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カテゴリー ダメダメ家庭と学校
配信日 03年10月27日 (10年9月21日,11年2月11日 記述を追加)
タイトル 学校を選択する
最近では、地区によっては、公立の小学校でも学校の選択が可能になってきました。
勿論、私立学校では昔から自分の希望する学校を受験できました。
このように学校を選択するオプションが広がって来たということは、それだけ「ダメダメ家庭」と「マトモ家庭」の差が広がって行くことになりますね?
例えば、今現在進められている、公立学校の選択性の導入において、結果的に学校間の著しい格差が生じることは避けられないでしょう。

もともとの学校の質の違いだけではありません。学校に通学する子供の違いによって、ますます格差が拡大するわけです。
「子供の意見を聞き、様々な学校を調査して、子供が通う学校を決定する」親が選択する学校と、何も考えずに、ただ、「近くて金や手間がかからないから。」という理由で選択?する親が主体の学校では、埋めようがない格差が生じてしまいます。

もし、子供が「もっといい学校に行きたい。」とか「ちょっと遠くになるけど、○○君と同じ学校に行きたい!」と言い出したとしても、それを無視して、手間のかからない学校に通学させることは法律的には全く合法的な親権です。実際にダメダメ家庭では、そのような観点から、子供が通学する学校が決まってしまうでしょう。
しかし、こうなってしまうと子供の方も、学校や友人の質、授業の質と日々不満が蓄積してしまうでしょ?

そのように「できる子供は荒れ、できない子供はそのまんま。」というハキダメ状態の学校になるわけです。それがスパイラルのように進行する。
教員だって、出来の悪い子供に対し授業するのは面白くないでしょうし、トラブル処理ばかりではイヤでしょ?
となると、教員から荒んでいくことになる。
となって、ますますスパイラル進行する。

まさに現在の企業間、あるいは人間における「勝ち組」と「負け組」のような格差が生じ、それぞれの学校が分別されることになる。負け組の小学校では、子供はただ「諦める」ことしか習得できないわけです。
そして、そのようなところに放り込まれた子供は、ますます「すさむ」ことになります。
小学校時代の体験は、大学時代に得る体験よりも遥かに精神的な影響が大きいものです。
この幼少時に多大なるストレスを子供に与えてしまったらどうなるの?
あるいは、小学校時代から「コイツはできる!」と思えないような程度の低い人間ばかりの環境で育ったらどうなるでしょうか?
どうしても尊大になっちゃいますね?しかし、これはしょうがないことですよ。
やっぱり、勉強に限らず、子供の頃から切磋琢磨する経験をさせないとね。

先日、東京都の区立の小学校で教員が小学生を「暴行?」するという事件がありましたね?
頭のおかしい教員はそれはそれでどうしようもありませんが、あのような事件があっても、まだ自分の子供をその小学校に通わせる親がいると同時に、さっさと転校させる親もいますよね?
結局は、多くのマトモ家庭はさっさと転校させてしまうので、結果的にその小学校は「ハキダメ」小学校になってしまう。
そうなるとますますマトモ家庭の子供は転校してしまう・・・
このようなスパイラルが進行していくわけです。

勿論、あのような問題のあった小学校も「生き残り」のためにサービスを向上させるでしょう。
だからと言って、自分の子供をそのような学校経営の実験台にされてもね。
本来は、あのような事件の前に、それなりの前兆があったりするもの。
事件後の対応の問題もありますが、事件前の対応をチェックすることも重要でしょ?
それを見過ごすような学校、対処できない学校ではどうしようもないわけです。
しかし、ダメダメ家庭ではそのようなことも平気。
ということで、子供の心は荒み、将来への希望をなくすことになる。

今はまだ、このような公立学校での学校の選択は一般的ではありません。しかし、本来は自分の子供の通学している学校について、親として関心と関与が必要とされるものでしょ?
公立の学校に問題があれば、私立に進学することもできるわけですからね。

しかしダメダメ家庭では、子供の学校生活については、ほとんど関心も関与もないわけです。
むしろ、自分たちが目立たず、「ふつう」でいられることには関心がある。
別のところでも書いておりますが、ダメダメ家庭は「ふつう」ということに異常にこだわる。とにもかくにも、周囲に合わせようとする。
と同時に、自分たちの尋常ならざる「ふつう」志向が、「ふつう」でいられるような思考停止の環境を求めている。

学校においても、まさにそうなってしまう。
自分たちのダメダメさに対して、「理解がある」学校を希望する。
そして、そんなダメに甘い学校を求め、ダメに甘い地域を求めることになる。

それこそ、「進学なんて、このあたりの子は、近くの学校に行っているだけ・・・わざわざ遠くの学校に行く人なんていない!」そのように子供に言い渡しても、何の疑問を呈されることなく通ってしまうような学校なり地域環境を、ダメダメな親は求めるわけです。
しかし、そんなことだからこそ、子供に関係した事件が頻発することになる。
子供だって問答無用の親と暮らしていたら、不満を持ちますよ。ストレスにもなりますよ。
そして、同類の家庭の子供が集まって、そのストレスが共鳴することになる。
それが限界点を超えれば、何がしかの事件となったりするもの自然でしょ?
しかし、ダメダメな親は、そんな事件が起こると、被害者意識が刺激され、大仰に嘆くだけ。
そんな嘆きに吸い寄せられるように、市民運動とか、ボランティアとか、いかがわしい宗教団体が寄ってくる。

そんな人たちが集まってくるので、トラブルに対して現実的な対処を取ろうとすると、
「それは偏見だ!」
「色眼鏡で見ている!」
「差別だ!」
と、大騒ぎするもの。
大騒ぎするだけで、現実的な対処はしない。
ただ、「ワタシたちって、何てかわいそうなの?!」と嘆いているだけ。
そして、被害者意識に浸りきって心地いい気分となってしまう。
逆に言うと、現実的な対処は、自分たちが嘆くのにジャマになるので何もしない。
ただ、周囲に対して抗議しているだけ。
その傍らで子供は放置されている。
その手の団体は、敵認定したもの対しての抗議は一生懸命でも、身近な子供の声はまるで無視するもの。

市民運動の盛んなところに、マトモなところはないでしょ?
逆に言うと、市民運動は、その地域がマトモになってしまったら、単なるオジャマ虫ですよ。
だから、トラブルの発生する土壌を温存しようとする。
ダメダメな親は、そんな市民運動の姿を「あの人たちは正義感が強い人だ!」などと持ち上げ、結局はダメダメな現状に対して何も対処せず、一緒になって抗議し、グチっているだけ。

そして、「子供たちのために・・・あの○○をやっつけよう!」などと対抗心を煽ったりするものですが、逆に言うと、その言葉をいつまでも語れるように、現状の改善は何もしない。
ダメダメな親は、嘆いたり、クレームをつけるだけで、改善のために具体的なアクションを何もしない。
そして、自分たちのそんなダメダメなスタイルが「ふつう」でいられる学校なり地域を好むわけです。

子供の意向を聞き、子供の将来を考え、適切な学校を選択するということすら億劫に思っているのがダメダメ家庭というもの。
そして、選択するとしたら、「子供にとって」という観点ではなく、「ダメダメな自分にとって」という観点になる。
だから、ダメダメな自分が「ふつう」と称されるダメダメな環境を求める。
そんな環境の中で、ますます「子供のため」「将来のため」という視点がなくなってしまう。

「どんな学校がいいのか?」
そんなことを、まるで考えないような人間なんだから、たとえば、病気になった際には、「どこの病院がいいのか?」ということも、まるで考えない。
「近くにあるから、あの病院でいいじゃないのぉ〜」と、手短なところに病人を放り込む。
手短な学校で済ませる人は、病院も手短なところで済ませるのは、論理的に当然のことでしょ?
しかし、病院でも、質の問題がありますし、得手不得手の分野があるでしょ?
あるいは、ちょっと無理が利く人がいる場合もある。
そんなことを調べてもいいのでは?

しかし、当事者意識がないダメダメな人間は、近くの病院に放り込んで、「あとは任せたよぉ〜」と丸投げしてしまう。逆に言うと、丸投げしたければ、それにフィットした病院を選択するという方法もあるわけですが、そんな発想もない。近くにあるから継続的に関わることができるというのならともかく、自分で判断したくないがゆえに手短なところに丸投げしているだけ。
結局は、トラブルになったり、治療期間が長く掛かってしまう。
まあ、トラブルにならなくても、病気という事態において、家族からどのように対応してもらったのか?という点は、入院した人は良く覚えているもの。
そうして、後になって、「どうしてもっとちゃんとした病院に入れてくれなかったんだ?」と家族に恨み言。

しかし、そんな恨み言をいう人は、自分の子供が進学する学校について、「近くのところに放り込んでおけばそれでいいじゃないのぉ〜」と、ズボラを決め込んでいただけ。
まあ、因果応報と言うか、子は親の鏡と言うか・・・
「どうしてその学校に入れたの?」とか、「どうしてその病院に入れたの?」という質問に対して、たた『近くだったから・・・』という回答しかできない人は当事者意識がないわけです。

当事者意識がない人は、あらゆる不都合なことを被害と認識してしまい、ヘタをすれば勝手な理屈で報復行為に打って出ることもある。学校の選択や病院の選択など、ちょっとしたことで、その人の当事者意識が見えてくるものなんですね。
実際に、そんな点で、人を値踏みする人っていますよね?
値踏みというと、尊大に聞こえるものですが、当事者意識があれば、強い被害者意識を持っている可能性が低いわけだから、比較的安全な人といえますし、当事者意識がある人なら、その後のやり取りだって、有意義なものになる可能性が高いでしょ?
ちょっとした選択で、当事者意識が見えてくるわけです。

(終了)
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発信後記
特に大きな事件がなければ、次回は以前の「アドヴァイスをしたがる」というお題のヴァリエーションについて書いてみます。
R.11/2/11