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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター |
配信日 | 04年6月25日 |
タイトル | 不幸に安住する (あきらめの精神) |
「人間はどんな状況にも慣れてしまうものだ。私はそれを人間の定義としたい。」・・・確かこのような文章だったと思います。ロシアの文豪ドストエフスキーの言葉です。 ドストエフスキーは、学生の頃に皇帝暗殺未遂事件に関わり、シベリアの収容所送りになりました。上記の言葉は、その収容所における体験を反映させた言葉です。 頭でっかちのインテリだったドストエフスキーは、このような絶望的な状況の中で、根源的な人間観察を行い、大作家となったわけです。 収容所のような絶望的な状況においても、人間は慣れてしまう。そして生き抜くことができる。 どうやって生き抜くの? 「絶望的」な状況で、生き抜くには、まさに「望みを絶つ」発想が必要ですね。 過酷な状況だと、なまじっか希望などを持っていると、希望が実現できないストレスが蓄積し、それが命取りになってしまう。だから、生きるためには、何も考えず、何も望まず・・・の、「枯淡」の境地に到達することが最良の方法論となる。 同じようなことがイタリアのルネッサンス時代の大詩人ダンテの作品「神曲」でも出てきます。その「神曲」によると地獄の門には、「この門より入るもの、希望を捨てよ!」と書いてあることになっています。 希望を捨ててしまえば、地獄でも生きていける。 人生を捨ててしまっているので、命が繋がっている。 案外そんなものでしょ? ダメダメ家庭の人間は往々にして、そのような「枯淡」の境地となっている。もう「希望」を捨ててしまっているわけです。 それに人生を捨てているので、改善への努力などしなくてもいい。精神的に大変にラクになるわけです。 まあ、本人は望みを捨てたり人生を捨ててしまっても勝手でしょう。しかし、そのような望みを絶っている「枯淡」の人間が親になってしまったら?と言うか、何も考えないがゆえに、親になってしまうのがダメダメ家庭の現実というもの。 そのような人生を捨てている「枯淡」の親がよく言うのは、「子供は普通であればいいわ!」というセリフです。 自分の子供に望むことは何もなく、敢えてあるとすれば「これ以上の面倒を掛けられたくない。」そのような発想です。 だから子供に要求するのもそれに沿ったもの。 「普通の子供になれ!」 「早く大人になれ!」 「親に面倒をかけるな!」 このような言葉については、今までに取り上げております。 何も希望を持たず、「普通」に生きているだけの親は、子供には特に期待することもない。 いや!厳密に言うと、その子供自身の喜びなり希望なり充実感というプラス方向には何も期待していない。親である自分にマイナスが降りかかってこないように期待するだけ。 あるいは、親である自分が発生するマイナスを埋め合わせることを期待する。 だからこそ、自分の子供が、自分と同じように「人生を捨ててしまう。」ことを要求することになる。 だって、子供が希望を持っていたりすると、親はサポートを要求されたりして、面倒となる。それに子供がその子供なりの希望を持ってしまったら、親である自分が発生したマイナスを埋め合わせるという役割をしない可能性も出てくる。だからこそ、子供が「人生を捨てて」枯淡の境地に入ってほしいわけです。 と言うことで、ダメダメ家庭の親は、自分の子供に対して暖かいアドヴァイスをすることになる。 「まっ、これがオマエの運命だと思って諦めるんだな!」 「どうせ、なるようにしかならないさ!」 「オマエの人生なんて、こんなものよ!」 ダメダメな親が子供に要求するのは、このような枯淡の境地だったり、諦念だったりするわけです。 こんな言葉が習慣化、日常化していれば、親も何も考えなくてもよくてラクそのものでしょ? それこそ、このような言葉はいつだって使えますからね。 『お母さん、私も、ピアノを習いたい!』 「ダメ!それがオマエの運命だ!諦めるんだな!」 『ボクは進学したいんだ!』 「ダメ!ダメ!どうせオマエな何をやってもダメ!あきらめなさい!」 『ボクは将来はサッカー選手になりたいな!』 「ハン!無理無理!夢みたいなことを言うな!オマエは将来はワタシの老後の面倒を見ていればいいんだ!」 こうなると、実際にすべてをあきらめ、人生を捨ててしまうしかありませんよね? ダメダメ家庭の親は、そのように、子供の要求を直接的に拒否するパターンだけでなく、日頃からグチばかりの姿をみせて、子供からの要求をそもそも「言わせない」ようにしてしまう。 日頃から「困った、困った。」と言っている親に対して、子供の側だって自分の頼みごとを相談できないでしょ? こうなると、頼みごとを「言わない」どころか、希望そのものを持たないようにするしかありませんよ。まさに「この門より入るもの、希望を捨てよ!」になってしまうわけです。 確かに、この世の中では、自分の希望どおりにはいかないことが多いものです。 特にダメダメ家庭では自分たちの希望がかなえられることが少ない。 ですから、あまり自分の希望に固執しても、立ち行かなくなることもありますね? また、ダメダメ家庭の場合、最近の言葉を使うと「負け組」の家庭の場合も多くあるでしょう。そのような場合には自分たちの希望が通ることはほとんどないと言えるでしょう。 だから、あきらめなくてはならないシチュエーションが現実的に多い。 逆に言うと、「子供から何を言われても、あきらめさせればいいや!」「子供へのサポートなどはする必要はない。」と思っているので、子供も何の覚悟もなくお気楽に作ることができてしまう。 そして、実際に子供からの依頼を平気で無視することになる。 そんな日々が積み重なってしまったら、子供はどうなるの? また、このように「運命だから諦めろ!」という発言は「子供の人生の問題は、オマエの問題だ。親である私たちは無関係である。」という意味となるわけです。親の側から、二言目には「あきらめろ!」と言われたら、子供にしてみれば親に対して何か解決のためのサポートを依頼することはできなくなるでしょ?いわばサポートしない旨の宣告の言葉とも言えるわけです。 親が子供に行うサポートと言えば、「あきらめることの有効性」を説得するだけなんですからね。親としては実に簡単でしょ? 人間にとって、あきらめることは一番現実的な解決法です。ですから、親にとっても子供の問題から解放される一番ラクな解決法は、子供がすべてをあきらめ悟りの境地に至ることです。あきらめることは誰にでもできることですからね。 幼少時から、悟りの境地に到達すれば、あとは子供自身があらゆる問題を自分だけ解決することになります。というか、まさに「希望を捨てて」生きることになる。 それに、あきらめることをマスターした人間は、後は単に「生きる屍」となって、親としては扱いがラクになりますよね? しかし、扱いがラクになるからと言って、大切に扱われるというものではないでしょ? なんでも、サッカーの日本代表の監督をされたオシムさんは新入団選手との会見で、選手の親に向かって「息子さんが絶対にあきらめないで走り続けるように育てましたか?もうそうなら、私が責任を持って育てましょう。もし、そのように育てていないなら、もう無理です。」とおっしゃったそうです。 そう!「あきらめる」ことをマスターした人間は、自分自身であきらめるだけでなく、周囲の人間からも「あきらめられて」しまうことになるわけです。 このような状態となってしまうと、たとえフィジカルには死んでいなくても、メンタルにはもう死んでいるわけです。 ダメダメ家庭の親にしてみれば、子供が希望をもって毎日生きることよりも、将来は、老後の自分のオシメを取り替える日々を、疑問なくこなしてくれればいいだけなんですし、むしろ、そのことを望んでいるわけです。 何回も書いていますが、ダメダメ家庭では親が子供に何か与えるというより、子供から色々ともらおうと考えている。 子供が何事にもあきらめてくれれば、子供に与える必要が完全になくなるでしょ? あとは子供からじっくり搾り取るだけになるわけです。 ダメダメ家庭では、子供なんて家畜の一種という認識なんですね。 家畜だと、お金がかかるけど、自分の子供だとお金がかからない。そんな魂胆で子供をポコポコ作ることになる。 そうして、トラブルになり、「ああ!ワタシは、ただ、ふつうの生活がしたかっただけなのに・・・どうしてこうなってしまったの?」と嘆くことになる。 しかし、「ふつうの親」は、自分の子供を奴隷とか家畜とは同列には扱いませんよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 不幸に安住してしまうと、意外にラクに生きられるもの。 ダメダメ家庭必須の処世術ですね。 まあ、本人は勝手に人生を捨てていればいいんでしょうがネ。 子供は逆に荒れちゃいますよね? 昨今の事件の家庭は、多分にこのパターンも入っていると思います。 |
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R.11/1/5 |