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カテゴリー ダメダメ家庭は立派な言葉が好き
配信日 03年10月1日 (10年4月8日に大幅に改訂)
タイトル 普通の家庭を築きたい!
前回の文章において取り上げた「普通の子供になれ!」という言葉と同じように、「私たちは普通の家庭を築きたい!」という言葉も、ダメダメ家庭ではよく使われる言葉です。
「普通の子供になれ!」と子供に語る親がダメダメであるように、「普通の家庭を築きたい。」と語る親も、現実的にはダメダメですよね?

何故かって?

大体において「普通の家庭を築きたい。」なんて明確な願望自体が、「普通の人」には無縁のものでしょ?

たとえば、実際に人間だったら、「早く人間になりた〜い!」なんて言わないですよね?
人間ではないからこそ、そして、そのことを分っているからこそ、「人間になりたい。」という「願望」を持つんでしょ?
同じように「普通の家庭を築きたい。」なんて願望も、「普通の家庭」には無縁のものなんですね。それだけ、「ふつうの家庭」を外から見ているということでしょ?
だから本来は、「普通の家庭を築きたい。」という願望を感じた時点で、自分自身を振り返ってみればいいのでしょうが、ダメダメ家庭ではそのようなことはしない。
そして、何かトラブルが起こると、「私たちはただ普通の家庭を築きたいだけ。何も大それた望みなんて持ってないわよ!」と周囲に言ったりするものです。

しかし、「普通になりたい。」という願望そのものが普通ではないでしょ?
そんな「ふつうではない」願望を掲げることによって、ますます普通から遠ざかっていくことになりますよ。

では、「普通になりたい。」という願望が、どのようにダメダメ家庭のダメダメ振りを進行させていくか?その点について、ちょっと論理的に検証してみましょう。

ちょっと、難しいかもしれませんが、ビジネスシーンでよく言われる言葉として「PDCAサイクル」というのがあります。

Plan(目標を掲げ、計画し)⇒Do(実行し)⇒Check(成果を検証し)⇒Action(フィードバックをかける)⇒ そしてまたPlan(そのフィードバックを受けてさらに計画する)に戻る・・・とサイクルのように作業を行いながら、目標とするものを達成する手法です。PDCAはそれぞれの頭文字です。

では、お望みの「普通の家庭を築く」ためにはどうすればいいのでしょうか?
上記のPDCAサイクルに当てはめてみましょう。

まずはPlan(計画)・・・「普通の家庭を築くこと」とする。
Do(実行)・・・一体何をするの??ここで困ってしますよね??

そう!「普通の家庭を築きたい。」という目標を達成するために、具体的に何をすればいいのかが分からない。そもそも「普通の家庭」というのは数値で表せるようなものではないでしょ?
収入が年収いくら・・・子供の数が何人・・・夫婦の会話時間が何時間/週・・・車は何台?・・・家は持ち家でないと不可・・・ペットは犬とネコ・・・そのように定義できるでしょうか?

ですから、結局は、実際の行動である「Do」で頓挫してしまうことになり、PDCAサイクルの「Do」の後のCheck(検証)も、Action(フィードバック)も不可能になってしまう。
検証やフィードバック等をかけて、問題点を抽出し、改善していくようなことはできないわけです。と言うか、「ふつうの家庭をつくる。」というのは、単なる願望であって、Planとは言えないでしょ?だから、具体的な行動にはつながらない。

つまり「普通の家庭を築きたい。」という言葉は、本人たちの「思考停止」の便法なんですね。いや、思考停止だけでなく、行動停止にもなります。目標が具体的でないために、行動の取りようがないわけです。目標が具体的ではないというよりも、目標ではなく願望にすぎない。つまり、願望を前面に出すことにより、具体的な目標の不在をごまかしているわけです。
そして、思考も停止し、行動も停止しているがゆえに、何も認識しなくなる。都合が悪い事態になっても、それを見ようとしない。
不都合な事態を「見ない」ことを、あるいは、「見えなくすること」を、「ふつう」達成の方法論としてしまう。

しかし、本人達は「私たちは高望みはしていない。ただ普通の家庭を築きたいだけ!」と周囲に発言する。しかし、「普通の家庭」と言うのは、結果としては存在しても、目標としては存在しようがないものです。
そんな人は、「ふつう」という言葉を掲げることで、明確で具体的なイメージを掲げることから逃避しているわけです。むしろ、何かアクションをしようとすると、「そんなことは、ふつうじゃないからダメ!」という形で、何かを否定するために使われることになる。

具体的なイメージがあるからこそ、その達成のために、自分なりに努力もできるわけですが、具体的なイメージもなく、ただ「ふつうの家庭」ということなら、具体的なアクションをしようがないでしょ?
というよりも、自分では何もしたくないし、考えたくないがゆえに「ふつうの家庭」と言い出しているわけです。
色々とやってみた結果として、大きな問題がない「ふつう」の家庭はあっても、「ふつうの家庭を作りたい!」と宣言している家庭がうまく行っている例はないでしょ?

家庭での様々な活動の日々の後を振り返って、「ああ、ウチは普通の家庭なんだなぁ・・・」としみじみ思うことはあっても、力瘤を入れて「普通の家庭を絶対に築くためにガンバルゾ〜!」と拳を突き上げるようなものではないでしょ?「普通の家庭の幸福」などと言うものは、後になってフッと感じるものであって、常に感じ続けているものではありませんよね?それこそが「ふつうの家庭」というものでしょ?

「普通の子供になれ!」の例とも共通しますが、「普通の家庭」という言葉を持ち出すことにより、周囲の家庭を外から観察することが習慣となってしまい、結局は普通から外れた発想が身についてしまうわけです。
常に「普通」の外に身を置くことになる。
逆に「普通の家庭」の外見的スペックを考えるようになる。
とにもかくにも、「ふつうの家庭」の外見に合わせるようになる。
逆に言うと、外見に合わせるだけでいいので、自分たちでは何も考えなくてもいいし、自分たちの家庭の現状を見なくてもいい。ただ、ひたすら、周囲の家庭の姿を見続けることになる。
それこそ子供の数とか持ち家とか、家族旅行の頻度とか、職業とか・・・「外見的な普通」にこだわりだすようになってしまう。
そうなると、その自らが認識した「普通の定義」から外れるような行動を抑制するようになる。

「そんなことしては、普通でなくなってしまうからダメ!」
「そんな服を着てはダメ!普通じゃない!」「大学ではもっと普通の学科に行きなさい!」「職業は普通の職業にしなさい!」等々・・・常に他人の行動を意識してしまう。
しかし、自分自身の家庭から目をそらし、そして自分たちの家庭の現状なり、家族の気持ちに何も配慮しない日々が続くとどうなってしまうの?
そんなことは、本来なら誰でも分ること。
しかし、逆に言うと、自分自身なり自分たちの家庭から目をそらすためには、「ふつうの家庭を築きたい!」と言っておけばいい。
ダメダメ家庭においては、「ふつう」というのは、その人なりの具体的なイメージを持っていないことを表した言葉と見た方が理解しやすいわけです。

このような、「思考停止」あるいは「行動停止」の便法としての「普通願望の表明」は、結構ポピュラーなものでしょ?
まさに、ダメダメ家庭では、その言葉がお約束でしょ?

私は芸能界などには興味もありませんが、大昔、歌手(なんですか?)の沢田亜矢子さん(でしたよね?)と夫でマネージャーだった松野氏の離婚問題がありました。その折、沢田さんは「私は何も大それた希望を持っていない。家族3人が『川』の字のように3人仲良く床につければいいだけ・・・」という『典型的』なセリフを言っていました。

その言葉を受けて、もしかすると、世間では沢田さんに同情が集まったのかもしれませんが、ちょっと考えて見れば不思議ですよね?
大体において、「普通の家族を築きたい。」と、本気で思っている人が、あの松野氏のような人と何故に結婚するの?松野氏個人のキャラクターに対しての好き嫌いはともかく、彼は「普通の家庭を築く」のには不適格な人ですよ。

彼との再婚当時は、沢田さんはお子さんもいらっしゃって・・・彼女自身も、もう分別も持っているお歳だったはず。「普通の家庭を築きたい。」のでしたら、もっと「普通」の男と結婚した方がいいはずですよ。

このようなことを書くと、「当時の沢田さんには、まだそのように男のキャラクターを判断するだけの能力がなかった。」と反論される場合が多くあります。

しかし、もう20歳を過ぎていたわけですし・・・それに沢田さんは芸能人なんだからアーティストといえるでしょ?もっと人間心理には通暁していないと・・・それにお子さんがいらっしゃるということは、色々と人生経験があるということでしょ?あるいは、失敗経験もあるということでしょ?本来なら、その失敗経験から得るものだってあるはずでしょ?
一般的なサラリーマンと結婚して、結果的に「ふつうの家庭」ではなくなってしまったのなら、まだ理解できますが、そもそもが「ヘンテコな人」と結婚して、「ワタシは普通の家庭を築きたかった!」と言われても、何とも言いようがないでしょ?

私は沢田さんを非難しているわけではありませんヨ。
「普通の家庭を築きたい。」という願望を持った時点で自分自身を振り返っていたら、沢田さんも、あのようなことにはならなかっただろうなぁ・・・と思うだけです。

実際問題として、「普通の家庭を築きたい。」と言う人に限って、とても普通とは言えない人間と結婚しますよね?
「オイオイ!普通の家庭を築くためには、まずは一般的というか、平均的な相手との結婚することからでしょ?」と言いたくなるような例ばかりですからね。
そして、結果的に、一般的な家庭の姿から外れてしまい、「私はただ普通の家庭を築きたいだけ・・・」と一生言い続けることになる。
それが本人で終わっていればまだマシなのですが、子供にも受け継がれ、「普通の子供になれ!」とのありがたいアドヴァイスになってしまう。

そもそも「普通の家庭を築きたい。」という言葉はいいとして、じゃあ、その人は、その人自身がよく知っているはずの「自分の実家」のような家庭を築きたいの?
自分の実家はどんな家庭だったの?
何も考えないで、「ふつう」に生きていたら、一番「なじみ」で「身についてしまっている」流儀である、実家のスタイルが再現されるだけでしょ?

自分の実家を肯定しているのなら、「普通の家庭を築きたい。」なんて言わずに、「自分の両親のような家庭を築きたい。」と言うのがスジというもの。だって、それだったら、まだ、具体的な目標といえますよ。具体的な見本を設定しているわけですしね。「普通の家庭を築きたい。」と言っている時点で、自分の過去から逃避して、自分の将来を考えることからも逃避しているわけです。

結局は、そのような「普通の家庭を築きたい!」と言うような人は、本気には「普通」・・・と言うか、一般的にはなりたくはないんですね。むしろ「ふつうの家庭を築きたいだけ!」という「嘆きの言葉」を言いたいだけ。その言葉を言うためには、実際に「ふつうの家庭」になってしまったら言えないでしょ?
人の本当の願いは、その言葉には表れていないもの。本当の願いはその行動や結果から分るものなんですよ。人間は無意識での願望には忠実なものなんですよ。

本番第2回目終了
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発信後記

購読ありがとうございました。
今回沢田亜矢子さんの例を上げていますが、これは皆さんご存知の人だからで個人的に深い意図はありません。最近娘さんがテレビに出ていたようですが・・・
R.11/2/2