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カテゴリー 形への依存
配信日 03年11月21日 (10年9月29日 記述を追加)
タイトル 絵に描いたようなすばらしい家庭を作る
ダメダメ家庭の出身者が結婚して家庭を持ったりすると、自分の育った家庭がそのまま連鎖して「絵に描いたようにダメダメ」な家庭になってしまう場合が多くあります。しかし、逆方向に進んで「絵に描いたようなすばらしい」家庭の姿となってしまう例もあったりします。

何も考えないで、「流れ」のまま生きていれば、当人のなじみの方法をそのまま繰り返し、つまり、なじんでいる自分の実家の流儀を踏襲することになり、結果として、実家と同じような「絵に描いたようなダメダメ家庭」となるのは、当然のことでしょ?

じゃあ、逆方向の「絵に描いたようにすばらしい家庭」の場合は、そんなにいいことなの?
それに、そんなことが現実的に可能なの?

何と言っても、ダメダメ家庭出身者にはマトモな「手本」がない。一番よく知っている夫婦である自分の両親は、とてもじゃないけど手本とは言えない。それだけではなく、そんなダメダメな親は、自分たちのようなダメダメな人間のスタイルが「受け入れられる」環境を求めるものなので、地域環境自体がダメダメとなってしまっていて、ダメダメ家庭の子供としては、周囲に存在する家庭も手本にはならないわけです。
そんなダメダメ家庭の子供としては、以前にも書きましたが、自分の親という「反面教師」を参考に家庭を作っていくことになるわけです。

しかし、その「反面教師」というタイトルの文章において書いておりますが、「反面教師」というものは、言葉としては簡単でも実行が難しいものですよね?
「ダメな人間の行動を、真似しない。」と言葉の上ではなっていても、じゃあ、具体的にはどうするの?「反面教師の○○はいつも呼吸をしていたから、自分はこれから呼吸をするのをやめて、無呼吸でいよう!」とでもするの?
それって、無理でしょ?
真似するのは簡単でも、真似しないことは現実的には行動の指針にならないものなんですね。
だから実績ある反面教師など、聞いたことがありません。
皆様だって、そうでしょ?

たとえ、親がダメダメであっても、その親を反面教師という扱いにしてしまうと、具体的な行動にはつながらないわけ。それよりも、マトモな正面?教師を見つけ、設定することの方が現実的なんですね。とは言え、前にも書いていますが、その正面教師というか、「人生の師」に値する人が身近にいない・・・それがダメダメ家庭の子供というもの。

しかし、ダメダメ家庭で育った人は、愛のない家庭での生活を実感的に体験しているわけですので、「あんな家庭はイヤだ!テレビのヒューマンドラマのような、笑顔にあふれたすばらしい家庭を作りたい!!」と熱望することになります。

その気持ち自体はすばらしいこと。
しかし、そんなことが本当にできるの?

しかし、ダメダメ家庭で育った人は、「愛のない親」だった自分の親に対して「私が作り上げた家庭を見てよ!」「家族全員が楽しい日々だわ!」「アンタがやらなかったことを私が実現させたわ!」と、どうしても主張したいわけです。
一種の意趣返しですね。

その気持ちはわかりますよ。だから、どうしても気合いが入ってしまう。
しかし、そんなに緊張して、気合が入った毎日が持続できるの?
家庭というのは、本来は、そんな緊張から遠いところのはずですよね?
毎日の生活を持続させるには、「手抜き」の技術も必要じゃないの?
特に精神的な面での手抜きというか、リラックスする方法がないと、持たないでしょ?

ところが「自分の親には負けるもんか!」と常に緊張しているために、「手抜き」ができないわけです。自分の親がやっていた「手抜き」を真似たりすると、それこそ「自分が育ったダメダメ家庭」そのものになってしまう。「程よい手抜き」ができないわけですね。
親がそれだけ緊張していたら、「育てられる立場」の子供だって緊張しますよ。

別のところで書いておりますが、ダメダメ家庭においては、「甘える体験」ができない。
子育てというものを、「親である自分が押し付けられた被害」と認識しているダメダメな親は、子供を甘えさせたりはしない。
甘えというものをやったことがない子供は、適正な「なあなあ」の加減がわからないわけ。
自分自身の行動における「なあなあ」の加減がわからないし、やり取りの相手の「なあなあ」の加減がわからない。自分の甘えを許せないし、相手の甘えも許せない。どの程度まで許していいのか、加減がわからないわけ。
だから、どうしても、目の前の人間の感情を見るのではなく、外部的な規範だけを頼るようになってしまう。

その手の人は、テレビのヒューマンドラマのような権威者認定の理想家庭の姿を、「かくあるべし」という規範として認識し、それに「従う」ことで、ダメダメから脱却することを考える。
だから、まさに目の前にいる家族の気持ちを無視して、一方的にその外部規範を適用しようとするわけ。まさに、全身全霊をかけて、理想家庭の実現に献身することになり、そればかりではなく、家族に対しても、その献身を要求する。
そして、その献身が認められて、周囲の人から「アナタの家庭は、本当にすばらしいわねぇ・・・」と誉めてもらったりするんですね。

ダメダメ家庭で育って、家庭については常に引け目を感じていた人間が、自分が作り上げた家庭で誉められた!
・・・もう、こうなると有頂天になってしまうわけです。
となると、ますます「手抜き」ができなくなる。ますます「なあなあ」とは無縁になる。
そして、ますます「絵に描いたような理想的な家庭」実現に突き進むことになる。
そして、周囲からますます誉められる。
誉められることは勿論、結構なこと。

しかし、家庭というのは、周囲の人からの評価以前に、実際の家族の評価が重要でしょ?
「絵に描いたようなすばらしい家庭」や「周囲からほめられる理想的な家庭」も原則的にはいいことなんですが、結局は、実際の家族が置き去りにされてしまっているんですね。

前にも書きましたが、周囲から「理想的な家庭とみなしてもらう」ためには家族はそれなりに演技が要求されることになります。
子供だって「周囲からの親の評価を下げないよう。」に緊張しながら家庭にいることになる。
配偶者だって緊張しますよね?

しかし、「周囲から誉められる」「自分の親に勝つ」という喜びに執り付かれてしまうと、修正が利かなくなってしまうんですね。もはや自分が見る対象が目の前の家族ではなくなって、周囲の人々や過去の自分の親ばかりを見るようになってしまう。

しかし「いかに上手に負けるか?」「いかに上手に手を抜くか?」「問題点を早く明らかにすること。」・・・長続きさせるためには、そんなことも重要でしょ?
気持ちが張りつめていたら、いずれかは破裂しますよ。
皆様が見たりするこの手の「絵のようなすばらしい」家庭って、結局は、トラブルとなってしまっているでしょ?

しかし、このような「絵に描いたようなすばらしい家庭」作りに邁進していた人は、トラブルへの対応ができない。
だって、そもそも家族を見ないで、外部的な規範や周囲の人だけを見ていたわけですからね。
家族が困っていても、それを無視していたわけだから、いざトラブルが顕在化してしまうと、その理由もわかりませんよ。

それに、この手の「理想家庭の実現」に突き進む人は、自分の命令に従うような「影の薄い人」を伴侶として選んだりするもの。お互いが会話の能力がないので、家庭内が命令と服従の関係となってしまう。それに適した人間と結婚するわけ。そんな影の薄い人なんだから、トラブルの前兆があっても、それが夫婦で語られることもなく、お互いが「見ない」という対処しかできない。
一番語ることができない子供に、その「ひずみ」が集約してしまい、潜在的に積み重なっていき、やがてはトラブルが顕在化することになる。

トラブルが顕在化してしまうと、この手の人は、犯人探しをすることになる。
「ワタシたちは、みんなが認めるこんなにもすばらしい家庭だったじゃないか?」
だから「ワタシは悪くない!」「悪いのは全部○○のせいだ!」

そのように言うためのネタを探しだし、そして、その犯人認定したものを攻撃することで、「あの○○が悪いんだ!」と、自分自身に納得させるわけ。
そんな姿は、それこそ市民運動の活動家などには、典型的に見られるでしょ?

そして、気に入らない対象を攻撃することに明け暮れている親を見て、その家庭の子供はますます恐怖するばかり。
だから、ますますトラブルが発生し、その親の眼は、ますます血走ってくる。

子供としては、もはや心頭滅却して、「ええ、ウチはうまく言っています。両親はとてもいい人です。」「ボクはこの家庭にいて、とっても幸せです。」と放心しての作り笑い。
そんな家庭の子供は、まるで北朝鮮の国民のように、周囲に密告者がいるのでは?という不安に満ちたオドオドとした表情で、自分たちの家庭のすばらしさを、型通りの言葉で語ることになる。
しかし、その結果がどうなってしまうのか?
そんなことは、本来は誰でもわかることでしょ?

ダメダメ家庭が作り上げた「絵に描いたようなすばらしい家庭」
それは絵のように脆いものなんですね。

(終了)
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発行後記

この「ダメダメ家庭の目次録」というメールマガジンは上記のように「まぐまぐ」「Macky!」「メルマガ天国」という3つのマガジンから発行しています。
このうち、「メルマガ天国」では読者の評価というものもあります。
「よかった」or「よくなかった」どっち?というわけですね。

このメールマガジンでは毎回、「このような行動や発言がダメダメ家庭につながっていきますよ。」といった形で書いていますので、その行動を「やられた」被害者?の方は、文章に共感されて「よかった」となるんでしょうし、「自分自身がやっている」加害者?の方は、不快に思われて「よくなかった」となるんでしょう。

私個人はどのように思われてもいいのですが・・・
ちょっと前にトルストイの言葉を書きましたが、「この文章を読んでどう思うのか?」が重要ではなくて、「実際に家族で会話する。」ことが重要だと考えています。

極端な話「太陽は地球の周りを回っている。」という間違った内容でも、その文章をネタに家族が楽しく会話できれば、「いいこと」なんですね。

家族の問題は、非常に個人的な問題ですので、客観的な真実などあまり意味がないわけです。
R.10/9/29