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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者の行動 |
配信日 | 04年6月18日 (10年11月22日,11年2月8日 記述を追加) |
タイトル | 自己主張にこだわる (表現に拘る) |
「人間がものを書くのは苦しみ、疑うからだ。自分自身や周囲に、自分の価値を証明しようとするからだよ。」 ソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督の79年の作品「ストーカー」の中に登場する小説家のセリフです。 ここでの「ストーカー」は「領域侵犯者」という元々の意味で使われており、「女性を付回す」という意味ではありません。まあ、「行ってはならないところに行く。」という語源的な意味です。 アンドレイ・タルコフスキー監督はソ連という独裁体制下にあって、その制約の中で、自分の芸術を追及した人です。ということで彼の作品は実に難解ということで定評があるものです。このメールマガジンは芸術についてのメールマガジンではありませんので、ここではその作品解説はいたしません。ご興味がありましたら、ご自分で見てみてくださいね。 ただし、異常に難しいですよ。ご覚悟の上でどうぞ! 自分自身を表現するということに関しては、「以心伝心」とか、「言わなくても分かってもらえる。」とかよく言われますね。 あるいは『日本人は自己主張がヘタだ!』とか・・・ ただ、「自己主張がヘタ」でも、それで楽しく生きていければ、別に問題はありませんよね? 「日本人は自己主張がヘタ」だとしても、今までは実際上は、それで問題はなかったわけです。まあ、国際外交で不利になるとしても、現実の社会生活で問題がなければ、一般の日本人には十分でしょ? 日本人すべてが外交官というわけではないんですからね。 しかし、社会が「なあなあ」ではなく、厳格な「ルール」で動いているような欧米の社会においては、自己主張が必要なのは当然のこと。しかし、そのことが「いいこと」かどうかは別でしょ? ダメダメ家庭の人間は、自己主張がヘタとなる。この場合では「自己主張をはっきりしない。」というパターンが多くあります。ダメダメ家庭の子供は、親からの要求に従って、周囲に配慮して「目立たない」ようにと行動することになり、自己主張を全くしなくなってしまう。 だから、何かを伝えるという段になっても、伝えたいもの自体が存在しない状態となってしまう。 しかし、逆のパターンもあります。 過激な自己主張になるケースです。あるいは特異な自己主張になるケースと言えます。 何と言っても、ダメダメ家庭では子供の話なんか聞いてくれない。そんな家庭の中の人間は、話をしている対象が、自分の話を「聞いてくれない」ことを前提にした自己主張のスタイルになってしまう。 しかし、これってヘンですよね? メッセージというものは、本来は「自分の話を聞いてくれる人」に対して発するものでしょ? 聞いてくれない人に対するメッセージなんて・・・それって、論理的に見て矛盾じゃないの? しかし、ダメダメ家庭では避けられないことでしょ? 前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、相手の話を聞くという態度を持っていないわけだから、「自分の言葉を聞いてくれる。」という前提だったら、逆に言うと、何も伝わらないことになってしまう。 そんな家庭の子供としては、ダメダメ家庭の現実に即したメッセージの伝え方にならざるを得ない。 じゃあ、具体的にはどうするの? まず、一般的な方法として、大声を上げるという方法があるでしょう。 しかし、大声を「上げられる」方は、やっぱり迷惑でしょ? 現実的には、大声を上げている人の話を、聞く気はならなくなるだけでしょ? しかし、ダメダメ家庭ではジェントルに話していたら、自分の話を聞いてくれないので大声にならざるを得ない。 あるいは言葉そのものを過激な言葉を使うとか・・・ 例えばインターネットの掲示板などでも、暴力的な言葉使いの人っていますよね? このような暴力的な言葉使いというのは、「ふつう」に、そして「ジェントル」にしていたら自分の話を聞いてくれないという体験から由来していると見ると、意外にも理解しやすいでしょ? それこそインターネットの掲示板でのやり取りでも、本来なら、そんな暴力的な物言いをしなくてはならないような人間に対しては、言うだけムダですよ。 表現というものは、「分かりたい」という意欲がある人に対して、「分かりやすく」表現することが基本なのであって、「分かるつもりもない」と思っている人には関らない方がいいのでは? しかし、家庭内において、「分かるつもりもない」人間ばかりを相手にしてきたので、やり取りの基本ができていない。だから、そのようなトンチンカンなことをしてしまう。 上記の過激な表現だけでなく、身体を使って注意を引くパターンもあります。 「オイオイ!」なんて相手の体を揺すぶったり、もっと極端になると、暴力そのものを使ったりする。 まあ、強圧的な言葉使いをしている人だったら、対面でのやり取りの際は、それこそフィジカルな暴力を振るうくらいはやりますよ。 ダメダメ家庭の人間は、自分のメッセージを伝えようとすると、そのような感じで、どうしても過激にならざるを得なくなってしまう。 もっと過激になると、自分の話を聞いてもらうために、武器を使って脅したり、それこそ監禁,拘束したり・・・そんな事件が現実として発生したりするでしょ? あるいは、特定の個人を、集団でつるし上げるパターンもこの延長でしょ? 多少のヴァリエーションはあっても、分かる意欲のない人間を拘束し、強引に話を聞かせようとするスタイルは、共通しているでしょ? 言う側としては、「聞かせる」方法がエスカレートするのはともかく、もっと重要なことは、相手の側が、結局はその内容を分かってくれたの?その点が問題でしょ? 会話というものは、相手とのやり取りですよね?本来は自分が発した意見に対する相手の反応を確認した上で、次の話が展開されるものですよね?しかし、ダメダメ家庭でのやり取りは一方的な「言いっ放し」状態となっていて、往復でのやり取りにはなっていない。 まあ、ダメダメ家庭の集団として例に挙げることが多い韓国の方々って、現実として、そんな感じでしょ? あるいは、インターネットの掲示板で熱くなっている人は、まさにそんな感じでしょ? 「ふつう」に話していたら自分の話を聞いてもらえない・・・そのような原体験を持っていて、それが習慣化していると、相手から合意を取るというマトモなコミュニケーションが出来なくなってしまう。だからこそ、やり取りの相手側も不快に思ってしまうのは当然のこと。 まあ、こうなってしまうと、当人自身にも「対面でのコミュニケーションは不得意」なんてことが何となく分かって来る。自分では分からないまでも、周囲の人から避けられるので、どのみち対面でのやり取りはその機会からしてなくなってくる。結局は、対面でのコミュニケーションによる自己表現を諦めて、それこそ「自分の価値を証明するために」文章などでの表現に向かったりする。 このこと自体は問題ありません。結果的に、芸術作品だって出来ることもありますからね。 それこそ「ジェーン・エア」や「嵐が丘」などの芸術作品を生み出したイギリスのブロンテ姉妹もそのパターンでしょう。ダメダメ家庭特有の「恋に恋する」妄想癖も、突き詰めると立派な芸術になることもある。 しかし、一般のダメダメ家庭の人間が、そこまで「突き詰めた」発想ができるわけもなく・・・ まあ、ちょっとした「自分探し」の一環として終わってしまうわけです。 別に「自分探し」だって悪いことではないでしょう。人に迷惑を掛けないことだったら、勝手にやっていればいいだけ。 しかし、そのような「自分探し」の模索をしている人が、何歳なのか? そんな行動を考えるにあたっては、その点について考慮しなくてはいけないでしょ? 70歳の老人が行う「自分探し」は、もう無意味かと思いますが、それだけの年齢であれば、「人に迷惑を掛けない」くらいの分別はあるでしょう。 あと、思春期の女の子が「ポエム」とかを書いたりする例もありますよね?まあ、後で読んだら恥ずかしさ満点でも、そんな時期もありますよね?まあ、それくらいならよくある話といえるでしょう。 問題は小学生のような、ほんの子供のケースです。 そんな歳から「自分探し」が必要ということは、それだけで問題でしょ? ちょっと前(04年)に起こった・・・長崎の小学6年生の殺傷事件ですが・・・ 加害者の少女もホームページ上に何がしかの文章を書いていたそうですが・・・ まあ、どのような文章であるにせよ、そんな小学生の子供が文章を書いて「自分自身の価値を証明」しなければ、「自分の価値」が実感できなかったり、周囲から認められていないと感じている状態なら、事件なんて起こって当然ですよ。 しかし「家族から自分の価値」を認められていない状態なら、その少女自身が文章を書いて「自分の価値」を作って、それを守っていかないといけないでしょ? 太ってようが、なんだろうが、親が「オマエがオマエであれば、それでOK!」って言ってくれれば、そんな必死の自己表現に拘る必要なんてないわけです。 しかし、それこそ、親の側から「いい子じゃないとダメ!」とか「ちょっとでもトラブルを起こしたらダメ!」と要求されている状態だったら、自分の価値は常に「あやうい」「もろい」状態になってしまうでしょ? だからこそ、自分の存在証明を必死になってやらざるを得なくなってしまう。 よりにもよって、小学生が、自分自身で自分の価値を証明し守って行く・・・そんな覚悟を持って、文章を書いていたらストレスも溜まりますよ。 恋に恋する夢いっぱいのお話ならまだしも、自己証明のための文章だったら、その証明でしくじると、まさに自己の価値が喪失するということになってしまう。 つまり、それだけ切羽詰った活動になっているわけです。 作品や表現の出来栄えの問題や、あるいは内容を議論する以前に、小学生が、こんな形で自己の価値を守らないといけないことが、このような事件を理解するのに、意味があるわけです。 今回のような事件があると、「どうしてあのような残虐な行為を?」って、周囲の大人が能天気なこと言っていますが、小学生が自分の価値を証明し守るための行動とすれば、あのような残虐な行為もそれほど違和感のない行動でしょ?切羽詰った精神状態の小学生が出来る存在証明って、逆にあのような過激な行為になっちゃうんですね。 タルコフスキーが言う「人間がものを書くのは苦しみ、疑うからだ。自分自身や周囲に、自分の価値を証明しようとするからだよ。」という言葉を逆に読むと、「自分の価値を証明する行為は、その背景に、苦しみや疑いがある。」とも言えるでしょ? 表現された内容の問題よりも、表現をしなくてはならないという切迫感から色々と見えてくるわけです。 しかし、単なる切迫感からの表現だったら、浮ついた過激さで留まってしまう。 この手の切迫感から来る表現は、自分の存在を主張するのであって、内容を伝達するものでも、あるいは後世に残すためのものでもない。 内容を伝達するのであれば、落ち着いて分かりやすい表現が基本となるわけですが、存在を主張するのであれば、どうしても過激で目立つ方法になってしまう。 別のところで書いていますが、そんな人は、「言いたい気持ち」はあっても、「分かって欲しいこと」「伝えたいこと」「残したいこと」が自身でも自覚できていない。 内容を伝達するためには、その前に自分自身との対話が必要になり、本当に伝えたいこと、あるいは残したいことについて、自分にとって確信といえるレヴェルにしておく必要がある。 しかし、自己逃避であるがゆえにそのようなことはできない。 自己逃避の状態で、かつ、自己表現しなければならないという矛盾を一気に解決するためには過激な表現となってしまいますよ。 結果的に、今回の長崎の事件のように、自分の存在を証明してしまうわけですが、それは何かを肯定するものではなく、結局は、何かを否定するものになってしまう。 「どうしても、肯定したいものは何なのか?」 「どうしても、残したいものは何なのか?」 その結論を得て初めて、本当の意味での自己表現になるわけです。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、ただただ焦って、「ワタシを分かって!」「ワタシを認めて!」と絡みまわってばかりになってしまう。 自分にとっての一番の問題から目を背けても、創造的なり普遍的なものになるわけがなく、結局は、犯人探しに堕してしまう。そもそも、こんな形で自己表現をしなければならないということは、その家庭環境に問題はあるからなんですが、親の問題はアンタッチャブルだから、手短なものを犯人認定し、そして、その設定した犯人を自分に確認させる儀式を挙行することへと向ってしまう。要はその儀式を作品で行うか、作品以外で行うかの違いだけ。 そんな人は、自己表現と言っても、結局は自分を納得させているだけ。 子供ならそのレヴェルなのもしょうがないわけですが、大人でもそんな自己表現って多いでしょ?自己表現ではなく、結局は自己弁護で留まってしまっている。 そんな表現に留まっていては、客観的な作品にはならないわけですが、残念ながら、そこ止まりの人が多いのがダメダメ家庭の現実なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 前回の話に関連しますが、“古い方”の長崎の事件を受けて、子供に「オマエは何か困ったことないかい?」と、聞いてもいないような家庭だったら”新しい方“の長崎の事件も起こって当然。 加害者の家庭も、被害者の家庭も・・・どうだったのかな? そういえば、先日大阪で賭博場に入り浸っていた主婦たちが逮捕されたそうです。 なんでもその賭博場では大変なサービスなんだとか・・・そのサービスのよさにのめりこんでしまったそう・・・ 前にも書きましたがオダテに弱いのはダメダメ家庭の特質。それだけ家庭内にほめ言葉がないことを意味しているんですね。 |
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R.11/2/8 |