トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | 会話のスタイル(発言側) |
配信日 | 11年2月11日 |
タイトル | 表現の空気感 |
以前に、裁判で使われた検事調書が、偽造というか、検事の作文とかの問題がありました。 その検事調書について、以前に検事をされていた方が、「あの調書の記述は空気感がない。だから、検事の作文ではないかという疑問を、ワタシは前から持っていた・・・」そのようにおっしゃっていたことがありました。 空気感となると、あまり使われない言葉かもしれません。 その言葉の意味としては、「言われてみれば、確かにそうなっているなぁ・・・」と思わされるちょっとした細部の指摘なり記述と言えるでしょう。 誰でも見えているのに、漫然と見ていると、見落としてしまっている。 しかし、指摘されて、自分なりに改めて見てみると、確かにそうなっていた・・・ そんなことって、実際にあったりするでしょ? と言うか、このサイトの読者さんだったら、その手の空気感を持った記述には、なじみとなっているでしょう。 これが「霊感」のようなものだったら、一般人には、「よく見たら、そうだった・・・」と言うわけにはいかない。 その霊感が、オカルト的なものだったり、あるいは芸術的なものでも、まあ、一般人には、検証しようがないものでしょう。 しかし、空気感だったら、指摘されれば、「そう言えば、確かにそうだなぁ・・・」「あれれ?改めて見てみたら、実際にそうなっているぞ!」と思ったりするものなんですね。 空気感というものは、観察眼が一般人よりもはるかに優れている人が、現物をよく見ることで達成されたり、あるいは、一般レヴェルの観察眼の人であっても、納得できるまで自分で観察していれば、そんな空気感がある記述も可能になるでしょう。 それこそ、最初に言及した検事調書においても、その事件の現場に足を運び、犯人の心境や行動を追体験した上で、検事調書をまとめていれば、その調書に空気感が出てくるでしょう。逆に言うと、既存の調書の記述をコピー&ペーストしただけだったら、そんな空気感は出てくるわけがありませんよ。 そのような空気感が、その調書の説得力につながるわけでしょ? 以前にルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を取り上げ、「意味と論理」の乖離の問題を考えてみましたが、空気感は、論理ではなく意味を志向していると言えます。 意味と論理が一致した方向を向いていてこそ、その文章も説得力を持つことになる。 そして、そのような空気感は、見る人が見ると、分かってしまうものなんですね。 それこそ、「あれ?この文章にはとおりがいい言葉を並べているけど、書いた人は現場に足を運んでいなんじゃないかな?」なんて、駆け出しのペーペーならともかく、百戦錬磨のベテランには分かっちゃいますよ。 逆に言うと、空気感のない記述に引っかかるような人間は、現場を知らない人というか、現場を見ようとしない人と言えるわけです。 「自分が現場を見たら、この部分の記述も書くのに、この文章はその部分に触れていない・・・どうしてなんだろう?」って、怪訝に思うのものでは? まあ、コピー&ペーストの世界に安住していれば、空気感そのものと無縁になってしまうんでしょうね。 それこそ、インターネットの掲示板などでは、論理はそれなりに通っていても、空気感のない記述が多いでしょ? まさにコピー&ペーストした記述が並んでいるだけ。 まあ、インターネットの掲示板に入り浸っていれば、現場に足を運ぶとかの状況ではないでしょう。しかし、そんな人たちにしても、そんな人たちなりの現場が、色々とあるのでは? その現場をふまえて、メッセージを発信していきたいとは思わないの? 無関係な分野の、無関係な人の文章をコピー&ペーストして何が楽しいの? その人にとって、どうしても分って欲しいことはないの? まあ、分かってほしいことなり、分かってほしいという気持ちがあれば、そんなコピー&ペーストなんてことはしないでしょうね。 その手の人は自己逃避であり、自分自身の問題を直視することから逃避しているわけです。 つまり、自分の問題を見たくないがゆえに、コピー&ペーストで何かを言える状況に引き寄せられているわけです。 その手の人は、分って欲しいこともなく、分って欲しいという気持ちもない。 そして、同類たちと、一緒にグチ大会。 まあ、その手の人は勝手にやっていればいいだけ。 しかし、同類との共鳴ばかりの日々だからこそ、自分たちの表現に空気感がないこと自体が分からなくなってしまう。 そんな人達は、まさに自己逃避であって、だからこそ、自分で達成したい目標があるわけではない。だから、周囲の人に対して「ワタシに構って!」と要求することになる。 自分でやりたいことがあれば、周囲との関わりにおいては、「この○○の面について、ワタシに協力して。」という物言いになるわけですが、自分でやりたいこと自体がないんだから、「ワタシに構って!」と要求するしかない。 これが、そのものズバリで「ワタシに構って!」という物言いで周囲に対して要求するのなら、周囲としても対応がラクとなる。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、誰かに構ってほしがっているという自覚そのものがない。 だから、「社会を正そう!」とか「あの気の毒な人を救おう!」とか、「悪いアイツをやっつけよう!」という、それっぽい大義名分を掲げて、誰かにちょっかいを掛けることになる。 「○○にはこんな問題点がある。だから、一緒にやっていきましょう。」と、形の上では立派な呼びかけとなる。 しかし、呼びかけはともかく、その状況説明には、往々にして空気感がないんですね。 だって、相手に対してその件について合意を取るための文章ではなく、その件をネタにして構ってもらうための文章なんだから、空気感があるわけもない。 空気感は、現場を直視したからのものであり、逆に言うと「身につまされる」思いと不即不離となる。 書く側にとっての「身につまされる」思いがあり、それは読む側にとっての身につまされる思いとなる。 このことについては、このサイトをお読みいただいた方なら、納得されるでしょ? だから、構ってもらうための文書には空気感などはない方がいい。 それっぽい言葉が並んでいるだけの方がいい。 それっぽい言葉で、漫然とした被害感情を語り、それにより相手から同情を勝ち取り、それにより構ってもらおうとすることになる。 しかし、その被害状況の記述に空気感がない。 だって、自身が自分なりに見て、考えて、そして、苦しんだものではないんだから、空気感なんてありませんよ。 通りのいい、どこにでもあるような一般的な被害話が並んでいるだけ。 だから、ちょっと突っ込まれると、対応ができない。 それこそ、頻繁に書いていますが、「ああ!ヒドイ時代だなぁ・・・こんなヒドイ時代に生まれたオレたちって、なんてかわいそうなんだ?!」という嘆きに対して、『そんなヒドイ時代と分かっていて、アンタを生んだアンタの両親はホント外道だね!』なんて、こちらが言おうものなら、逆上されたり、あるいはそそくさとトンズラされたりする。 逆に言うと、今まで、そんなことも考えたことがなかったの?そんな状況にいて、その点について考えないとしたら、それこそが問題でしょ? あるいは、ドメスティック・ヴァイオレンスなどでも「なんて、ひどいオトコなの!いつもワタシに暴力をふるって!」という嘆きに対して『どうして、そんなオトコと一緒になってしまったの?と言うか、いつも暴力をふるわれるのなら、サッサと別れたら?』なんて言おうものなら、やっぱり逆上されてしまう。 しかし、その点について考慮がない記述などは、現場を何も知らない人でも書けますよ。 そんな状況の被害者は、その点をどのように考えながら、その状況にいたの?それこそが記述の空気感であり、説得力でしょ?しかし、嘆きを語った側は、「ワタシはかわいそうな被害者なのに、どうしてそんなヒドイことを言うのよ!」と逆上するばかり。 しかし、そんな逆上する姿に接すると、『そんな感じでスグに逆上するようなアンタだからこそ、同類のオトコと一緒になって、相手の側が逆上するんでしょ?』なんて続けてしまうのが、まあ、この私。そうなるとさらに逆上されてしまう。 そんな嘆きは、激情的な大仰さはあっても、現場に真剣に対峙する姿勢がない。 そんな人の言葉に空気感が出て来るわけもない。 あるいは、ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者の女性を助けようというボランティアの方々に対して、「サポートを申しでてくる人も色々なタイプがいますが、その中でどうやって選択すればいいの?」という質問をぶつけてみると、『当人が自分で考えるしかない。』との答えとなったりします。しかし、亭主の選定もミスするような人を見る目のない人が、自分をサポートしてくれるボランティアをどうやって適切に選定できるの?それは、現場にいる人間にしてみれば、当然の疑問でしょ?『当人が自分で考えるしかない。』という回答は、「パンがないならケーキを食べればいいじゃないの?」という回答と同じですよ。 論理はそれなりにあるかもしれませんが、現場の空気感とは全くありませんよ。 あるいは、これも頻繁に書いていますが、「夫は子育てに非協力的だわ!」というグチですが、それに対し『じゃあ、子育て以外の何に協力的なの?』と聞くと逆上したりするもの。 逆上しないまでも、このような言葉で嘆くことになる。 「まあ!なんてヒドイことを言うの?どうして分かってくれないの?」 あるいは、「アンタの考えは偏見だ!」という抗議の言葉になったりする。 しかし、現場を知っているものとしては、当然の疑問でしょ? その疑問がないことの方が異常ですよ。 気に入らない質問や見解に対し、「偏見だ!」と罵倒するのはいいとして、じゃあ、その人なりの見解を客観的にまとめ上げることはしない。 ただ、否定的な感情を断片的なままでぶつけているだけ。 それも、自分なりに現場を見て、自分なりに考えたものではなく、とおりのいい言葉をコピー&ペーストするだけ。それこそ、「偏見だ!」という抗議の言葉も、通りのいい抗議の言葉として持ち出されただけ。 現実的に言うと、スグに「偏見だ!」と抗議の言葉を上げる人は、自分の見解を客観的な形にまとめ上げる努力すらしないものでしょ? 「とりあえず、『偏見だ!』って、言っておけばいいじゃん!」 くらいの怠惰な発想で、人の見解をくさしているだけでしょ?人の見解をくさすのもコピー&ペーストでやっている。 相手に納得してもらうために、事態を見て、記述を考えたわけではなく、単にくさしているだけなんだから、そんな人の記述や反論に空気感が出て来るわけがありませんよ。 だって、その手の人は現場を見ているのではなく、単に誰かの記述を見ているだけなんですからね。 そんな人は、自分が被害者だということを語ろうとはしても、それを説明することはできない。 な〜んとなく、それっぽい言葉を持ち出すのが精一杯。 それこそ、その手の人間は、何かというと、「○○ハラスメント」とか言い出すものでしょ? あるいは、「△△症候群」とかの、もっともらしい学術的な言葉を持ち出す。 あるいは、「こんな事例があった。」とか「こんな考えが紹介されている。」とか、特徴的な事件を取り上げ、「怖いねぇ〜」などとコメントしたりする。 そんな、それっぽい断片的な用語を持ち出しても、それを客観的に説明することはできない。というか、説明する気もない。自分の身になっていない言葉を持ち出すことはしても、その現場にいるものとして、必死に見て考えたものは出てこない。 「『○○ハラスメント』とか『△△症候群』という立派な用語を教えてやったんだから、後はアンタが自分で考えなさいな!」と、説明を丸投げされてしまう。 その「○○ハラスメント」とかの問題でも、その人がその人なりにしっかり考えて、その人なりに真剣に説明してくるのならまだしも、そんなこともしない。ただ、それっぽいことを言って、自分で考えることを逃避し、周囲に丸投げするだけ。 説明を丸投げされた側としては、「アンタ自身の問題についての説明を丸投げされても・・・ワタシは、どうすればいいの?というか、こんなに丸投げするような人間だからこそ、トラブルになるんじゃないの?」と思ってしまうだけ。 それっぽい言葉をコピー&ペーストして持ち出しているだけで、その「○○ハラスメント」なり「△△症候群」という考えにより、自分の問題点がどのようにクリアーになったということも語れない。 現場の人間として必死になって見て、考え、説明するのではなく、説明を丸投げしているだけ。 しかし、自分以外の人に説明を丸投げした側としては、常に受け身の立ち位置になっていて、だからこそ不都合な事態は、失敗ではなく被害と認識することになり、そして、その被害の説明も周囲に丸投げするわけです。常に人任せということでは一貫しているわけです。 しかし、そんな人とはやり取りなどはしたくはありませんよ。 結局は、そんな人とやり取りをするような人間は、インターネットの掲示板に入り浸っているような連中ばかりになってしまう。 だって、あのような場では「説明」なんてありえないでしょ? だからこそ、自分の問題の説明すら、周囲に丸投げするような人間にしても都合がいいわけです。 そして、被害感情で共鳴して盛り上がり、気に入らない見解を「偏見だ!」とくさす。かと言って、自分なりに客観的な説明をまとめることをしないまま。 インターネットの掲示板で盛り上がっているくらいならともかく、同類同士が出会ったりすると、ヘタをすると結婚し子供を持ったりする。 その子供とどんなやり取りをするの? 子供からの疑問に対し、分かりやすい形で説明するの? 子供とやり取りをするにせよ、インターネットでの掲示板でのやり取りでの延長線上のスタイルになってしまうでしょ? ただ、子供からの見解を感情的に、そして断片的に否定するだけで、子供を前にして、「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆くだけになってしまう。 そんな姿は、いったい誰に似たのやら? そして、その子供はどうなってしまうの? ダメダメ人間は、会話において、相手に分かって欲しいとか、この点を伝えたいという気持ちを持っていないわけですが、そのような気持ちを持っていないことは子供にも伝わり、そして連鎖していくものなんですね。 それを自覚し、自分なりに対処すればともかく、周囲に同類しかいないし、もともと自己逃避なんだから、自覚どころではない。 相手に対して「分って欲しいこと」もなく、「分って欲しい気持ち」もないのに、ちょっかいをかけ、相手から鬱陶しがられると、「うんっ、もうっ、どうして分かってくれないの?」と拗ねるだけ。 「どうして分かってくれないの?」との嘆きを語る人は、じゃあ、今までどんな人に対して、どんなことを分かってもらったの? そんな具体例が出てこないでしょ? 今まで誰かと合意に至るやり取りをしたこともない人に限って、「どうして分かってくれないの?」と言い出すもの。 たとえ、「分かってもらった」との例を出すことができても、それこそ自分の子供とかの例になってしまう。それって、説明によって合意が取れたわけではなく、命令に対して反対できないというだけでしょ? 分かってもらうためには、喩え話なども有効になってくることも多い。 逆に言うと、そんなちょっとした喩え話のヴァリエーションが豊富な人は、伝える気持ちがあるわけです。 現場を分かっているからこそ、そして、その問題点の本質を当人なりに考えているからこそ、別の現場に移した形で説明できるわけでしょ? 文章を読むと、その文章の書き手がどの程度、現場を見ているのかについて、見えてくるもの。 インターネットの掲示板で仕入れたそれっぽい言葉をコピー&ペーストしても、そこいらのタコスケには通じても、本当に現場を知っている人には通じませんよ。 それっぽい言葉を使って勝手に満足している人は、現場を必死に見た人ができる空気感がある記述によって、読んだ人間をうならせるようなことはできない。 緻密な文章構成力とか、表現の多彩さについては、才能の問題が大きいでしょう。 しかし、空気感というものは、現場をしっかり見て、その人なりに考えれば、自ずと滲み出るものなんですね。文章能力がヘタでも、現場をしっかり見て入れば、空気感はでてきますよ。だって、その人なりに見た状況なり、その人の考えなり苦悩を書いていけばいいだけなんですからね。 文章において、そんな空気感がないということは、直面している現実をしっかり見据えることをせず、何をやらしても中途半端ということ。 表現がヘタでも空気感がある記述だと説得力は出てくる。 空気感がないと、論理は通っていても、説得力がなく、よく言う「上っ面をなぞった」「薄っぺらい」と言われることになる。 そんな人に限って、「どうして分かってくれないんだろう?」と、それっぽいグチを言うものですが、そんな人は、「分かってほしいこと」もないし、「分かってもらったこと」もないものでしょ? ペリカンのように自分の血で書かない限り、説得力が出てくるわけもない。 しかし、ダメダメな人は、分かってくれないことを自分の問題ではなく、相手の理解力の問題にしてしまう。 そんな文章を読むと、その人の親の姿もよく分かったりするものなんですね。 まさに、ダメダメの領域ほど、子は親の鏡となっているものなんですよ。 そうして、無自覚だと、それが連鎖してしまうわけです。 何も空気感がない表現が飛び交っているというダメダメ家庭の空気感は、その空気感ゆえに連鎖していくわけです。 |