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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター |
配信日 | 03年10月29日 (10年10月15日 記述を追加) |
タイトル | 説教が好き |
チョット前の文章において、「人にアドヴァイスしたがるダメダメ家庭」の話を書きました。 似た事例として「人にやたら説教する」という人が作るダメダメ家庭もあります。 アドヴァイスしたがるダメダメ家庭の人は、基本的に上流階級というか、それなりの知識があるというか、やり取りのスタイルは整えられる人と言えるわけですが、説教好きの方は、好意的な表現を使うと、フランクな人と言えますし、別の言い方をすると、押し付けがましい人と言えるでしょう。 アドヴァイスとなると、相手の考え方を否定しているわけではありませんが、説教となるといきなり否定的となるでしょ? どっちかというと、説教はやめた方がいいのでは? 説教して、相手の状態がよくなったことがあるの? なぜに説教をするの? この場合の基本的な動機は親切心です。別に悪気があるわけではありません。 その手の人は、自分が考える「正しい家庭」と違ったことをやっている人に対して「正しい道」を示して上げているわけです。 では、その「正しい家庭」とは?具体的にはどんなものなの? それは往々にして「自分が育った家庭」なんですね。 自分が子供時代体験して、自分なりに満足を得た家庭を、自分が親になったら再現しようと考えているわけです。 そして、自分が親となり作った家庭なり知人にも、そのような「正しい家庭」を教えたいわけですね。 だから悪い話ではありません・・・基本的には、ですが・・・ では、このような説教好きがどうしてダメダメ家庭に繋がるの? それは、そのような説教好きの人は、大体において「正しい家庭の『スタイル』」に拘ることがほとんどだからです。「形」重視なんですね。 休日には夫と子供で海に行く・・とか、 家族で人生の問題を語り合う・・・とか、 笑顔の絶えない家庭・・・とか。 まさに、ヒューマンドラマで描かれているような家庭の姿と言えるでしょう。 勿論、そのような「形」が悪いわけでもありませんよ。 ただ「形」は、所詮は「形」とまりでしょ? 形が整っていれば、素晴らしい家庭が作り上げられると言うものでもありませんよね? それこそ、「形」だけだと、逆効果になることがあります。 夫が休日に子供と海に行く事だって、仕事で疲れて気分が乗らない夫が、ブスっと子供と接してもいいことはありませんよね? ヘタをすれば、被害者意識につながってしまうこともある。被害者意識になってしまえば、報復なんてことになりかねない。「オレがこんな思いをしているのに、どうしてコイツらはオレに感謝しないんだ?ケシカラン!」そうなってしまうと、もうダメダメ一直線でしょ? また、家族で人生の問題を語り合うのもいいのですが、親がちゃんとしていないと、親の方からスグに「正しい結論」を言い渡すこともあります。そうなると子供はその結論を暗記して、中身については何も分からないままに言っているだけになるんですね。 そもそも、正しい家庭の形にこだわる人なので、正しい結論以外は認めないわけ。 だから、お気軽に本音でも言ってしまったら、説教大好き人間に本場のお説教をくらってしまう。参加者としても、どうしても「形」を整える必要があるわけ。 まさに、家族全員が「べき論」で共鳴しているような状態。 これでは、家族の会話というよりも、いかがわしい宗教団体の説法と同じですよ。 笑顔の絶えない家庭の姿は勿論いいことなんですが、子供だって気分が落ち込むこともあるでしょう。常に笑顔を要求されると「作り笑い」が上手になるだけなんですね。 「ボクはこの家庭に生まれて天国にいるように幸せ!」と、「あの顔」で言うようになるだけ。 ということで、「形」が重要というわけではないんです。当然ですよね? ところが説教好きの方は正しい家庭の「形」に拘る。 だから、説教された側はその「形」を維持するのに四苦八苦するハメになってしまうわけです。 ということで、精神的に疲れ果ててしまって、離婚問題とか登校拒否問題が発生してしまう。 ところが、当人は「正しい形」の家庭を維持している自信があるので、そんなトラブルが顕在化すると、何が原因なのかについてさっぱり分からないわけ。 それに「正しい形の家庭」しか知らないので、そこからの逸脱に対しては、対処ができないわけ。 と言うことで「どうして、こうなってしまったの?もう、どうしていいのか?ワタシは、さっぱりわからない!!」とボヤクことになる。 そうなったら、自分自身の家庭を直視し、家族との間でフランクにやり取りをすることから始めるしかないわけですが、今まで説教ばかりをやってきた人にそんなことができるわけもなく、家族の側も、もはや警戒心いっぱいの状態で、とてもじゃないけどフランクな会話などできようがない状態。ということで、自分の家庭はもう対処不能になってしまう。 だから、説教大好き人間は、結局は、視点を外に持っていってしまう。自分の家庭に対して形を当てはめようとして失敗したので、今度は、自分とは別の家庭に対して、「形」を当てはめようとするわけ。そんな状況における知人への説教も、もともとの感情としては、親切心から来ているわけですが、あえて周囲の人に対して説教するのは、それだけ、自分の家庭の問題を見たくないし、自分では考えたくないという逃避的な心理があるわけ。 当てはめようとする自分の家庭の姿についても、形だけを理解していて、中身的にはわかっていない。その手の説教大好き人間を生み出す家庭は、「都合の悪いものを見ない」ようにしているだけで、本当の意味でうまく行っている家庭ではないんですね。 だから、その手の人は、自分が育った「すばらしい家庭」についても、客観的な説明ができない。形しかわからない。だからこそ形にこだわらざるを得ない。自分の家庭の流儀を強引に当てはめようとすることになる。 別の言い方をすると、自分の家庭そのものに視点を向けるよりも、自分が適用したい「正しい家庭の形」の有用性に視点が行ってしまっているわけ。 ということで、その人の周囲の人が、説教のターゲットとなってしまい、ますます周囲への説教に身が入ることになってしまう。 それこそ、 「真昼間からパチンコなんてやっていたらダメ!」 「今回の事件については、そのような考えを持っていたらダメ!」 「主婦は家で夫を待っていないとダメ!」 おっしゃりたいことは分からないでもありませんし、それなりの合理性もあるかもしれませんが、それぞれの事情はありますからね。 それぞれの家族がそれなりにハッピーなら、周囲がとやかく言う必要はないわけです。 ところが「正しい形」というものに拘りがある分、そこからの逸脱は「間違い」として見えてしまうわけです。ということで説教となる。 しかし、この場合、同年代の知人だったら、そんな説教を受けると、逆に反論したり、事情説明したりすることもある。 理路整然と懇切丁寧に反論されると、この手の説教好きのお方は「必ず」このようにおっしゃいます。 「アナタの話を素直に聞くことができた。」 本当に必ずですね。いわば、完全降伏するわけ。 この完全降伏については、別のところで考えております。 さて、ここで重要な単語は『素直』という言葉です。 人の意見を「素直」に聞いたのだから、むしろいいことじゃないの?と思われる方は多いでしょう。 しかし、逆なんですね。 大体において、相手から簡単に反論されただけで「素直」に納得するような意見は、最初から言ってはダメでしょ?それぞれの方にはそれぞれの事情があるわけですから。 相手方の事情を最初から考慮しないとダメでしょ? 頭ごなしに、自分の意見を説教してもね。 それに、「素直」に聞くことができた・・・という納得の言葉は、どういう意味なの? もし、この文章をお読みになられている方が、誰かから説教されて、アナタなりに反論した後で、相手から「素直に聞くことができた。」と言われちゃったら? みなさんは、次にどう言いますか? 「そう?」 「わかったらいいのよ・・・」 まあ、これくらいですよね?つまり議論が終結してしまうわけです。 「あんなに強く説教して来たことは何だったのか?」そんな不快な気分が残るだけですね。 そう!実は「素直に聞くことができた。」という言葉は「もういいっ!もういいっ!分かった!全部分かったから、もう何も言うな!」という言葉・・・一種の捨てセリフと同じ意味なんですね。 実際に同じ結果でしょ? 「素直に聞くことができた。」と言われちゃったら、それ以上は突っ込みようがない。 実に巧妙なセリフでしょ?勿論のこと、言った人も意識してやっているわけではないでしょうが。 自分に都合が悪くなると、「素直に聞くことができた。」と言い出す。 これは説教好き人間のお決まりです。 それだけ、「形」にはこだわっていても、逆に言うと、自分自身では何も考えていないわけ。 あるいは、やり取りも一方通行であって、相手側の感情なり意向にも配慮していない。 だから、相手から的確な反論が来ると対応できないわけ。 まさに、都合が悪い事態になったら、「見たくない」という逃避的な心理となってしまうわけです。そんな逃避的な心理は、その人の出身家庭と同じなんですね。 「素直に聞くことができた」という言葉は、所詮は捨てセリフの一種であり、受けた反論を「理解し」「納得した」上で「素直に聞いた」わけではなく、当人が説教の元とした自分の見解の問題点を認識したのでもないので、また後日、同じような説教を別の人を相手にやりだすことになる。 これがまだ知人の間柄だったら、適当に生返事でごまかしておけば済むことです。 これが、家族の間柄だったら? やたら説教されて、事情説明すると「分かった。分かった。」「素直に聞くことができたわ!」、そして、別の日には、また説教。 それでは、家族はたまったものではありませんよ。 「正しい家庭の形」にこだわって、家族の心情を無視してしまう・・・そんな姿も、ダメダメ家庭のお約束の一つですね。 そう言えば、「ボクは家族は好きだけど、家庭は好きになれない。」と言った芸能人さんがいましたが・・・ 正しい家庭の形にこだわることを要求され続けると、それを鬱陶しく思うのも当然のこと。 説教ばかりの環境で育つと、ちょっとしたアドヴァイスなりサジェストも、説教と受け取ってしまって反発するようになってしまう。 あるいは、説教によって、自分で考えることを否定されたわけだから、最初から自分で考えることをしなくなってしまう。 最初に書きましたが、説教というものは、考え方を押し付けるものでしょ? 逆に言うと、アドヴァイスなりサジェストは、当人が考えるための示唆とするもの。 相手自身が考えることを否定的に見ていれば、説教となり、相手自身が考えることを肯定的に見ていれば、サジェストとかアドヴァイスとなるわけ。 逆に言うと、説教というのは、相手の人格を否定するような面があるわけ。 そんな説教ばかりだと、考える意欲もそいでしまい、文章を読むような際にも、「ここに書いてある言葉にとにかく従っていればいいんだろう・・・」という視点でしか文章を読まなくなってしまう。 まさに、この私の文章も、ヘタをすれば説教と近い形で認識してしまうようになるわけ。 しかし、私としては、皆様に説教しているつもりはありませんよ。 私の見解を押し付けているつもりもありません。 頻繁に書いておりますが「見えているものを、見えるようにする。」のが目的です。 皆様自身が、目の前の現実を、心の目で見えるようにするための道具を提供しているだけ。 しかし、説教ばかりで、それこそ「学ぶ」などという言葉がすぐに出てくるような環境だと、ちょっとした指摘も説教と受け取ってしまって、無駄に反発したり、無理に従おうとしてメチャクチャになってしまったり・・・ そんなことを実際にやっている人もいたりするでしょ? (終了) *************************************************** 発行後記 ちょっと前の「ダメダメ家庭出身者が暴走族に入って交通事故を起す。」というお題にクレームをつけてこられた方がいらっしゃいました。 どうやら御年配の男性のようでした。 私は反対意見は歓迎するものですが、そのクレームは文章の質に問題がありましたね。 多分御子息が実際に暴走族に入って、事故でお亡くなりになったのだと思います。 たしかに不快に思われるのは理解できますが、そのように頭ごなしに説教する姿勢こそが問題ですよね? そのような姿勢が結果的に御子息を暴走族に追いやってしまうわけです。 |
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R.10/10/15 |