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カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい
配信日 03年11月28日 (10年10月30日 記述を追加)
タイトル ハズレを引いた!
「隣の芝生は青く見える。」というのは人間の心情でしょう。「隣の家庭の子供は、なんとなく優秀に見えてしまう。」のも、まあ、真実なのでしょう。特に日頃から不満いっぱいのダメダメ家庭においては、そんな思いが強くなる。
「隣の子供はあんなに、『いい子』なのに、それにきたら『ウチの子は、どうしてこんなにダメダメなの?!』」と言うわけですね。

「自分の子供がかわいくて仕方がない。」そのような家庭もあるでしょうが、ダメダメ家庭は逆のパターンの場合も結構あるものです。「自分の子供はハズレ!」と思っている場合があるんですね。そうして、その「認識」を自分の子供に対して語ることになる。

「隣の○○ちゃん・・・優秀なんですって・・・素直でいい子なんですって・・・いいわねぇ・・・ホント、あの子はアタリよね。」
ダメダメ家庭の親はこのように度々繰り返すことになる。
まあ、ダメダメ家庭ではおなじみの嘆き節ですね。

ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強く、つまり自分に被害を与えている加害者を探している。そんな心情なので、どうしてもあら探しで人を見る。あら探しで人を見る人なんだから、目の前にいることが多い自分の子供がその標的となり、結果として、その子供が加害者と認定されてしまうのも当然でしょ?
「隣の子供はあんなに優秀なのに、ウチの子供はダメダメで!」
「この子供のせいで、ワタシたちはうまく行かないんだ!」
「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
そして、子供に対しては、
「あのお隣の○○ちゃんを見習いなさい!」とお説教。

その隣人の子供の○○ちゃんが本当に成績優秀で文句の付けようのない好人物だったら、当たりと言われなかった子供の側としても納得するでしょう。今後は、当りとされたその○○ちゃんの行動を実際に見習えば済むことですからね。
しかし、その隣人の○○ちゃんが大した成績でもないようなありきたりな子供の場合だったり、ヘタをすれば自分よりも圧倒的に成績が下の場合もある。自分よりも成績が悪い人間をどうやって見習えばいいの?そんな要求を受けると、「ハズレ」と論評された子供の側は対応の取り様がない状態に置かれるわけです。

「じゃあ、一体全体ボクはどのようにすればいいの?」
このような対応の取り様がない状態・・・これがまさに心理的ストレスですよね?
というか、親の側は、子供にどうしてほしいの?「見習え!」と要求するのはいいとして、具体的にはどんなところを見習えばいいの?
被害者意識が強いダメダメ人間は、どんなことでも自分の被害として認識する。ヘンな話になりますが、自分の子供が出来が悪いのも被害だし、自分の子供の出来のいいのも被害になってしまう。

ダメダメ家庭の親が、自分の子供のできの悪さを語ることは、別のところで書いていますし、逆に、出来がいいような場合でも、たとえば、「ウチの子供は全然子供らしくないわ!」と周囲に嘆いたりする。親がダメダメだから、子供なりに独りで対処してきて、だからこそ子供っぽくなくなっているわけですが、ダメダメな親は、子供の対処能力の高ささえも、グチのネタにしてしまうわけ。ということで、隣人の子供の行状を、愛情を持って、うらやましさ満開で、自分の子供に伝えたりすることになる。ダメダメ家庭ではよくあるシーンです。

「ああ、隣の○○さんは幸せだ!あんないい子を持って、それに対し、私は何と不幸なのか!こんなダメな子供に当たってしまって!!」と自分の子供を残念そうに眺めたりする。そのような行為は、法律的には全くの合法的な行為であり、発言でしょ?そして、ダメダメ家庭では実際にやっていること。

隣人のその子供のどこがいいのかは明示せず、ひたすら称揚する。このような発言を繰り返すことによって、「嘆きの理由」となった子供は、親からハズレ認定を受けていることが見えてくるわけ。

あるいは、このような「当り、ハズレ」となると、兄弟の間で発生します。
まあ、兄弟が同じ成績や能力というわけにはいかない。もちろん、キャラクターにも違いがあるし、どうしたって相性の問題もある。
マトモ家庭においては、基本的には、平等に子供を扱うわけですが、ダメダメ家庭においては、「当り、ハズレ」で、兄弟の間で区別が発生したりする。
一般的なダメダメ家庭においては、「出来のいい側」の子供が「当り」とされるわけですが、逆のパターンもあります。出来のいい側の子供がハズレ扱いをされてしまう場合もあるわけです。
近所の子供よりも出来のいい自分の子供をハズレとみなしてしまう場合もあるわけだから、そのようなことも起こったりするものなんですね。

「兄弟のうちで、出来のいい側の子供がどうしてハズレ扱いになってしまうの?」
そのように疑問を持たれるのは当然でしょう。

しかし、このことはちょっと考えればわかること。
出来のいい子供にしてみれば、ダメダメな親のダメダメさがよくわかることになる。
だって、それこそが、まさに出来がいいということでしょ?
「この親は、こんなこともできないのか・・・」そんな雰囲気で自分の親を見ることになってしまう。
そんな気持ちで親を見ていると、それが子供の態度に表れ、親の側としてはコンプレックスが刺激され、逆上気味になってしまう。だから、親子の間のやり取りは、ますますうまく行かない。

しかし、兄弟のうちで、出来の悪い側となると、ダメダメな親にしてみれば、まさにそのダメダメな面で自分との共通性が高い。
それだけではありません。
ダメダメな親も、そして出来の悪い側の兄弟も、出来のいい側の子供による被害者という共通の立ち居地を得たりする。つまり共通の敵による結びつきができるわけ。
双方とも、家庭内において、出来のいい人間にバカにされているわけですからね。

ということで、ダメダメ家庭においては、兄弟のうちで出来のいい側が、親からハズレ認定されてしまう場合もあるわけです。
逆に言うと、出来のいい側の子供とうまく行っていない場合には、かなりのダメダメ家庭ということなんですね。
しかし、出来のいいがゆえに、周囲に対しては、その子供をハズレとは言いにくい。
周囲の人も、「あんな立派なお子さんをお持ちでうらやましいわ!」と、ダメダメな親自身が、誰かに対して言いたいことを先に言ってくる始末。
だからこそ、よりストレスをため、そのストレスを、ハズレ認定した子供にぶつけ、ますます関係が悪くなる。
そうして、「あ〜あ、ハズレの子供を引いた!」と、更に嘆くことになる。

結局は、家庭内で、ひたすら「ハズレ、ハズレ」と言われていると、そのダメダメ家庭でのトラブルは、そのハズレの子供が原因とされてしまうんですね。家族がその考えで一致してしまうわけです。「共通の敵」から、「諸悪の根源」に格上げされてしまう。

「オマエがハズレでなかったら、もっと楽しい生活が送れたのに・・・」
家族でグチのネタが進行していくわけです。

「ハズレ、ハズレ」と嘆いているばかりでは、「当たり」に変身するわけもないでしょ?
成績が悪いのなら、親として、成績向上のためのサポートをすればいいだけですし、やり取りがうまく行かないのなら、親自身も自分を振り返る必要があるでしょ?
しかし、ダメダメ家庭は、当事者意識がないので、「あ〜あ、ハズレを引いた!」と、ただ嘆いているだけなんですね。

大体において、「オマエはハズレだ!」と常日頃から言っていれば、言われた側の子供は、本当にハズレになってしまうのは自明の理。
やがては、子供の方も「ボクがハズレであるばっかりに両親に迷惑をかけてしまって申し訳ない。」と思ってきます。しかし、子供がこのような心情ですと、やっぱり色々とトラブルが起きたりする。
そもそも、「これ以上、親に迷惑をかけてはいけない!」と思いつめながら行動している子供は、必ずトラブルに巻き込まれますよ。
そうやってダメダメ家庭は、当人たち自身でダメダメ振りをスパイラルのように進行させていくわけです。

当りとかハズレとか・・・そんな言葉は、当人の主体的な選択を否定した言葉でしょ?
そんな言葉から、その人の当事者意識の欠如が見えてくるわけ。
選択とは無縁なので、すべてが運に類することになるわけ。
だから、そんな人にしてみれば、選択のミスというものは存在しない。
主体的な選択という発想自体を持っていないがゆえに、選択のミスということは心理的には理解できないわけですが、周囲に対するとおりのよさについては、それぞれに程度があることは認識している。

たとえば、生まれた時代は、当人としては選択できないわけだから、「ダメな時代に生まれてしまって、運が悪かった。」と周囲に対して語っても、周囲にはとおりがいい。
自分の子供のできの悪さだったら、本来は、「そうならない」ように親として対処できるでしょ?しかし、子供の能力なりキャラクターは、親の希望通りには行かないことも多く、「運が悪かった。」という言い回しが通ってしまうことも多い。
しかし、配偶者の出来の悪さを、「ワタシも運が悪かった。」と言っても、その理屈が通ることは、難しい。

逆に言うと、判断から逃避している人間は、判断から無縁である存在を、犯人認定したがるわけ。判断とは無縁だからこそ「運が悪かった!」「ハズレだった。」「ワタシは悪くはない!」と言えるわけですからね。

だから、自分で選択できる要素が大きい配偶者の問題よりも、選択の要素が小さい子供をトラブルの原因とすることになる。
あるいは、後になって「ワタシは悪くない。」と言えるように、たとえば配偶者についても、誰かに決めてもらうというスタイルをとりたがる。
それこそ教祖様に決めてもらえれば、自身の選択からは解放されるでしょ?
だから、うまく行かなくなっても「あ〜あ、運が悪かったわ!」「ハズレを引いてしまった!」と、安心して嘆くことができるわけ。

選択の場に対する心理的な恐怖があるので、それこそ「こんにゃくゼリー」を買わないという選択すらできない。そのようなことは、知的な能力が欠如しているからできないというよりも、心理的にできないわけです。
実際に、配偶者を教祖様に決めてもらいたがる人たちと、「こんにゃくゼリー」の根絶を主張している人たちは、顔が似ているでしょ?
顔というものは、内面が表れてくるもの。
結局は、心理的な抑圧が顔に出てきているわけ。

逆に言うと、日頃から「ハズレを引いた!」と嘆くような人間は、現状認識から逃避して、当人では何も対処しないわけだから、何かとトラブルを起こしているわけですし、そんな人が子供を持ってしまうと、その子供が問題を起こしたりする。

そういえば、あの長崎県の幼児殺人事件(突き落とし事件)の中学生の家庭ですが、結局は加害者の親は被害者に謝罪したのかな?
「いつになったら謝罪するんだ!」と周囲から非難されましたよね?

しかし、私はあの中学生の親の発想が手に取るようにわかりますよ。
あの親にしてみれば、親である自分たちこそ被害者だと思っているんですね。
ハズレの子供を引いてしまった運の悪い人間・・・このように自分たちを認識しているわけです。殺された児童も被害者、その児童の両親も被害者、そして何よりも、「加害者の少年の親である自分たちこそ、ハズレの子供にあたってしまった被害者だ!」
「またまた貧乏クジを引かされて・・・」
「また面倒をかけられた!」
「オレたちは仲間じゃないか!」
「ホントウは、オレが一番かわいそうなんだぞ!」
というわけです。
だから「一番の被害者である我々が、何故に謝罪しなきゃならないの?」
そのように考えているわけです。

まあ、ダメダメ家庭ではよくある発想です。
現実社会では、ダメダメ家庭の結果である加害者の少年をどのように「処分」するかについて議論になっていますが、加害者を生み出したダメダメ家庭はそのまま温存されているわけです。

ダメダメ人間は主体的な選択が存在しないので、「当り、ハズレ」で考えてしまうことに、周囲としても、注意する必要があるわけ。
そして、そんな環境で育ってしまった人間も、自身として注意する必要があるわけです。
「ワタシはハズレの親に当ってしまった被害者だ!」と主張してばかりになってしまう。
子供は親を選べないのだから、ダメダメな親を持ったら、これは純然たるハズレでしょう。

しかし、重要なことは「そこからどうするのか?」ということでしょ?
「ハズレ、ハズレ」と言って何も対処しないのなら、その人の親とまったく一緒。
だから、ダメダメな親と同じようなことを繰り返すことになる。
「ハズレの親のどの点が問題だったのか?」
そのような具体的な各論にまで考えを進めていかないと、まさにハズレが連鎖するだけなんですね。

(終了)
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発信後記

次回の発信は12月です。
あっという間ですが・・・皆さんもくれぐれもお体に気をつけてくださいね。
R.10/10/30