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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っている発想 |
配信日 | 04年7月9日 |
タイトル | 絶対的な解決を志向する (根絶志向) |
「オマエは、自分のところだけよければいいのか?!」 「この世から、そのような問題を根絶することを考えるべきではないのか?!」 何か問題があったりすると、そのようなトラブル自体の「根絶」を主張する人って、実際にいますよね? 例えば児童虐待の問題でも、ドメスティック・ヴァイオレンスでも、公務員の汚職でも、勿論、現在話題になっているような子供の凶悪事件でも。そのような事件があると、「金輪際そのような問題がなくなるように」と、「根絶」が高らかに主張されるものです。 「この世から児童虐待をなくすことを考えようよ!」 「子供の凶悪事件が根絶されるように考えよう!」 確かにそうなればいいですよね?しかし、そのような根絶って、本当にできるの? ダメダメ家庭の人間は、往々にして、そのような根絶志向なんです。 具体的な解決を一つずつ積み上げいくことは考えない。「チチンプイプイ」とか「アブラカタブラ」とかの便利な方法で一発解決!あるいは「効果的な法律を一発作っちゃえばいいじゃん!!」そんな発想なんです。だって当事者意識を持って、事態を考えていなくて、いわば傍観者感覚なので、「そんなことは、簡単に解決するんじゃないのぉ〜?」と能天気に思っているんですね。 根絶が望ましい別の事例を考えて見ましょう。 交通事故を例とします。日本でも大体年間1万人くらいの方が交通事故でお亡くなりになっています。 「その交通事故を『根絶』したい!」 そのような理想を熱く語る人もいるでしょう。 勿論、そうしたいですよね?そのような「根絶」が達成できれば結構なこと。 では、具体的にはどうやって? スピードの制限?道路の整備?交通教育?免許の取得を厳しくする? しかし、そのような方法では交通事故は減ることはあっても、根絶されることはないでしょ?だって、自転車と歩行者の間でも事故は起こっているんですからね。 交通を根絶するためには、結局のところは、原因となっている人類を根絶する必要があるわけです。 人類が根絶されれば、交通事故は根絶できるでしょ? と同時に、それ以外の方法で根絶できるの? 前にも書きましたが、交通事故となると、自転車と歩行者の間でも発生している。 自動車だけに目を向けた対策では、事故を減少させることはできても、根絶させることはできませんよ。だからこそ、交通事故の根絶という理想を実現させるためには、人類全体に泣いてもらうしかないでしょう。 しかし、人類の根絶となるとちょっと大事ですね。まあ、多くの人が反対するでしょう。結局は、「根絶」などと言った理想的な大目標を掲げてしまうことにより、具体的には何も出来なくなってしまうんですね。 じゃあ、「交通事故を少しずつ減らしていこうよ!」というような現実的な主張が出てきたら、周囲からどのような反応があるでしょうか? それこそ最初に挙げたような反論になってしまうわけです。 「自分さえ助かればいいのか!」 「根絶することを考えようよ!」 結局は、そのような根絶のための会議では、「議論のための議論」に終始してしまうんですね。 しかし、交通事故の場合は比較的実質的な議論がなされます。皆さんも交通事故の問題はそれなりに当事者意識を持つことができるわけです。ところが家庭問題については当事者意識を持たない人が中心になって運営されていますので、実質的な議論がなされないわけです。 たとえば、私が受講者として参加した地方自治体が主催した「ドメスティック・ヴァイオレンスの根絶!」と銘うたれたセミナーでも実際にそのような感じでした。 法律の整備とか・・・当たり前のことをウダウダ話しているだけ。 法整備もいいのですが、まずもって、その当事者や関係者が、「自分の娘がドメスティック・ヴァイオレンスの被害に合わないためにはどうすればいいのか?」あるいは「自分自身がそのような状況に陥らないようにするためには、どんな点に注意すればいいのか?」そのようなことを考える必要もあるはずじゃないの? しかし、そのようなことを言い出すと、結局は説教オヤジとか正論オバンが最初の反論をし、「根絶」を主張することになる。 根絶というもっともらしいことを言い出すのはいいとして、根絶となると「自分の娘がドメスティック・ヴァイオレンスの被害に合わないようにしたい。幸せな結婚生活を送って欲しい。そのためにはどんなサポートでもするつもりだ。」と考えている親と、「自分の娘には手間をかけられたくない。周囲から非難を受けさえしなければそれでいい。子供のことなど関心がない。」と思っているダメダメな親を一緒に扱う必要が出てくるわけです。 問題の根絶ということを、より現実的に考えると、「自分の子供には手間を掛けられたくない。面倒はイヤ!」そう思っている親を基準として考えることが必要となってくるわけです。だって、一番問題を発生させる家庭なんですしすね。前回の文書で取り上げた「当事者意識のない人」です。まさにマーケティング的に見ても、その「層」に対して効果的なものでないと意味がないでしょ? 子供に手間を掛けられたくない、子育てに当事者意識のないような親を基準として考えるから、具体的な解決策が出てこない。親に対して努力を求めても効果なし。じゃあ、一体どうすればいいの?すべてを法律で解決するの?本来は、そんなに子育てに関心がないのなら、そもそも親になることが間違いなんですね。 ということで、ドメスティック・ヴァイオレンスの問題の「根絶」のためには「そもそも、子供を作るな!」とか「そもそも、結婚なんてするな!」という対策以外はありえなくなってしまう。 しかし、そんなことをしたら「子供には幸せになって欲しい。子育ては楽しい。」と思っているマトモな親には迷惑至極の話となる。 まさに、絵に描いたような「あーでもない、こーでもない」の議論になってしまうだけ。 結局は、「議論のための議論」に終始してオシマイ。 ダメダメ家庭では、そのような絶対的な「根絶」を目指すことはあっても、「自分が助かれば、それでOK。」とは意外と考えない。 だって、自分だけが助かるためには、自分自身で考えないといけないわけでしょ? 例えば自分の娘がドメスティック・ヴァイオレンスに合わないためには、親も自分で考えなくてはいけなくなる。娘の結婚相手について、親として、そして年長者として見定める必要があるでしょ? ダメダメな親はそれが面倒なんですね。 だから一足飛びで「根絶」を目指すことになる。法律などの整備を期待するわけです。だって、問題が根絶されれば、当人としては何も考えなくてもいいわけですから、ラクなことこの上ないでしょ? ダメダメ家庭では、「自分が何もしないため」に考えることは結構熱心だったりするわけです。 だからと言って、問題の根絶を主張している親の横で、その人の子供が困っていたりする。 子供の幸せに関する一般論はいくらでも言えても、自分の子供のことには関心がないわけ。 「自分さえ助かればいいとは言えない。」「問題は根絶されないといけない。」と言う大義名分をもとに、自分の子供が困っていても無視する。親が立派な主張を展開する横で、子供は途方に暮れている状態。 そんな子供が将来はどうなってしまうの? それこそ、切羽詰まった日々を経てきた人間同士で入れ込み、入れ込まれの修羅場になり、まさにドメスティック・ヴァイオレンスとなってしまうだけ。 根絶などという正論を主張することによって、このような事態になってしまうわけです。 ただ「問題の根絶」を主張する人は、周囲から格好よく見えるものです。 具体的な対策を実行していくのは、地道な努力が必要になる。だから、格好が悪い。 しかし、絶対的な解決を高らかに主張し、地道な努力を非難していると格好がいいわけ。しかし、当然のこととして、事態は何も改善されない。 だから、問題が潜在化してしまい、いったん顕在化したら、もう対処不可能になっているものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンも購読解除される方も勿論いらっしゃいます。別に構いませんが・・・ ちなみに「ダメダメ家庭は子供に何も与えない」というカテゴリーでの配信の時には解除される方が必ずいらっしゃいます。 気持ちはわかりますが・・・ |
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R.10/12/9 |