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カテゴリー | ダメダメ家庭の雰囲気 |
配信日 | 03年11月12日 (10年11月9日 記述を追加) |
タイトル | 丁寧な挨拶 |
よく未成年の事件が起こったりすると、その近所の人がでてきてコメントしていますよね? 「あそこは何かありそうだった。」 「いずれは、こんな事件を起こすだろうと思っていた。」 というコメントを出す場合もあります。 しかし、全く逆に、 「うまく行っている家庭に見えたけど・・・お子さんだって、いつも会うと丁寧に挨拶をしてくれた・・・」 というコメントのケースもあったりします。 そのコメントの中に出てくる「丁寧な挨拶」というのは人間関係の基本であって、やり取りの出発点です。 人を判断する場合に、挨拶がしっかりできることが重要視されるのは、当然と言えば当然ですよね。 しかし、挨拶の「形」が問題とは言えないわけ。 会っても挨拶もしないような、日頃から問題のありそうな家庭だったら話は簡単です。 しかし、ダメダメ家庭で意外に多いパターンは、もう一方の方です。 「いつも丁寧な挨拶をしてくれる子」の方ですね。 「丁寧な挨拶をしてくれる子供なのに何故にダメダメ家庭なの?」 そのように怪訝に思われるのは当然でしょう。 勿論のこと、立派な挨拶がダメダメ家庭に直結するわけではありませんよ。 しかし、挨拶ができるからと言って、「良好な家庭」に直結するわけではありません。 ダメダメ家庭というのは意外にも「外面」はいいわけ。 挨拶とか、ちょっとした地域活動も、「ソツ」なくこなすことができたりする。 そう! 「ソツ」なくこなしているだけの場合があるわけです。 「自分を殺して世間に合わせる。」 ただ「人に合わせているだけ。」 それだけの場合だってあるわけです。 相手に敬意や親近感がなくても挨拶なんてできるわけです。 それこそ、親子で歩いている時に、近所の人に会った場合を考えて見ましょう。 『あら〜、こんにちは。いい天気ですね〜。』 『○○ちゃん、今日はお母さんと一緒にお出かけなの?いいわねぇ〜』 このような丁寧な挨拶だってありますよね? まあ、挨拶そのものはこんなもの。 問題はこの後ですね。 同行している自分の母親が、丁寧な挨拶をした後で、 「あ〜あ・・・イヤなヤツに会っちゃった。鬱陶しいったらありゃしない!!」 なんてつぶやくことだってあるでしょ? あるいは、「アノ人、いつもヒマそうでいいわねぇ・・・」とか、 「アソコの亭主は、一体、何やっているんだか・・・」とか、 「アイツもいい歳なんだから、早くあの世に行けばいいのに・・・そのクソばばぁ。」となったりする。 その「挨拶」の場に遭遇した子供としては、「絵に描いたような丁寧な笑顔」の挨拶と、1分後の訪れた「本音」を見るわけです。 このような光景を見ると、「挨拶」というのは、「自分自身を殺す修練」あるいは「演技の訓練」でしかなくなるわけですね。 逆に言うと、だからこそ、簡単にできてしまう。 だって、マニュアルに合わせておけばいいだけなんですからね。 それに目の前の自分の親の「豹変」を見ているわけですので、挨拶した相手の「豹変」も予想することになる。 「どうせ、アッチもこちらの悪口言っているんだろうなぁ・・・」 もう、敬意とか親しみどころではありませんね? 「いかに『挨拶』という場でヘマをやらかさないか?」 「いかに相手から突っ込まれないようにするか?」 課題はその点だけになるわけです。 このような修練を経て、「心を無にして、絵に描いたような笑顔を作る。」という挨拶の『極意』が会得されちゃうわけです。 挨拶の形を整えるために、心情が無視されてしまう。 いわば、仕事して挨拶をやっているわけ。 「いい家庭に見える」ように、そして「ふつう」の形を整えることに四苦八苦している状態。 逆に言うと、そんな家庭の子供は、親に対してもよそ行きとなっているのは誰でもわかること。 まさに、家庭外の人とのやり取りの挨拶は、その家庭の中で子供がやっているやり取りをよく示しているわけ。 子供にしてみれも、周囲に対して、ウケがいい丁寧な挨拶をしないと、後で親から怒られてしまう。 「まったく・・・オマエのせいで、ワタシが恥をかかされてしまったじゃないか!」 まさに、北朝鮮の住人が、外部の人に対して本音を言ったら、後で殺されてしまうようなもの。 子供にしてみれば、そのようなプレッシャーにみちた末の挨拶なんですね。 だから、そのような挨拶をするために、ストレスを溜め込んでしまう。 だから、結果的に事件となる。 子供がしっかりとした挨拶をする時点で、その家庭に対して警戒する必要がある・・・というのもヘンですが、必要以上に丁寧な挨拶は、子供が持つ親への恐怖心なりよそ行きの姿勢の発露の場合も多いわけ。「非の打ち所のなさ」ということは、それだけ発想が減点法となっている場合も多いわけです。 このような点は、何も対面での挨拶だけでなく、メールのやり取りにおいても、発生することもあります。まあ、必要以上に丁寧なパターンもあるわけ。あるいは、中身がないのに、挨拶の部分の記述だけは充実しているようなメールもあったりする。 メールでのやり取りに慣れていないというせいもあるのでしょうが、警戒感という面もあるわけです。 その警戒感は、やり取りの相手への警戒感というだけではなく、「やりとり」そのものへの警戒感であり、挨拶行為への警戒感であり、「やりとりをする自分」への警戒感であるんですね。 それだけ、ぎこちないわけ。 メールのやり取りにおいても、文章の中身が充実していて、その内容が的確に表現されていれば、挨拶などはどうでもいいものですよ。 まずは、内容の充実に努力することが、挨拶への警戒感を解くことになるわけ。 メールの挨拶なんて、「こんにちは。最近どうですか?」くらいの定型的なものでOKですよ。 しかし、その挨拶の段階で必要以上に緊張している人もいるわけ。 その警戒感は、まさにダメダメ家庭における挨拶の位置づけのあやうさに対応しているわけです。 まあ、メールにおける挨拶の表現で困ったら、挨拶の表現などは放っておいて、中身の表現だけに工夫すればいいんですよ。しかし、「挨拶の箇所でそんなに困る」自分自身を自覚すれば、そこから見えてくるものもあるわけです。 ダメダメ家庭の子供は、家庭内でもよそ行きの作り笑いをして、敬意とか親近感などは全く持っていない。とにもかくにも「ふつう」に見えるようにしているだけ。 そんな日々を積み重ねて来ているので、その子供が成長後には、母親に対して「このクソばばぁ!」と親譲りの言葉になってしまう。 ダメダメ家庭での「挨拶」というものは、「心と心」の通い合いとか、相手への敬意の表明と言った類のものではなく、「処世術」として認識されているわけです。 もはや「お行儀の格闘技」の世界ですね。 だから「丁寧な挨拶」をすることによって、ますます心が荒んでいくことになっちゃうんですね。 「いい家庭の人は、ちゃんと挨拶ができる。」 これは実際に真理でしょう。 しかし、「挨拶のできる人はいい家庭の人である。」 そうは断言できないわけです。 むしろキライな人間に挨拶しない正直さがある方がマシと言えるかも・・・ 何回も書いていますが・・・「形」がすべてではないわけですね。 (終了) *************************************************** 発行後記 メールマガジン本文のネタはまだまだ沢山あるんですが、発行後記のネタがなくなってきました。 ということで、寒くなって来ましたので、お身体気をつけてくださいね。 |
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R.10/11/9 |