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カテゴリー | 当事者意識の欠如 |
配信日 | 04年7月7日 (10年6月28日,10年8月3日 記述を追加) |
タイトル | 当事者意識がない |
何でもプロ野球で近鉄とオリックスが合併するそうです。 お客が少なくて、双方の赤字がにっちもさっちも行かない水準になってしまったということなんでしょうね。 このメールマガジンはプロ野球についてのメールマガジンではありませんので、その合併については、どうでもいいことなんですが、面白かったのはその報道に対しての反応です。 「ファンをないがしろにしている!!」 まあ、お決まりの正論があったようですね。 しかし、そんなに多くのファンがいたら、野球場にお客が沢山入って、球団の赤字だって大したことにはならなかったはず。 勿論、本当のファンもいたでしょうが、少人数でしょう。 「オレたちファンを大切にしろ!」 と、言っている人に限って、野球場に行かずに騒いでいるだけ。 問題が起こってからワイワイ騒ぐ。 何もこの問題に限らず、よく見られる光景でしょ? 実際にオリックスと近鉄の両球団の監督をされた仰木さんは「いたしかたがないねぇ・・」とか答えていました。 当事者として携わっていると、実際に困っていることとか、正論どおりにはいかないことがわかるわけですね。 まあ、この問題はプロ野球の問題ですので、誰かが死んでしまうと言った深刻な問題とは言えない。関係者の皆さんもお困りでしょうが、もともと体力のある人たちでしょうから、別の分野で活躍できるのでは? 深刻な問題となると、自殺の問題です。 この自殺の問題も、当事者意識のない人ほど大騒ぎをするものです。 当人が困っていた時に、藁をもすがる思いで、相談を持ちかけたら「そんなことは自分でなんとかしろ!」「とにかく、ガンバレ!」というだけ。 そんな感じで、門前払いする人に限って、困っていたその人が自殺したりすると、家族に向かって涙目で「オマエたち家族だろうが!なんとか出来なかったのか!」と騒ぐことになる。 事件後に騒いでいる当人にしてみれば、その人なりの正義感から来ているのでしょう。しかし、ことが起こる前に相談に行ったときに門前払いしておいて・・・と、残された家族は思いますよね? 騒いでいる人は、当事者意識が全くないものだから、「あの時、自分が相談に乗ってあげれば、こんなことにはならなかったのに・・・」と、自省するようなことはしない。 ただひたすら、周囲に自分の善意を振りまいているだけなんですね。 まあ、そのような当事者意識のない人も、ただの友人だったり、親戚だったりくらいだとまだいいでしょう。 問題はそのような人が家庭を持ち、親になってしまう場合です。 何かことが起こった後で「オマエたちは、家族だろ!何とか出来なかったのか!」と、騒いだりするわりには、自分の家族に対しては当事者意識がないわけ。 子供が学校で困っていても、当事者意識がないわけだから、子供任せや学校任せ。 というよりも、「オマエたちは、家族だろ!何とか出来なかったのか!」と後になって騒ぐ人は、子供が学校で事件になっても「オマエたちは、学校の教員だろう!何とか出来なかったのか!」と騒ぐだけなのは、論理的に当然のことでしょ? 娘が結婚して、ドメスティック・ヴァイオレンスにあっていても、娘任せだったり、行政任せだったりするわけです。 「なんてヒドイ男なんだろう!」 「ケシカラン奴だ!」 と相手を糾弾することはしても、 「どうして、あのような男との結婚を許してしまったのだろうか?」 「このように深刻化する前に、親である自分たちが何か出来ることはなかったのだろうか?」 「どうして、そのような人間と付き合うようになってしまったのだろうか?」 「ああ!オレたちの目は何と節穴だったことか?!」 とかは、決して考えないんですね。 むしろ、「また、親に面倒を掛けやがって・・・」と嘆くだけ。 まあ、そんな親だからこそ子供がドメスティック・ヴァイオレスの被害に合ってしまうんですが・・・ いささか、らんぼうに思われるかもしれませんが、そのような観点で実際の事件を診てみると、よく見えてくるでしょ? “古い”方の長崎の事件では、実質上は通り魔に近いもの。被害者にとっての見ず知らずの加害者です。これは親としてもどうしようもない。 しかし、加害者と被害者が面識があるような場合は、子供の様子や困りごとがわかっていれば、事件にはならないんですね。 「自分が子供の様子を見ていれば、こんなことにはならなかったのに・・・」 「子供の困りごとを聞いていれば、事件が起こらなかったかもしれない・・・」 そのように自分を責めるのは辛いところでしょうが、実際問題として必要でしょう。だって本当のことですからね。 しかし、当事者意識がないがゆえに、 「学校は何やっていたんだ!」 「犯人は悪いヤツだ!」 「加害者の家庭は最低だ!」 と、叫ぶだけ。 普段から、「自分が子供のために何ができるのか?」と考えていないので、結局は他者を糾弾するだけになってしまうわけ。 私は長崎の事件(小学校6年生の事件)の「手記」(最初の手記)を全文読んでいるわけではありませんが、読んだ部分で感じるのは「当事者意識の欠落」です。悲劇の主人公に成りきっているだけ。「娘が死んでしまって、オレは悲しいよぉ〜」と言った内容でしょ? その手記の中に「こうなる前に自分に相談してくれたらなぁ・・・」そんな言葉が入っているのかな? 実はドメスティック・ヴァイオレンスの「被害者の女性」の親も、往々にしてそんな感じなんですよ。 事件というものは、「起こるべくして、起こっている」わけです。事前にちゃんと対応していれば避けることもできるわけ。 ただ、親に当事者意識がないと、常に傍観者になってしまうわけ。そして事件が起こって、大騒ぎをするだけ。 どのような事件でも、当事者意識がない人は同じような反応なんですね。 当事者意識がない傍観者状態であるがゆえに、事件に巻き込まれてしまう。 逆に言うと、事件後に、純然たる被害者の立場に自分をおいてしまえることから、事件前は傍観者であったことが想定できるわけ。 このような当事者意識のない人に、本などを渡したりして、注意したりするケースもあったりします。 本を渡す側としては、「この本でも読んで、アンタも、ちょっとは子育てを反省してみなよ!」との考えなんでしょうね。 まあ、他の家庭の人に対しては、直接的に「アンタは子供を実質上虐待しているんだよ!」とは言えませんものね。やっぱり、ちょっと遠まわしのサジェストの方がいいでしょう。 しかし、このような遠まわしの言い方は当事者意識のないダメダメ家庭の人間に対しては全く効果がないんです。それこそ、その本を自分では読みもせずに子供に渡して「この本を貸してもらったから、オマエが読んで勉強しろ!」とやるだけ。だって、子育てに対して当事者意識がない親は「子育ては学校の仕事」という認識なんですからね。 以前に小泉首相が田中外務大臣(当時)に本を渡して「ちょっとこの本を読んで考えてみたら?」と、やっていましたが、外務大臣だった田中さんの反応は典型的なダメダメ家庭のもの。 当事者意識のない人に、遠まわしの言い方は効果がないんですね。 皮肉などの間接的な注意が通用するのは、当事者意識を持った相手だけ。 小泉首相もそれくらいわからないとね。 まあ、小泉首相は、そのあたりを早めに見切って、長期政権を打ち立てました。 組織を代表し、率いるものは、単なる当事者意識を超えて、組織の代表者としての意識を持つことが必要になってくる。 代表者ともなると、きれいごとを連呼しているだけでは片付かないでしょ? それこそ、自分が率いる組織を維持し、発展させるために、自分の手を汚すことを厭わない覚悟も必要になってくる。マキャベリが指摘する「君主としての覚悟」が要求されるわけ。 当事者意識よりも被害者意識が強いと、受身の発想ばかりになり、何かを代表するという意識がない。 当事者意識がないと代表者意識は生まれない。 たとえば、たとえ、アルバイトであっても、その会社を代表しているわけでしょ? それなりに代表者としての感覚を持っていないとね。 「その件については、バイトだから分かりません。」・・・もいいわけですが、じゃあ、スグに誰かに聞きに行けばいいわけ。それすらしなかったら、そんな組織はダメになりますよ。 自分自身に代表者意識があるからこそ、他者が持っている代表者意識もわかることになる。 安部さんが総理大臣の時には、省庁からの出向者を出身官庁とは別の人材を使おうとして失敗いたしました。逆に小泉さんは、首相の側近としての責務と、出向元の省庁からの意向の板ばさみ状態にさせ、成果をあげていったんだそう。省庁からの出向者に対して、双方の代表者としての行動をさせたわけ。 組織を代表している人の代表者意識を使えば、成果をあげられるわけ。 外交における大使もそうですが、組織を代表するものは、常に板ばさみの苦悩を持つもの。 その苦悩を受けとめる覚悟がない人は、組織を代表してはダメなんですね。 いわゆる、エリート意識も実力が伴っていればいいし、その覚悟があればいい。 というか、そんな覚悟がないがゆえに、トラブルになるわけ。 エリートというのは、単なる能力の問題ではなく、覚悟のファクターも大きいわけ。 国家を率いるという覚悟の形のエリート意識を単純に否定する人は、家族を率いるという親としての意識も、理解できなくなってしまうでしょ? 親は子供とは違っていますよ。その役割が違っている。 それはエリート意識の一種といえるでしょ? 歴史を紐解けば、数多くの組織の衰退の事例がありますが、その衰退のパターンは、意外にも似ているもの。 中国の歴代王朝の衰退なんて、ほとんど一緒ですよ。 内部が腐敗しだし、 実際に小さなトラブルの発生し、 その小さなトラブルを見て見ぬふり。 内部に目を向ける必要があっても、外部の敵を探し回る。 そして、「悪いのは全部○○のせいだ!「オレたちが悪いんじゃないよ!」と弁解に明け暮れる。 中国の諸王朝だけでなく、日本の新聞社とか、長崎県とかなんて、まさにそんなパターンでしょ? 「インターネットが悪い。」とかで安易に敵認定してしまって、後は自分を憐れんでいるだけ。 そんな流れは、まさにダメダメ家庭においても顕著でしょ? ダメダメが進行してくると、時代が悪いとか、政治が悪いとかの言葉がスグに出てくるようになる。 衰退していく組織は、犯人認定する対象については、多少は変化しても、犯人認定に逃げ込む心理は共通なんですね。 現実と向き合うことが怖いので、高邁な理念を連呼して、その理念で統治しようとする。 逆に言うと、理念さえ、共有していれば、ミスしても許すようになる。 理念と言っても、一緒に犯人認定するだけ。 犯人を共有していれば、ミスしてもOK。 アイツのせいで・・・という理屈ですべてが通ってしまう。 逆に言うと、愛国心とか時代のせいとかの理屈をつければ、何をやってもいいとなる。 理念や精神面での縛りが過剰になると、行動の縛りをなくしてしまう。 だから、その組織の外部の人にしてみれば、どんな行動をするのかわからないので危険となる。 だからますます、周囲から相手にされなくなり、排斥されたりする。 「愛国心があれば、何をやってもいい。」 「アイツを恨んでの行動なんだから、こんなことも許される。」 言葉の上では愛国心と言う言葉でも、その心理としては、肯定のスタイルではなく、他の国への対抗心という二重否定ケースが多い。 中国なんて、その典型でしょ? オリンピックの聖火リレーなんて、他の国への対抗心に満ち満ちていましたよね? 「悪いのは全部○○のせいだ!」と言っておけば、問題を追及されない環境になってしまう。 問題を追及して、再発防止を図ったりはしない。 そもそも、「悪いのは全部○○のせい。」・・・なんだから、当人としては、再発防止も何もないわけ。 どんどんと、現実逃避が進行してしまって、ますますトラブルが起こって、ますます犯人認定が進行する。 自分たちに厳しい外部の人間なり、内部の人間を排除する。 だからますます現実に即したアドヴァイスを受けられない。 そして、ますます敵認定が必要になり、敵を探し回るために、外ばかりを見て、そしてあら探しに邁進し、自分自身の原点を見なくなってしまう。 日頃からあら探しばかりなので、いざ当人が何かをできる状況になっても、何をしていいのか分からない。本来は「これこれをやりたい。」という目標があったはずなのに、いつのまにかあら探しばかりになってしまうわけ。 それこそ、09年の総選挙で日本の民主党が政権をとりましたが、それまであら探しばかりだったので、いざ政権をとっても、「何をやっていいのか?」途方に暮れている雰囲気でしょ? 本来なら自民党の政権運営を見ながら、「自分たちが政権をとったら、この面のやり方は変えていこう。」とか「このやり方は敵ながらウマイなぁ・・・ちょっとオレたちもマネしよう。」とかの事前のシミュレーションをしていけばいいだけ。 何も、政策の問題ではなく、手法の問題なんだから、使えるものは上手に使っていけばいいだけですよ。しかし、そんな腰が据わった対応はできていないでしょ? つまりは、民主党は野党時代に、傍観者であら探しばかりだったことが見えてくるわけです。 「自分としてはこれこれをぜひとも実現したい。」という政策目標があったら、キレイ事の連呼というわけには行きませんよ。 そして、その「自分としてはこれこれをぜひとも実現したい。」というのは、どんな分野においても、行動の原点となるものでしょ? 困った時ほど、その原点に立ち返ることが必要になるもの。 たとえば、現在の日本において、衰退の道を驀進している新聞業界だったら、「どんな情報を、どんな人たちに、どんなスタイルで送るのか?」それが基本であり原点でしょ? まずはその原点を見つめることが必要なのでは? しかし、ダメダメになってしまうと、「誰がワタシたちの敵なのか?」そんなことばかりになってしまう。味方よりも、敵が必要になり、だからこそ、ますます外を見て、あら探し。 だから、ますます衰退してしまう。 衰退のプロセスというものはみな一緒なんですね。 構成員に当事者意識がなくなれば、その組織の長に代表者意識がなくなり、結果的に、組織を構成する一般の人も幹部もダメダメになってしまう。そんな組織がダメダメになっていくのは当然のことでしょ? そして、そんな将来像は、ちょっとやり取りをすれば見えてくるものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 まあ、当事者意識のない人は、常に傍観者ですので、「格好のいい」ことを言えるわけですね。自分だったらこうしよう・・・とは考えていないので、言葉の言いっぱなしでいいわけですから。 まあ、そんな傍観者の格好のいい言葉に喜んで騒ぐのもやっぱりダメダメ。 そういえば・・・ また小学6年生が事件を起こしたそうですが・・・ それだけ、それぞれの家庭が当事者意識を持って子育てに当たっていないことがわかるわけです。あの事件を踏まえ少しでも家庭内で会話があったら、そんなことにはなりませんよ。 |
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R.10/8/3 |