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カテゴリー ダメダメ家庭が好きな単語
配信日 03年10月13日  (10年5月15日 記述追加)
タイトル 「全部」という言葉 (総論のみのやり取り)
突然ですが、ちょっと韓国の方がよく言う言葉を思い出してみましょう。

韓国の方はよくこのようにおっしゃいますよね?
「日本の文化は『全部』韓国人が教えてやったんだ!」・・・実際にそのようにおっしゃいますし、何と韓国の国定教科書にも記述してあります。
皆さんも、その言葉は、実際に聞いたことあるでしょ?

しかし、その「全部韓国人が教えてやった。」との言葉を聞いた日本人は、大変に困惑しますよね?どのように回答すればいいのか?全くわからないでしょ?
まあ、唯一言えるのは「あら、そう?」という言葉くらいになってしまう。他に何か言えますか?

しかし、その日本人の沈黙はその韓国人の意見に同意したわけではない。しかし、その不同意は「日本の文化は日本人によって『全部』成立したから・・・韓国人の言うことなどは、間違っている。」と思っていることから来ているのではありませんね?

むしろ、「全部韓国人が教えた。」という言葉に何も言えなくなるのは、「全部」という単語が入っているからです。「全部って、一体何?」と、ほとんどの人は思うでしょう??

これが「法隆寺の建築様式」とか「室町時代の水墨画の様式」とかの具体的な事例についての話だったら、具体的に韓国から「教えてもらった。」とされる内容を検証することができますし、だからこそ言われた側も、考えたり、意見を言ったりすることができるわけです。

たとえば、よく韓国の方がなさる「総論のみ」の発言スタイルの場合だったら、こんなやり取りになるわけです。

韓国人「日本の文化は全部韓国人が教えてやったんだ!」

日本人「へぇ、そう?」

これで終わりになってしまいます。まあ、感情的になっちゃう場合もあるかもしれませんが・・・そんなものでしょ?
ちゃんとしたやり取りをしようとしても、この時点でとまってしまうでしょ?

これが具体的な各論を提示している場合には、以下のような流れになるわけです。

韓国人「この西暦1000年頃に建てられた韓国のお寺の、柱の形を見てご覧?」と、写真を見せる。

日本人「へぇ・・・特徴のある形だね?」

韓国人「それから、これが西暦1050年頃に日本で建てられたお寺の柱の写真だよ。」

日本人「ああ!随分と似ているねぇ・・」

韓国人「実は、西暦1000年に韓国でお寺を建てた技術者の子孫が日本に渡っているんだ!」

日本人「そうなの?」

韓国人「その子孫は、さっき挙げたお寺だけでなく、他のお寺の建造にもかかわったんだよ!」

日本人「そうなの?じゃあ、もっと似た形の柱がもっとあるかもね。」

という「会話」が進行することができますね?

実際には、韓国の方は、そのような「会話」が進行することはなく、韓国の方は国定教科書にあるとおりに総論のみをおっしゃいますよね?

韓国の方を好きではない日本人が多いのは、別に民族的偏見というより、「会話」を楽しめない人を好きではない・・・と言うことなんですね。

私はここで、韓国問題を語るつもりはありません。そもそも趣旨違いですし・・・
私にも韓国人の知っている人もいますしね。

ダメダメ家庭の特徴として、家庭内に会話がないことがあげられます。

会話がない状態というものは、物理的に人間の音声が飛び交うことが全くない沈黙状態・・・ということではなく、意見の交換,情報の交換が行われないということなんですね。
やり取りにおいて、相互理解を目的にしていない・・・そのようにも言えるでしょう。

一見、音声が飛び交っていて、会話が出来上がっているように見受けられる場合でも、上記のように、相手が何も言えないで「・・・」となってしまっている状態もあるわけです。

その「・・・」という反応で、納得しているのならいいのですが、大体においては「・・・」というのは納得していない状態。
「納得している」ということと「相手に対して何を言っていいのか、判らない」ことは全然違っています。納得していることは、いわば肯定形。しかし、反論しないということは、二重否定でしょ?

そして、「何を言っていいのか、判らない」状態の繰り返すと、それにより家庭内から「会話」が喪失いたしますよね?

このように、ダメダメ家庭を作り上げる親の特徴として、その発言が総論のみで、各論がない、ということがあるわけです。
会話において、「全部」とか「皆」とか「すべて」とかの一括りにして、個別の具体例が出て来ないんですね。

例えば、もうすぐ衆議院選挙ですが・・・

この手の議論になると、巷では「総論賛成,各論反対」なる言葉がよく搭乗するもの。
何故に、このような「総論賛成,各論反対」ということが生じるのでしょうか?それは総論というものが、実際に何かの行動を伴わない、いわば抽象的な議論のみであることが多いのに対し、各論は具体的な行動が必ず発生するからでしょ?具体的な行動が発生すれば、すべてに賛成と言うわけには行かない。

総論だけの議論はえてして「議論のための議論」に陥りやすいものです。各論から発生する具体的行動を吟味し、その結果を評価する。本来はそのような形で議論が進行しなくてはならないはずですね?

例えば政治の世界で考えて見ましょう。
「日本の改革」と言うことでしたら、すべての人が賛成する。それはそれで結構なことですが、逆に言うと議論にならない。
「賛成!賛成!賛成!」で終わりでしょ?それこそ郵便局民営化と言った具体的な各論が出て、初めて本当の議論に進むことができる。それは具体的な行動とそれを評価することができるからです。

ところが東アジアに巣食う「儒教精神」では、具体的な行動というものが軽んじられる傾向にあります。日本に限らず、過去において儒学者が実際の政治にタッチしても「能無し」でしたね?

具体的な行動を吟味し、評価することを軽んじる儒教精神は、本当の議論に発展しないわけ。まさに儒教こそが「アジア的停滞」の思想的バックボーンとなったわけです。

ここで、儒教問題を云々するつもりはありませんよ。ちょっと難しいし・・・
私が申し上げたいことは議論における具体的な各論の重要性です。

「親を大切に!」とか「政治家は全員が悪党だ!」とかの総論に近い意見を出されると、議論にならないわけです。
実際にそのように言われても、やっぱり「何と言っていいのか、判らない。」ですよね?

これが「○○さんのお子さんが両親を老人ホームに入れたことについてどう思うか?」とか「自民党の△△という政治家の、汚職問題についてどう思うか?」と言った問いかけがあると、議論が進みますよね?

つまり、そこに『会話』や『議論』が成立するわけ。
議論が進むと、その知見も広かって行くことになる。そして、その知見を別の人にわかってもらおうとして、また別の会話が生まれることになる。

『全部』と一括りされると、会話が成立しないわけです。
あるいは単なる精神論とかも・・・
反論がないからと言って、その意見に同意したわけではないんですね。反論のしようがないだけなんです。

それこそ、前にも書きましたが、政治の世界でも、「日本の改革の必要性」ということには異論が出てこないわけですね。各論だからこそ議論がある。

つまり「総論のみの会話」によって、家庭内において活発な会話や議論が成立しなくなるわけです。だって言われた方は意見の言いようがありませんもの。よって、総論のみの儒教精神は家庭内の停滞も作り出すことになるんですね。

このような会話のない家庭、停滞した雰囲気の家庭。それこそがまさに「ダメダメ家庭」の最たるものです。
それに、会話の訓練を家庭内で受けてこられなかった子供が将来どうなるかについては、容易に予想できるでしょ?
自分の意思を実現させるために、どうしても暴力的にならざるを得ないわけです。
あるいは、親譲りに、総論のみを連呼するようになってしまう。

あるいは、総論ばかりの雰囲気の中なので、具体的な細部の違いに目を向けることをしなくなってしまう。
だから、その視点も大雑把だし、その認識も大雑把だし、その解決も大雑把。

似ているようで、実態としてかなり違うようなことはやっぱりあるでしょ?
それこそ「ずるい」と「きたない」は違いますし、
「浮気」と「レイプ」も違いますし、
会社勤めと言っても、「部長」と「係長」は違いますし、
東京と言っても、世田谷区と足立区は違うでしょう。

「浮気」をなくすための対処と、「レイプ」をなくすための対処は、大きく違っているものですよ。しかし、その違いを無視することにより、逆に言うと「オトコはケシカラン!」とクレームを付けるだけになってしまう。当事者意識を持って問題を見ることから逃避してしまうわけ。

ちょっとした違いに目を向け、その違いから発生する流れとか、あるいは、その違いが起こった要因とか・・・そのように具体的に考えていくと、ダメダメについての知見も得られていくわけですし、逆にいうと、ダメダメにならない具体的な対処方法も見えてくるわけです。

総論ばかりだと、結局は何も知見が得られず、だからこそ、相手に伝えたいこともなくなってしまう。だからこそ、ますますコミュニケーション能力の習得ができなくなってしまう。

出身家庭のそんな雰囲気は、実際にやり取りをすればスグにわかったりするもの。
やたら、「全部」とか「全員」とかの総論的な用語が頻発している人は、かなり危険人物といえるわけです。
もちろん、そんな人と実際にやり取りをしても、楽しいやり取りにはならない。
その時点でさっさと避けることが最善の策。
しかし、その手の人は、自分の被害を語ることにより、「ワタシに構って!」とやりだす。

被害を語るということは、逆に言うと、「自分が達成したい具体的な目標」については何も語れないということ。
だって、総論のみの人は、達成したい具体的な目標なんてありませんよ。

そうして、被害者意識ばかりが膨らんで、結局は「悪いのは、全部○○のせいだ!」などと言い出すわけ。

ちなみにこの文章中、韓国人の発言スタイルについて言及しておりますが、私は別に民族問題を追及するつもりはありません。ただ韓国人の考え方は「ダメダメ家庭」の出身者に典型的なものです。以降も色々と取り上げることになると思います。韓国人は何よりも「韓国人からの抑圧を受けた」被害者だと、お気の毒に思うだけです。

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発行後記
本文でも書きましたが、「親を大切に!」という単なる精神論をぶたれても、言われた方は何も言えませんよね。しかし、楽しい会話がなかったような相手を大切にする気は起きないでしょ?
親と子のように、明確に力の差がある場合には、強い方は相手のことを配慮しないと逆効果になりますね。
R.10/7/14