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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
アップ日 11年2月16日
タイトル ダメダメの合法性
 このダメダメ家庭のホームページは、もともとの由来としては、03年9月から10年4月まで配信しておりましたメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」の文章を収録したものです。
メールマガジン配信時には、本文の前にテンプレート的な前置きの文章をつけていました。
メールマガジンを購読し始めた人にしてみれば、そのコンセプトについて簡単に言及してあった方がとっつきやすいという考えで、いつも同じ文章を載せておいた次第です。その前置きの記述において、「法律的には問題ないが・・・」という文言が入っていました。
購読されておられた方は、覚えていますか?もう1年近く前のことだから、今のワカイモンはそういうことを知らないかなぁ〜

いわゆる、児童虐待の問題となってしまうと、これは法律のマターとなる。
しかし、機能の家庭が不全となっている家庭については、法律の問題とは言えない。
マイナスの方向に顕著な行動だったら、法律のマターと言えるでしょう。しかし、本来はプラスの方向に影響を与える「機能」を求められるものなのに、その「機能」を果たしていないとなると、法律的とは言えないわけです。

今回の文章では、ダメダメ家庭の合法性について、考えてみましょう。
そもそも、ダメダメ家庭では、規則に従属することを、自身から求める心理があったりする。
いわば、自分を縛るマゾヒズム的な心理を持っているものなんですね。
自分の目で見て、自分のアタマで考えることが心理的に怖い。
むしろ、決められた規則に従っているだけの状態にしたい。
そうしておけば、後で不都合な事態になっても、「ワタシは悪くない!」「アタシは言われたことをやっていただけだ!」「ワタシのどこに問題があるんだ?」と言い訳できるでしょ?

それにダメダメ家庭の人間は、「これこれを達成したい!」という明確な目標があるわけではない。そもそも、自身の目標を持とうとしない。
むしろ、「これこれをすると、こんな悪影響が起こる。」「あれをすると、こんな人に迷惑がかかる。」と、視点がマイナス面ばかりに向かっている。
つまり、発想の基本が減点法になっているわけです。

だからこそ、法律やそれ以外の規範をヴァイオレートしてまで、何かをやり遂げるなんてこととは無縁となる。それに、減点ばかりに注目し、その減点をなくそうとするので、そんな人は「いい子ちゃん」となる。
逆説的な言い方になりますが、ダメダメ家庭の親は、規則を守る「いい子ちゃん」なんですね。カミュの「異邦人」での表現を使うと、「律儀な男であり、使われていた会社に忠実で、規則正しく、勤勉な勤め人であり・・・」と言えてしまう。

法律を守るのはいいとして、逆に言うと、自分自身の信念や考えや基準をもっていない。
ただ、人に合わせているだけ。
人に合わせるだけで、自身では何も考えないことは、法律的には何も問題ないでしょ?
あるいは、法律に準拠していることが優先されるので、子供の話などは聞かない。
たとえ、子供の話を「聴いた」としても、話の中身や子供の意向などは聞こうとはしない。
子供を殴ったら犯罪ですが、子供の話を聞かないことは犯罪ではないでしょ?

本来は、家庭の機能というか、親の機能として、子供のサポートということがあるでしょ?そして、子供のサポートなんだから、そのサポート内容については、その子供の個性や意向に依存しますよ。そして、子供の個性に配慮することは、法律の問題ではなく、その子供の直接の関係者といえる親の役割でしょ?
学業成績のいい子供には更なる勉学の道を作ってあげるのが、親というか保護者の機能というものでしょ?
あるいは、運動が得意で大好きな子供だったら、そんな道をサポートするのが、親の機能なのでは?
あるいは、魚のことが大好きだったら、それをサポートしたり、励ましたり、少なくともジャマをしないのが親の機能でしょう。
しかし、サポートしなくても、あるいは、サポートの方向性がその子供にフィットしていなくても、法律違反にはならないでしょ?
サポートというものは、対象となる人によって、その内容が違ってくるもの。
逆に言うと、どんな子供に対しても、サポートの方向性がすべてが同じということは、対象者の意向をくみ取る意欲がないということ。
それこそが機能不全ですよ。
子供と家庭の関わりを考えるにあたって、子供にとって求められる機能が違っているんだから、機能不全となる状況も各論的になる。法律面では総論的に議論できても、機能不全を考えるには、どうしても各論的になってしまう。

それこそ、子供が学業成績がよくても進学させなかったら、親の機能不全と言えますが、はっきり言って学業成績がよくない子供に進学させなかったと言っても、それは親の機能不全とはいえませんよ。まあ、勉強以外で得意分野を見つけるサポートをすることが重要になるでしょ?あるいは、スポーツをさせるにせよ、子供がそのスポーツに関心があるのなら、それは親としてのサポートになるわけですが、子供がそれをイヤがっていたら、スポーツの押し付けはサポートではなく、単なる調教でしょ?しかし、法律的な面を考えると、魚が大好きなオタクっぽい子供に、スポーツをスパルタ的に指導しても、問題ないといえる。というか、ヘタをすれば世間的にもほめられてしまう。
進学やサポートにおいても、その子供の特性を踏まえて考えないと、その親が果たしている「機能」については見えてこない。

しかし、前にも書きましたが、ダメダメ家庭は法律は意識しても、子供の声は意識しない。
人に合わせて、法律に合わせているけど、子供には合わせない。
そう言う意味で実に合法的であり、だからこそ、何かあっても「ワタシは悪くない!」と言えてしまう。

たとえば、子供に珍妙な名前を付けても合法的でしょ?
それによって、子供が学校でイジメられたら、ある種の法律的なマターとなる。
珍妙な名前自体は合法的で、イジメ行為となると、法律をヴァイオレートしているわけだから、ダメダメな親は自身の合法性を根拠に大いに騒ぐことになる。
まさに「ワタシは悪くない!偏見を持っている周囲か悪いんだ!」と合法的に騒ぐことになる。あるいは、子供に対してイジメがありそうでも、子供の困りごとを聞かないことは合法的ですよ。
子供の困りごとを聞いて、相手の子供に殴りつけたら非合法というだけ。
しかし、子供に困りごとを言わせない家庭だからこそ、その子供がイジメにあってしまうんでしょ?

あるいは、その子供がどんなに成績がよくても、その子供を進学させなくても合法的でしょ?あるいは、その子供の学力水準にあっていない手短な学校に進学させても、それは合法的でしょ?
しかし、だからこそ、子供が学校で荒れてしまう。そしてトラブルを起こす。
そうなると、法律のマターとなり、やっぱり合法的なダメダメな親は、大いに騒ぐことになる。合法的なダメダメな親は、法律は守っていても、自分の子供のことは眼中にない。子供からの被害に対して目線が向かっているだけ。

別のところで書いていますが、子供の目の前で、ぬいぐるみを蹴飛ばしても、まったくの合法的な行為でしょ?しかし、子供の精神はズタズタでしょ?そして、子供の側から事件が起こることになり、まさに法律のマターとなる。
しかし、その手の法律の問題も、現実的には、合法的なダメダメの、つまり機能不全の積み重ねに過ぎないわけです。

子供に対して、「オマエなんか、死んでしまえ!」と怒鳴ったら、法律の問題になるでしょう。しかし、「あ〜あ、子供が死んでくれたらなぁ・・・」と子供の前で独り言を言っても、それは合法的な行為でしょ?
家族の間で挨拶が一回もなくても、あるいは、子供の名前を呼ぶことがなくても合法的でしょ?
しかし、そんな家庭で育った子供はどうなってしまうの?

法律の面でいうと、自殺しようとして、首を吊ろうとしている人がいて、もし、その人を殴って止めたら違法行為でしょ?法律的には歴然たる暴行容疑ですよ。しかし、見て見ぬふりは合法でしょ?
自殺の問題でいうと、子供がリストカットしてしまい、使ったかみそりを取り上げるのはある意味において、個人の財産権の侵害でしょ?
だからこそ、合法性を宗とするダメダメな親は、首を吊ろうとしている人を素通りし、リストカットに使ったかみそりをそのままにしておくことになる。法律的には、こちらの態度が推奨される行為でしょ?
しかし、その結果がどうなるか?なんて子供でも分かること。

あるいは、自分にとって気に入らない人間を「断固糾弾せよ!」などと言いながら集団でつるし上げるのは合法的と言えるでしょ?
そのつるし上げ行為で暴力をふるったら犯罪となるというだけ。
しかし、暴力があろうとなかろうと、「聞く耳持たず」で、相手に対してジェントルに説得する機能の不全という面においては、合法的であっても、ダメダメそのものですよ。だって、合意形成機能が不全なんですからね。
そんな親の姿を見ていた子供が家庭内で切羽詰ってしまって事件を起こしても、その手の親は、子供の話を聞かず、また何かを糾弾するだけ。そして、そんな行動も合法的ですよ。

あるいは、子供の持っているものを勝手に捨てても、あるいは、子供が大事にしているものを何も持っていなくても、それは親権の範疇であり合法的と言えるでしょ?子供の写真が一枚もなくても、法律的には何も問題はないでしょ?
子供の服がいつも同じだったり、汚れていても、それは法律違反ではないでしょ?
あるいは、親が学校に行く際に、真っ赤なトレーングウェアを着て行っても、それは合法的でしょ?

あるいは、人間だけでなく、動物に対しても、法律を守っているダメダメもあるでしょ?
動物を蹴飛ばせば、法律のマターと言えるわけですが、それこそ、保健所に連れて行って処分すれば、純然たる合法的な行為ですよ。子供の前で、犬を保健所に連れて行っても、法律に違反しているわけではない。
あるいは、エサをやらなかったら、法律に触れる可能性もありますが、一回も散歩に連れて行かなくても、合法的でしょ?
しかし、そんな環境で育った子供はどうなってしまうの?
というか、実際に事件になったりしたでしょ?

事件の周囲というと、茨城県の通り魔事件があって、「あんなことをするなよ!」と子供に命令することはもちろんのこと合法的なことといえます。
しかし、親としての機能となると、『オマエは何か困っていることはないか?もし、あったら親であるオレに対しては早めに言ってくれ!』と、子供に対して語りかけることでしょ?その機能がないからこそ、事件が起こることになるんでしょ?

あるいは、まさに「オマエはあんなことをするなよ!」と子供に命令するだけで済ませてしまう親がいる環境から逃げる必要があるでしょ?お隣さんがそんな親だったら、まずもって自分の子供が危険ですよ。しかし、そんな環境から逃げないことは合法的でしょ?
しかし、お隣さんがそんな家庭だったら、自分の子供も荒んでしまいますよ。

ダメダメ家庭を作る親は、そんな環境を、むしろ自分たちから求めることになる。
だって、児童虐待が頻発している地域なら、ネグレクトくらいなら「ふ・つ・う」のことになってしまうでしょ?それどころか、自分の子供に対して「オマエは、ちょっと前に親に事件になった近所の○○君のように殺されないし、食事もできるんだから、幸せなんだぞ!」と言えてしまう。
殺されないことや、食事ができることを、子供にとっての至福とするのは勝手ですが、そんな環境の子供がマトモに育つわけがないでしょ?
しかし、そんな親の言動だって、合法的であることは確かでしょ?

そして、そんな切羽詰った子供が、猟銃がほしがったら、買い与えることは合法的ですよ。
「何に使うんだ?」と子供に聞くことは法律で規定されているわけではないでしょ?
しかし、だからこそ、法律をヴァイオレートする事件が起こってしまう。

子供の話を聞かない、問答無用な親は、機能不全と言えても、合法的であることは変わらない。だから、法律を整備しても、そんな親の機能が向上するものではない。

それこそ、自分の娘が暴力オトコと結婚しそうな場合を考えてみましょう。
そんな場合に、「オマエがそうしたいのなら、そうすればぁ〜」という傍観者的な態度でも合法的でしょ?
しかし、だからこそ警察マターの事件となってしまう。
そして、合法的な親は、「オレは何も悪くない!」と、論理的にも、法律的にも適切なコメントを発することになる。
そして、そんな家庭の問題を無視して、ボランティアや市民団体が、相手のオトコをつるし上げて気勢を上げる。
そんな行為も、合法的といえるでしょうが、「機能が不全となっている」という本質的な問題の解決を向いた対応ではないでしょ?

最初に書きましたが、自分で考えることが怖いダメダメ家庭の親は、逆に言うと、法律の面ではヴァイオレートしたりはしないもの。
と言うよりも、「法律さえ守っていればいいじゃん!」というズボラな心理になっている。

そんな思考停止の人間を、法律で修正しようとしても、依存する形が多少変わるだけで、法律などの外部的な体系に依存することで思考停止となっている本質は変わらない。
ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、そのダメダメな親の問題をちゃんと直視すれば、いくら法律を整備しても、対処不能であることは分かるはずなのでは?

実際に、子供の前で、ぬいぐるみを怒鳴り声をあげながら蹴飛ばす親を、どんな法律で規制するの?できないでしょ?しかし、できないといっても、それが子供の心に多大なる影響を与えるのは、誰でも分かること。そんなことは、目の前でぬいぐるみを蹴飛ばされる子供になった気持ちになれば、誰でも分かることですよ。
逆に言うと、スグに政治を持ち出したり、法律を持ち出して、べき論を語ってばかりの人は、自分の出身家庭なり自分の親の問題から逃避しているわけです。
児童虐待の事件が発覚したりすると、刑罰の厳格化などが議論にされたりするようですが、この種の家庭問題を、刑罰によって解決するといっている人間自身が、自分の目の前の問題を放置している危険人物なんですね。

この手の家庭問題に接して、スグに法律の問題にしてしまう人は、結局は、法律を持ち出すことにより、法律に依存して、子供の話をまるで聞かなかったその人の親と同じ行動をしているわけです。
そして、そのことを指摘されるたりすると逆上してしまう。
あるいは、「自分は親とは違うんだ!」と主張するために、より過激な行動となっていく。
そのような、倫理的で合法的で聞く耳持たずのスタイルは結局は親譲り。

メールマガジンでマルグリット・デュラスの「ラ・マン」を取り上げましたが、その中で「個人の問題を政治によって解決するという迷信。」という記述がありました。
そして、かつて「政治に期待していた」デュラス自身を、後年の彼女は「判断の虚弱」と言っています。

法律のような外部的な規範に頼り、逆に言うと、家族の意向などは平気で無視してしまうダメダメの問題を、法律の整備で解決しようとする発想は、デュラスだったら、「判断の虚弱さ」と言ったわけですし、キリストさんだったら、「盲人が盲人を道案内して、穴に落っこちる。」と言いましたし、まあ、この私だったら、「アタマがおかしいんじゃねーの?」、あるいは「それって、アンタの親と全く同じじゃないの?」と言っちゃうわけです。

しかし、そんな「アタマがおかしい」人が雁首寄せ合って機能不全家庭の問題を議論している。
そんな不思議の国のアリスのような事態になっている。
そして、そのツケは、まさに合法的な形で子供に集約してしまうんですね。

ダメダメ家庭の問題は倫理の問題ではなく、心理の問題なんですよ。
だから、心理面に目を向けていかない限り、理解もできないし、対処もできません。
しかし、倫理だけに目を向け、心理面には何も対処しないことも、やっぱり合法的となってしまう。
だからこそ、この種の事件が繰り返されるわけです。