対象を否定する行動である攻撃性にもつながっている。
「変わる」とか「変わりたい」とか「もう変わった」という言葉を持ち出す人は、まずは攻撃的なんですね。
否定形の精神を持ち続けているがゆえに、ただ、何かを否定したいだけ。
それを「変わる」という言葉で表現したり、行動によって表現したりの違いはあっても、攻撃性は変わらない。逆に言うと、攻撃の欲求を満たすためには、「離れる」ことができないわけです。

何も、特定の人物を攻撃するパターンだけでなく、「社会を変えよう!」という言葉もポピュラーでしょ?その手の人は、実に攻撃的でしょ?
何も「今まで通りの社会でなくてはダメだ!」と申し上げているわけではないんですよ。
「全否定するような社会に、自分の子供を送り出す親の側の問題の方が大きいんじゃないの?」と申し上げているだけです。
「今の社会では○○が問題になっているから、この点を対処していきましょう!」という文言なら、一緒にやるにせよ、あるいはその指摘に賛同しないにせよ、その基本的な態度としては共有できるでしょ?

しかし、「社会を変えましょう!」と言っているだけの人は、結局は何かを否定しているだけで、その対象が社会だったり、特定の人物だったり、特定の集団だったりしても、肯定が何もないということは「変わらない」。
結局は、否定対象なり、その周囲のものを攻撃するだけ。
否定対象が次々と変化しても、攻撃性自体は変わらない。
それこそ、有名な革命家のチェ・ゲバラなんて、既存の社会を否定し、攻撃するのはいいとして、結局は、自己否定的な状況になってしまったでしょ?
彼に肯定的な精神があるのなら、南米で小さな国で、難民を受け入れ保護する活動に転換してもよかったはずでしょ?
しかし、そのようなことは彼にはできなかったんでしょうね。

人にせよ、社会にせよ、本当に改善したいのなら、「これこれをできるようになる。」という個別の具体論で言えますよ。
あるいは、「離れる」という対処もあるでしょ?
それが言えないということから見えてくるものの方が多いんですね。「変える」という名目を持ち出すことにより、自身の否定的な精神なり攻撃性に大義名分を得ようとする。
逆に言うと、「変える」「変えたい」と言っている人からは、「離れる」必要があるわけです。
そんな人と我慢してやり取りをしていても、どのみち攻撃対象とされてしまうだけ。
まあ、実際に攻撃された人のいらっしゃるのでは?
ダメダメ家庭の領域では、「変える」という言葉は、自己逃避や否定的な精神を擁護する大義名分にすぎないわけです。
ダメダメ家庭の周囲の人を考えるに当たって、そんな観点で見てみると、理解しやすい人が多いものなんですね。