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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 04年6月2日 (10年11月15日 記述を追加)
タイトル マズイ食事について語る (貧弱な食卓体験の継承)
日本も昔は戦争などをしたりして、食糧事情も悪かった時期もありました。また、一般的には食糧事情が改善された状況においても、その個別の経済事情から、自分たちの食事は改善されていなかった場合もあるでしょう。
ダメダメ家庭は、経済的にうまくいっていないケースも多い。だから、満足に食材を購入できなかった場合も現実的に発生したりする。
そのような貧弱で粗末な材料では、どんなに上手に料理されても、マズイ料理しかできないでしょう。おまけにダメダメ家庭を作る親は、子供においしい料理を食べてもらいたいとは考えない。「特に問題がない」「ふつう」の食事であればいい・・・そのような大義名分を掲げ、よりおいしくしようとは考えない。そんなことだから、料理がまずいのは当然のこと。
そんな家庭で育った人間は、結婚して、子供を持ったりすると、当人が幼少時に味わったマズイ食事について、嘆きを交えて、色々と言及することになる。

家族で食事を取りながら、「私が子供の頃に食べた食事はまずかった。」「とても食べられるものではなかった。」と繰り返すわけです。
よく「戦争中の食事を体験しよう!」と、イベント的なことをする場合もありますよね?
そして、すいとんとか、野草を食べたりするイベントもあるでしょ?
しかしダメダメ家庭ではそのようなテンポラリーな形ではなく、常に貧弱な食事に言及される状態。つまり、貧弱な食事が「基準」であり「標準」となっているわけです。
ヘンな話になりますが戦争中の食事が基準になっていて、日本の高度成長後の食事はオプショナルで「ぜいたく」な食事とされているわけ。

そのような体験を常に聞かされる子供は、食事についての希望を親に対して絶対に言わなくなります。つまり、親としては、食事について手がかからなくなるわけです。
「親がそんなにマズイ食事を経てきているのに、自分が文句を言うわけにはいかない。」と子供は考えるわけですね。
違いますか?

また、それを子供に確認させるために、実際に親が食した貧弱な料理を、度々食卓に乗せたりする。そんな歴史的な料理を、実際に食せば「何とマズイ!」と子供も実感できるでしょう。
このマズさを自分の子供に実感させた後で、感情を込めて、「私たちの子供の頃の食べ物はもっとひどかった。」と嘆けば効果絶大ですよ。
そのような貧弱な食事もイベント的に体験するのだったら、子供も知識なり視野が増えるという効果もあるでしょう。
「昔は大変だったんだなぁ・・・」というわけです。
しかし、イベント的ではなく常に貧弱な食事に言及されると、子供はどうなるでしょうか?
当然のことながら食事そのものが嫌いになりますよね?

そもそも、当然のこととして料理もマズイんだし・・・親だって、マズイことを重々承知の上で食卓に出しているわけですしね。それに「食事の改善は贅沢だ!」って言っているわけだし。

親が当人自身が体験してきた貧弱な食事について、自分の子供に語ることは勿論のこと合法的ですよね?親の体験を子供に継承することはむしろ美徳の範疇として捉えられているくらいでしょ?

ただ、子供にとっては、その親の貧弱な食事経験にどのように対応すればいいのか困惑するところでしょ?親にとっては昔話ですが、聞かされた側の子供にとっては、「じゃあ、ワタシはどうすればいいの?」と考えることになります。同情すればいいのか?歴史上の学術的知見としてみればいいのか?どうすればいいの??

子供としては、結局は、親のグチを聞かされただけで終わってしまうわけです。
そして親に対して配慮して、希望や手間を掛けないようにするだけ。
マズイ食事の意味は、普段はそれなりにおいしい食事を取っているから意味もあるわけで・・・常にマズイ食事だったら全然別の意味になってしまうのは当然のこと。
いわば「食事については、文句を言うなよ!要望なんて出すなよ!」そんな意味になるでしょ?
そうなると、料理もおいしくないだけでなく、食卓そのものも不快になるわけ。
だって、子供の意向などは、何も言わせない雰囲気なんですからね。食卓においては子供は親に対して気を使ってばかり。

マズイ料理なり、貧弱な食事については、何も昔の日本の食事との比較ばかりではありません。頻繁に使われるのが、食べるものも食べられないアフリカの子供たちとの比較のパターンです。

まあ、いくら経済的にうまく行っていないダメダメ家庭においても、飢餓状態にあるアフリカの食糧事情よりはマシとも言えるでしょう。
だから、「アフリカの子供よりも、ずっとマシだ!」と自分たちの食事を、絶賛することになる。「食べられるだけで幸せと思え!」と命令するわけです。
しかし、そんな食卓では、「食べる」ことはしても、そしてその食事に対し「文句を言わない」という二重否定的な受け止め方をしても、「食卓を楽しく思う」という肯定をしているわけではないでしょ?要は我慢の能力が向上するだけ。耐え難きを耐えているだけ。
結局は、食卓そのものに関心がなくなってしまうわけ。
そして、「食べ物」そのものについて考えることが不快になってしまう。
食事はイヤなものだから、だったら、何も考えないことで、対処するしかないじゃないの?

ちなみに、昨今、食べ物の味がわからない味覚障害の事例が多いそうです。
この味覚障害については、別のところで取り上げております。
ちょっと前に、たまたまテレビを見ていたら、パンしか食べない女子高生の事例が報道されていました。
食事は自分ひとりで食べる。食べるものはパンだけ。
そのような状況となっているということは、味覚が崩壊する前に、まずもって食卓が崩壊しているんですね。
毎日の食卓において、親からグチを言われるばかりだったらイヤでしょ?そもそも、料理の味自体が、家族公認のマズさなんだから、料理自体も楽しめない。だから結果的に一人でパンを食べるようになるわけですね。
それを周囲が「ちゃんと食べなさい!」なんて、問答無用に説教しても意味がないわけです。
そんな問答無用の説教によって、ますます、「食卓=グチの場」あるいは「食卓=説教の場」という心理的な関係性が強くなるだけ。

その番組でも「女性は将来は、子供を産んで育てなければならないだから、ちゃんと食べないとダメだ!」ってコメンテイターのオヤジが文句を言っていました。
しかし、女性を「子供を産んで育てる。」存在として認識していない、つまり人間の「機能」しか見ていないオヤジたちが最大の問題じゃないの?
もし、そんなオヤジの問答無用の説教が食卓で展開されていたら、マトモな人間はますます食卓が嫌いになりますし、ますます味覚障害が悪化するでしょ?
そんなことは、ちょっとでも脳ミソがついている人なら誰でもわかりますよ。

味覚障害の問題によって、その女性が子供を作れない身体になってしまうのなら、逆に言うと問題が少ないわけ。むしろ、中途半端に子供を作れる身体のままで、つまり、目立つトラブルにもならず、食卓を嫌いなままで、子供を作ってしまったら、自分の出身家庭と同じような「アフリカよりも多少はマシ。」「食べられるだけで感謝しろ!」という食卓が再現されるだけ。

ダメダメ家庭には楽しい食卓なんて無縁。
あるのは、問答無用のお説教と、親の不幸話と、当人にとっての不快な思い出・・・そんなものなんですね。
食事というのは、基本的には毎日あるもの。
それが不快なものだったら、家庭そのものが不快と言ってもいいでしょ?
それに、食べるという行為は、人間の、というよりも、動物としての基本でしょ?
その基本的な行為なり活動が、崩壊してしまっているんだから、そんな人が、マトモな人間生活を送れるわけがないじゃないの?

しかし、そんな事態になっても、周囲の大人たちは、「オマエはアフリカの子供よりも、幸せだと思え!」と命令するだけなんですね。そんな命令を受けてしまうから、逆に言うと、そんな状況が連鎖するわけです。

(終了)
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発信後記

昨日の長崎県の事件ですが・・・まずもってあのような大事件のある前は、それなりの前兆があるものです。学校なり、家庭なりと・・・
そのような前兆にしっかり対応していればあのような大事件にはならないものです。

しかし、結局は「どうやって切りつけたのか?」「何が目的だったのか?」とかの単純な法律的因果律のみの考察に終わっちゃうんですね。心理的な考察には至らない。

結局しばらく騒いだだけで、何も知見が残らない。
そして同じような事件がまた起こる。そしてまた騒ぐ。

ということで、また同じようなことも起こるんでしょうね。
R.10/11/15