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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 11年2月13日
タイトル 評価と感想
以前より頻繁に書いていますが、このサイトの一連の文章は、誰かや何かを評価しているわけではありません。考えるための材料を提示しているだけです。
その材料をふまえ、お読みになった皆様ご自身が考えていけばいいだけですし、自分で目の前の家族を見ることなしには、ダメダメ家庭ができてしまうだけですよ。

それこそ、「正しい考えを学ぶ。」と言っている段階で、子供の声を無視しているということでしょ?そんな環境だからこそ、子供が不満を持ち、問題行動を起こすことになる。
そして、問題が顕在化しても、「どうして、こんなことに?!」「解決に当たっては、権威ある○○先生の正しい考えを学ぼう!」と言いだし、やっぱり、子供の声を無視して、同じトラブルになってしまう。そんなパターンは長崎県でいつもやっていること。そんな対応は、外面はともかく、問題の土壌にはまるで目を向けていない。
だからこそ、トラブルもますます発生してしまうことになる。

何回も書いていますが、私としては、考える材料というか視点を提示しているのであって、評価をしているわけではありません。以前にも書きましたが、評価したとしても、その次のステップにつながらなくては意味がないでしょ?しかし、ダメダメ家庭の人間は、往々にして評価を早めに持ち出すことにより、自分で考えることから逃避するだけでなく、対応も、人任せにしてしまうんですね。
だって、「正しい考えを学んで」いればいいだけなんだから、対応は権威者主導となりますよ。

自分で考えることから逃避しようとする人間は、評価を求めてしまう。
そして、何かを提示されると、そこから評価の面だけに注目したり、あるいは、提示されたものの感想を言ったりする。
某かに接したら、その人なりの感想を持つことは当然でしょう。
感想を持つのは当然としても、それを公表することは当然ではないでしょ?
感想は主観であって、そんなものは、人に対して、あえて語るものではありませんよ。
それこそ、「このオンナはスッゲーいい身体してやがるな!」と感想を持つのは勝手ですが、それをその女性の前で言っちゃマズイでしょ?
主観は主観でいいとして、公表するのは別ものですよ。

しかし、巷では、感想と評価が飛び交っている。皆さんはわざわざ感想などの主観を公表していらっしゃる。
何か目立つことがあると、多くの人がそれに飛びついて、我先にと評価なり感想を公表している。それにより、その事件がさらに目立ってしまい、さらに多くの人を引き寄せる。
それこそ、10年の末には芸能人さんが、小説を発表し、出版社の賞を取って、その事態やその作品に対して、多くの批評なり感想が公表されましたよね?

その作品に対して、どんな評価をしようが、どんな感想を持とうが、読者さんの自由ですが、逆に言うと、そんなにしてまでその感想を公表したいの?
その感想を公表しないと、死ぬくらいの切羽詰まった思いなの?
自分の感想を公表するのはいいとして、それに命をかけられるの?
その本を読んで、まるで人生の一大転機のような体験をしたとでも言うの?
あるいは、自分の感想が、今までにない斬新なものであり、どうしてもみんなに知って欲しいの?
断片的な感想を持ち、それを公表するのはいいとして、その感想を自分なりの見解に統合してみようとは考えないの?
断片的な感想だったら、インターネット上ではなく、家族などの身近な人間に言えばいいだけじゃないの?家族に対してとりとめのない感想をいうのは、自然なことですよ。
わざわざ文章にして、断片的な感想を公表しても意味ないのでは?
評価や感想を公表するのはいいとして、その感想を読んだ側にどうしてほしいの?
あるいは、どんな人に自分の感想を読んで欲しいの?
あるいは、その感想を、後世に残したいの?

あるいは、感想なり評価を公表したのはいいとして、その後でその人は何をしたの?
芸能人さんが書いた小説を読んだ人は、その小説を受けて、その後はどんな行動をしたの?
その後の自身の行動こそを、公表してもいいのでは?
「この本を読んで、衝撃を受け、こんな活動を始めた。」という記述なら、公表をする意味や意図も理解はできますよ。
本を読んで、ただ、「いいわぁ〜、コレ。」と感想を公表してオシマイなの?それが、作者の望んだことなのかな?
メールマガジンの最終回において、チェーホフの「いいなずけ」という作品を取り上げましたが、そのテーマの一つとして「生活の方向を変える。」ということがありました。
作品から視点を受け、それを自分の人生に反映させる・・・それこそがその作品の目的になっているわけです。
小説に接するにせよ、ちょっとした騒動に接するにせよ、それをふまえ、「自分としてどうしていくのか?」そんな問題意識があってもいいのでは?

それこそ11年に話題になったらしい、恵まれない子供たちに匿名で援助するタイガーマスク運動なるものがあるそうですが、それに関心がないのなら、それまででしょう。
考えた上で、否定的に評価するのなら、無視すればいい。
しかし、肯定的に評価するのなら、自身も参加すればいいじゃないの?

「あんな善意のある行動はすばらしい!」
という感想は自由ですが、だったら、一緒にやるなり、あるいは、別の種類のサポートでもいいわけでしょ?施設に対して直接的にものを送るのは、色々と大変と思っている人なら、どこかの共同募金にでも募金するもいいんじゃないの?
「タイガーマスク運動はすばらしい!」と絶賛の書き込みをインターネットの掲示板に書き込んでも、意味はないのでは?
感想を持つのは自由ですし、どのように評価するのも自由でしょう。
しかし、それが自分の行動なり判断につながっていけなければ、逆に言うと、どんな感想を持っても意味がないでしょ?個人的な感想を、わざわざ公表するなんて、無意味というよりも、不気味ですよ。

しかし、逆に言うと、自分の判断なり行動について考えることから逃避している人間にしてみれば、何気に「感想」なり「評価」が言える状態が心地いい。
そうして、「どうして、そんな評価をするのか?」
「どうして、そんな感想を持つのか?」
「オマエの評価はケシカラン!」
と、議論のための議論をしていればいい。
そもそも、自分の行動につながらない評価や感想なので、公表するにも、お気楽なもの。
身につまされた問題意識や自身の将来展望とは無縁になっている。

当人の問題意識あり、自分に本当にやり遂げたいことがあれば、関心も関係のない誰かの業績なり行動に対し、評価したり感想を言っているヒマもありませんよ。
自分なりのやりたいことを、自分の流儀でどんどんとやっていくだけ。
逆に言うと、自分がやり遂げたいものがない人は、感想や評価が飛び交っている状況を求め、その人なりの感想や評価を公表することになる。

いわば、自分で考えるために議論するのではなく、「群れる」ために議論ごっこをしているだけ。だからこそ、それっぽい感想や評価を持ち出し、やり取りをする。
群れることが目的なので、ネタとしては共通性の高いものでないと不可となる。
だからこそ、みんな関心を持っていそうなネタに飛びつくことになる。

まあ、群れているだけで、自分でゼロの状態から何かを作るわけではないんだから、ラクではあるでしょう。
感想にせよ、評価にせよ、別の人間の業績に乗っかるだけでしょ?
しかし、そんなことが習慣化してしまうと、ゼロから何かをすることができなくなってしまう。
それこそ、誰かに相談する際の文章ですら、感想を述べたり、人の行動を評価する趣になってしまう。
そして、肝心の現状について客観的な説明もなく、あるいは当人の希望もなく、「困った、困った・・・」とか、「そうなっていると思います・・・」とコメンテイター風の感想と誰かを評価するような嘆きの言葉があるばかり。

トラブルになっても、傍観者然や評価者然としているだけなので、逆に言うと、将来の展望もなく、覚悟もなく、危機感もなく、「てきとう」に物事を始めてしまう。
そして、実際にトラブルになり、そんなトラブルを傍観者として見ているだけ。
逆に言うと、だからこそ、「何とかして分かってほしい。」という気持ちもない。
だって、傍観者なんですから、そんな強い気持ちとは無縁になりますよ。
分かってもらう意欲がないし、分かってもらう能力もないし、その能力を向上させようとも思わない。

分かってもらいたいという気持ち自体がないので、分かろうとする意欲のない人に対しわざわざ語ることになる。
分かろうとする意欲のない人に対してわざわさ語る人は、相手に分かってほしい内容を自覚し切れていない。
むしろ、「どうして分かってくれないんだ?」という嘆きを言いたいがために語っているだけ。
それこそ、インターネットの掲示板なんて、聞く耳持たない態度の人間に対し、わざわざ語っている人がいるでしょ?そもそも分かろうとする意欲を見せない人に対して、熱く語っても無意味なことは幼稚園児でも分かりますよ。あのような行為は、「どうして分かってくれないんだ?」という嘆きを言いたいがためのものと見ると理解できるようになるでしょ?

そんな人は、実際問題として、理解力があって、聞き取る意欲のある人に対しては、何も言えないものでしょ?
聞く耳持たないという態度の人間には熱く語っても、「アナタの話を聞きますよ。」「どうぞ、ご存分におっしゃってください。」という態度の人は無視してしまう。
ギャグを書いているわけではなく、実際にそんなものでしょ?
「聞く耳」も、「理解するアタマ」も持っている人に対して語ることは、「相手に対して何を分かって欲しいのか?」について自覚もないままにやり取りをしていることがバレてしまう。
しかし、「聞く耳を持っていない」人に対しては、内容をやり取りするわけではないので、逆に言うと「やり取りの形」は長時間成立することになる。

理解力がある人に対しては、的確に説明すれば、一回で分かってもらえますよ。
それだったら、「群れる」ことを目的とした人間にしてみれば、不都合なこと。
だから、「聞いてくれそうにない」人をターゲットにして、熱く語り、長い時間「やり取りの形」を成立させることになる。
かと言って、聞く耳を持っていない人とやり取りをしても、相互理解なり、合意に至るわけがないでしょ?つまり、会話の成果が何もない。
そんな人は、引きこもっていればいいわけですが、なにせ自己逃避の人間であり、自分自身で達成したいものがないので、逆に言うと、自分の視点を自分以外の何かにそらしたい。

と言うことで、まさに感想とか評価が飛び交っている領域に引き寄せられ、その人なりの感想や評価を公表することになる。
しかし、対象に対し、否定的な評価をしても、否定している対象を無視することはしないで関わり続け、逆に、肯定的な評価をしても、参加することはないのは相変わらず。
つまり、議論という形で群れることができて、それで目的が達成されてしまうわけです。

群れることが目的なので、相違点の違いが顕在化するのが怖く、形の上での同意を求めてしまう。自分の見解に自信があるのなら、周囲の、それも阿呆からの同意などは意味などありませんよ。周囲からの同意を求める心情は、自分が提示した感想や評価が、別の人からの同意がなければ意味がないという程度のものであることを、自分で語っているようなもの。あるいは、同意を求める活動そのものに意味があり、達成された同意には意味がないとも言えるでしょう。

別のところで書いていますが、ダメダメ家庭の人間は、自己逃避であり、やり取りにあたって、「言いたい気持ち」はあっても、「分かってほしいこと」なり「分かってほしい気持ち」はない。やり取りの相手は見えていないわけです。
だから、言葉を発するにあたっても、独り言のような様相を呈してしまう。
だから、「聞く耳」を持ち「理解力」のある人とのやり取りではなく、「聞く耳」を持たない人間に対し、言葉を投げ付けるというパターンになってしまう。
そして、分かって欲しいことではなく、所詮は独り言なので、感想のようなものを、相手に投げ付けたり、公表することになる。
それこそ、インターネットのニュースサイトでのコメントなり掲示板の書き込みもいいけど、それをそんなにも言いたいの?分かってほしいの?

感想や評価を公表するということは、別の観点で言うと、「自分は○○を達成したいから、この△△の分野に強い人がいたら協力してほしい。」という依頼を公表できないということでしょ?本来は、公表するとしたら、そんな具体的な協力依頼の方であって、個人的な感想とか評価ではありませんよ。
しかし、自分でやり遂げたいものがなく、とにもかくにも「群れたい」と願っている。
ムダに公表される評価も感想も、群れるためのネタと見ると、その手の周囲の流れも理解しやすいでしょ?感想や評価をどうしても公表したいというよりも、それ以外は何もできないという二重否定なんですね。
だから、その手の人は、何かを否定してばかりでしょ?
結局は、肯定できる自分自身を何も見いだせないままで終わってしまうんですね。