トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
アップ日 11年2月18日
タイトル 捨てる覚悟 (ゴミ屋敷の問題)
よくテレビなどで、いわゆるゴミ屋敷なるものが出てきたりしますよね?
どーでもいいようなものを溜め込んでしまって、部屋の中がいっぱいになってしまい、そんなゴミのようなものが、家からあふれ出してきてしまう。
見てくれが悪いと言うばかりではなく、衛生面から見ても問題がある。
それに、「捨てない」のはいいとして、じゃあ、その保管しているガラクタのようなものを、実際に使うの?その予定はあるの?
と言うか、いざ使おうとしても、どこにあるのかが、住んでいる当人たちにも分からないのでは?
ゴミ屋敷としてしまった住人としては、「これも、いつかは役に立つかもしれないから・・・今のところは、捨てたくないんだ・・・」と、言ったりするようですが・・・

「いつかは役に立つ。」という住人の言葉はいいとして、じゃあ、その将来において、その住人は何をしたいの?
「今後10年間において、私としては、○○と△△をしようと思っている。そのためには、この☆☆が必要になるんだ。だから、家の中が狭くなるけど、今は保管しているんだよ。」そのような説明だったら、聞いている側も理解しやすい。

しかし、捨てられない人というものは、そのような将来イメージを明確な形で語ったりはしないでしょ?
「将来に必要になるかもしれない。」という言葉はいいとして、将来イメージが明確ではないからこそ、将来に必要なものと、不必要なものとの区別が付けられない・・・それが最大の問題なんですね。区別が付けられないからこそ、あらゆるものを溜め込むことになる。
これでは、ゴミ屋敷になるのも当然でしょ?
将来において、その人は、いったい何を達成したいと考えているの?
あるいは、今までにおいて、その人は、いったい何を達成したの?

ゴミ屋敷の住人さんは、それまでにおいて達成したものがない人と言えるでしょ?
人と違ったものがあったら、それをマイナスとして認識し、その点を必死に除去しようとするだけ。
常に減点面に視点が向いていて、失うものに対して過剰に反応する。
だからこそ、捨てるということによるマイナスに過剰に反応してしまう。
まさに、顕著な減点がないという「ふつう」な状態を志向している。しかし、だからこそ、結果的に「ふつう」とは程遠い姿になってしまう。

その人に、それまでに、実際に達成したものがあれば、その達成した際の成功体験を踏まえて、必要になるもの、必要になりそうなもの、不要なもの・・・その分別なりプライオリティを付けられるでしょう。
捨てられない人は、達成体験がないがゆえに、区別が付けられない。

ものを捨てられない人は、実は、自分で達成したものがない。だから、自分に自信がない。
自信がないからこそ、ますます減点法になり、持っているものが失われるという目先のマイナスにとらわれてしてしまう。
自分が達成したい目標があれば、分別は可能になるもの。
捨てられないということは、その分別ができないということであり、つまりは、自分が達成したいものや、達成したものが自分でも分かっていないということ。分かっていないというか、現実的に言うと、自分が今まで達成したもの自体が存在しない。

もし、その人に達成した成果があったら、それが自信となり、日々においてもそれなりに落ち着きとなるでしょうし、それこそ、今際の際においても、その成果を眺めながら、あるいは、思い出しながら、安らかに旅立つことができるのでは?
しかし、達成したものがなければ、日々においても、今際の際においても、不安ばかりですよ。
だからこそ、今現在持っているものを、手放せない。
確たる将来イメージがないからこそ、捨てるという判断ができない。

ゴミ屋敷の対極と言える整理整頓された部屋を達成するためには、目先の散らかっているものを、的確に片付けるのではなく、自分の理想とする部屋のイメージを明確にして、その達成の方法論として、ものを片付けていく必要がある・・・そんなことをおっしゃっていた人もいました。
つまり、分別とは、目先の選択ではなく、将来イメージの問題なんですね。
逆に言うと、将来イメージがないと、目先の選択もできるわけがないでしょ?

それこそ、結婚生活に踏み切ることもそうでしょ?
結婚生活に対して、自分なりの確たる展望を持っているのなら、独身時代に自分が持っていたものも捨てることができますよ。確たる将来イメージというと、ちょっと敷居が高い物言いですが、マトモな家庭の出身者だったら、自分の両親が作った家庭を出発点とすればいい。一番よく知っている家庭を基準にして考えるわけだから、それほど難しいことではありません。

結婚すると、自由な時間は減っていきますし、お金だって自由にはならない。
あるいは、たまに話題になる苗字においても、そんなもの。
新しい苗字での生活に展望がないからこそ、今まで持っていた苗字にこだわってしまう。
そんな姿は、使いもしないガラクタをいつまでも保管するゴミ屋敷の住人の心理とまったく同じなんですね。

何も苗字を変えないとダメと申し上げているわけではないんですよ。
捨てるという選択肢を含めた上での判断ができないことが問題だと申し上げているだけです。
このようなことは、結婚に続く子育てにおいても同じ。子供を持つと、自由な時間がもっとなくなる。お金だってもっとなくなる。
じゃあ、何を得られるのか?子供を持って何をしたいのか?
それが自分なりに明確になっていればいいわけでしょ?

子供を育てることによる、社会参加を考えてもいいでしょうし、
あるいは、子供によって次の時代につながっていく・・・そんな意識の人もいるかも?
親になることで、自分自身が成長することでもいいでしょう。
子育てによって得るものの具体的なイメージがその人なりにできていないと、子育てによる時間やお金の喪失も、単なるマイナスとなってしまう。
この文章の初めの頃に書きましたが、将来イメージが明確だからこそ、現時点で自分の持っているものを捨てるという判断もできる。

しかし、ダメダメ人間は抑圧的であり、自分自身では何も考えない。
な〜んとなく結婚してしまい、な〜んとなく妊娠してしまい、結局は、子供に時間を奪われたと認識することになる。妊娠する前に十分に検討したわけではないし、子育てを肯定的に見ていない。だから、自分の子供を犯人認定し、自分の時間を奪った加害者たる子供に対して謝罪と補償を求めることになる。自分では何も判断していないがゆえに、不都合なことを、自分が被った被害として認識する。

以前に持っていた何かを失ったと言っても、
「ちゃんとした当人の判断のもとに捨てたのか?」
「ただ、ダラぁ〜と生きていて、いつのまにかなくなったのか?」
その2つは違うでしょ?そして、いつのまにかなくなったパターンだと、そのマイナス分を被害として認識することになるのは当然でしょ?
当人が何も考えていないがゆえに、被害とみなされてしまう。
そして、被害感情を声高に叫ぶことになる。

このようなことは、人間としての老いにおいても同じ。
たとえば、子育てにおいても、子供が成長していくイメージがあれば、親としての自分の老いも受け入れられる。
子供を持たなくても、年齢を経た分だけの充実をイメージできれば、若さに対して過剰にこだわらなくてもいい。
逆に言うと、年齢を経た分だけ自分に得るものがなければ、歳を取ることを過剰に否定するようになるのは当然のこと。
中年なりにやらなければならないことを意識していないと、若さにこだわるしかない。
自分でやりたいことが明確になっていれば、若さを捨てることもできる。
新しい時期への展望が明確になっていればいいだけ。

思い出の品であっても、将来において役に立たない限り、あまり意味はない。
そんな品物は、物理的に保管しておいても、埋もれてしまうだけ。
大事な品と言っても、それを保管することで、将来が毀損してしまったら意味がないでしょ?とにもかくにもモノを捨てなさいということではなく、プライオリティの問題といえます。
絶対に残したいもの、無理に残す必要はないもの、捨てた方がいいもの・・・そんな区別の問題なんですね。

しかし、何度も書きますが、抑圧的な人間はその区別ができない。
だって、その人なりの将来イメージを持っていないんだから。

その人が実際に達成したものがあるのなら、モノは捨てられる。
あるいは、どうしても達成したいと考えているものがあるのなら、別のものは捨てられるでしょ?
それがないがゆえに、捨てることができない。
確たる将来イメージがないがゆえに、常に不安にさいなまれる。
だからこそ、発生した、あるいは発生の可能性のあるマイナスに対して過剰反応してしまう。

そのような事態は、たとえば、いわゆる伝統芸能の分野でもあったりするでしょ?
昔の表現なり考え方なり習慣はそれなりに意義があったでしょうが、それをいたずらに墨守しても意味ないのでは?いつの時代にも変わらない人間の真実をどのように伝えるのかが重要なのでは?そんな普遍的な真実につながっていないものなどは、歴史の中に埋もれさせればいいだけで、将来へ無理に残す必要はないでしょう。
そして、そのためには、その伝統芸能の中で受け継がれているもののうちで、何を残していくのか?そんな選択ができればいいだけ。昔の流儀を、とにもかくにも残しているままだと、まさにゴミ屋敷のようになって、腐ってしまうだけ。昨今話題の相撲協会なんて、その典型でしょ?

ゴミ屋敷くらいのレヴェルだったら、特殊な事例とも言えるでしょうが、「捨てることができない。」と一般化すると、ダメダメな領域において、ポピュラーな傾向と言えます。
最初に書きましたが、ダメダメ家庭を作る親は、往々にして「後で使うかもしれないから・・・」とかの言葉を持ち出し、「捨てる」という判断を先送りすることが多い。
このようなことに関して、以前に「代価と見返りの違い」という文章を配信しております。
ダメダメ家庭の人間は、自分の目的を達成するために「代価」を支払う発想がない。
いつの間にかなくなってしまった自分の被害に対しての「見返り」を要求するだけ。
何度も書きますが、達成したいもの・・・それ自体が存在しないんだから、代価という発想はありませんよ。

しかし、世の中の人は、代価と見返りの違いを厳密に区別している人ばかりではない。
だから、代価も見返りも一緒に議論されてしまうことになる。
あるいは、このサイトにおいては、ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、単純な肯定と、二重否定を区別することが効果的であると頻繁に書いています。
「捨てることができない。」というのは、まさに二重否定であって、単純なスタイルの肯定である「将来使う予定である」とは違っている。
その違いを意識していないがゆえに、周囲の人も、ゴミ屋敷の住人の心理を理解できない。だから、そんなゴミ屋敷を作る人がどんなトラブルを引き起こすのかも予想できない。それこそ、ゴミを捨てられずにゴミ屋敷になってしまう事例の対極のような形で、自分の子供を捨てるような事例があったりするでしょ?

ゴミ屋敷の住人のようなキャラクターだったら、何でも溜め込むわけだから、子供を大切にするだろう・・・
そんな能天気な考えの方がいらっしゃるかもしれませんが・・・
むしろ、ゴミ屋敷を作るような人だからこそ、子供を捨てることになる。
それだけ、自分なりの将来イメージを持たないままで生きているということなんですからね。
子供を捨てる親というものは、なんとなく生きていたら、いつのまにか子供ができてしまって、今までの自分の自由な時間がなくなってしまったので、ジャマな存在を排除するために、子供を捨てるという流れになっている。
自分なりの明確な将来イメージがあって、そのために子供がジャマというパターンも論理的には存在するでしょう。しかし、普段から、明確な将来イメージを持っている人なら、妊娠出産する前に色々と考えるでしょ?
だから、現実的には子供を捨てるようなことにはならない。

しかし、「捨てられない。」と「是非とも保管しておきたい。」という肯定と二重否定の区別をつけないような一般の人は、子供を捨てる親と、ゴミ屋敷の住人の心理的な共通性が分からない。
捨てられない人というのは、実質的にはネグレクトなんですね。
否定的に見てはいないかもしれないけど、肯定しているものが何もないない。つまり、何も考えていない。

将来イメージを掲げることから逃避する人ほど、「ふつう」という言葉にすがり、目先のマイナスばかりに反応する。
ゴミ屋敷のような、外観的にも明確な事例ばかりではなく、捨てられない人というのは、「何を捨てるのか?そして何が必要なのか?」そんな判断ができない。
だからこそ、自分の子供に対しても、マイナス面ばかりに過剰反応する。

心血を注いで子育てをしていたのなら、子供のために親としての自分の命を捨てることもできたりする。まさに子供が「生きている」ことが成果とみなすことができますからね。
何も生死に関わるようなレヴェルまではいかなくても、子供が本当に困った時に、そのような覚悟を伴ったサポートもできる。
しかし、何も捨てられない人は、子供のクリティカルな場面においても、世間体などを気にしてしまう。子供の将来の幸福と、周囲からのお小言の間のプライオリティがつけられない。離婚する場合でも、世間体を重視して、相手からの養育費の受け取りを拒否するような格好のいいことをして、子供の将来を犠牲にする。
親としての覚悟のなさは、子供にも伝わり、それゆえに、子供だけでトラブルを解決しようとして、大きなトラブルになってしまう。

昔からの物言いで、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。」という言葉もありますが、捨てない限り見えてこない出口もある。それはゴミ屋敷のようなものばかりではなく、現実に生きていればそんなことが多いでしょ?
何も捨てられないからこそ、出口がみつからず、結局は、将来の可能性をその属性とする子供を排除することで、とりあえずの対処としてしまう。
捨てられない人が最初に捨ててしまうのは、確実性ということでは一番弱いといえる将来への可能性・・・世の中にいる捨てられない人とは実際にそんなものでしょ?

従来から愛用してきて、それなりに実績のある道具だって、自分の将来イメージとの間に齟齬をきたしてくるようなら、無理に保持する必要はないでしょう。それなりの楽しみを与えてくれた道化を捨てるだけでなく、自らを支えてきた思いなり、能力を捨てることも必要になってくる。
「自分を語ってくれ。」と自分の元にやってくる言葉とも、「自分を形にしてくれ。」と、やってくる霊感とも別れる必要があると言えるかも?
しかし、そのためには、「それまで成し遂げたもの」、そして「今後に行うもの」が明確になっていないと難しい。
もし、その道具がすばらしい道具だとしたら、逆に言うと、その道具による実績もあるはずでしょ?魔法のような光彩陸離たる業績を作ったがゆえに、逆に言うと、そんな道具を捨てることもできるのでは?

道具を解き放つことによって、自分自身も解き放たれることもできる。
あらしを起こせるような卓越した能力も、それゆえに自分を縛ってしまうこともある。
あらしのような日々と向き合ってきた使命感も、その人を縛ってしまうこともある。
そんな日々の積み重ねが、その人を縛ってしまう。
魔術師という存在は、魔術が使える能力を持つがゆえに、その能力そのものによって自らが拘束されてしまう。
だから、自らを解放するには、その能力も使命も道具も解き放つ必要がある。
言葉を使って魔術を起こした芸術家は、それゆえに、自らの能力から解放されたいと、最後には切望することになる。
だから、最後には、「Let your indulgence set me free」と言う言葉になるのでは?