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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 04年7月19日 (10年11月18日 記述を追加)
タイトル 平等志向
最近では公立の小学校も選択できるようになってきました。
このような問題については、以前に配信したことがあります。
選択が可能になる結果として、勝ち組の小学校と、負け組みの小学校が誕生して、それがスパイラルのように進行するわけですね。

ということで、ダメダメ家庭では、このような、選択を否定する傾向が顕著です。
「そのような選択制度を導入したら、格差が発生してしまうじゃないか!!」
「不平等は子供のためにならない!」
このような、結果としての不平等の問題は、何も小学校の選択だけではありませんよね?

病院の問題だってそうです。
地域環境の格差だってありますよね?
勿論のこと、将来的な結婚相手についても現実的には差があるでしょう。

そのような格差をなくそうというわけです。

発想自体は、確かに問題になるものではありません。
そんなことが、現実としてできるかどうかは別としてね。

ここで、最初に取り上げた小学校の選択の問題を考えて見ましょう。
このような小学校の選択性の導入に対して、教員の方は反発しますよね?だって教員だって今までどおりに競争もなくチンタラやりたいでしょ?しかし、保護者が一丸となって小学校の選択性の導入に賛成すれば、教員が何を言おうと実施できるものです。

しかし、往々にして、保護者の中にこの学校の選択性の導入に反対する人が出てくるわけです。
「選択性を導入すると学校間の格差が発生するから、反対だ!!」
「どんな学校でもすばらしい教育を受けられるようにするのが本来の形だ!」
そんな親の主張は、考え方としてあるでしょう。
それにいわゆる「正論」そのものでしょ?
では、そのような主張をする親を見ている子供はどう思うのでしょうか?

「信念があってボクの親は立派だなぁ・・・」
そう思う子供も、確かに、いるでしょうね。

しかし、そんな親を見ながら、「どうして格差がそんなにいけないの?」そう思う子供もいるはずです。
学校で学んでいれば、成績の差はどうしても発生しますよね?
国語や算数のようなものから、体育のようなスポーツ分野なり、あるいは音楽や美術のような表現系においても、すべての生徒が同じ成績というわけにはいかないでしょ?
絵を描かせても、「この子は上手だ!」という子供もいれば、「コイツは、絵はヘタだなぁ・・・」という子供もいますよね?

別に絵を描くのがヘタでも、自分の得意分野でそれなりの成果を上げればいいわけです。
現実って、そういうものですよね?
親だったら、自分の子供の得意分野を見つけてやればいいわけでしょ?

しかし、そのようなことはダメダメな親には面倒なんですね。子供のことには構いたくない・・・それがダメダメな親の本音。

だって、ダメダメな親は自分の子供は何に興味があるのか?何が得意なのか?知らないし興味もない。
「子供の教育は学校の仕事である。」
そう思っていますから、子供には煩わされたくないわけです。

だから、学校間の格差を嫌がることになる。
だって、学校間に格差が発生したら、それは親の格差を示すことになっちゃうからですね。
ダメダメな親としては、自分のレベルの低さが明らかになることが不快なんですね。
序列意識が強いダメダメ人間は、自分が下の序列になってしまうのが耐えられない。
結局は親の側がチンタラやりたいわけ。教員のチンタラと親のチンタラの利害が一致することになる。だから「すべて平等でないとダメ!」となってしまう。

まるでコンビニエンス・ストアーのように「どこも同じ」であることを求める。
同じチェーンのコンビニだったら、品揃えなどは、どのお店も同じですよね?だから消費者は店の選択においては考えなくてもいいわけ。それが便利さの所以でもあるわけですが、パンや弁当を買うならいざ知らず、子供の教育もコンビニエンスだけで考えてしまう・・・それがダメダメ家庭です。
選択自体が否定されたら、「少しでもいいところへ・・・」という、親の努力は不要になりますよね?
結局は、ダメダメ家庭では自分では何も考えたくないし、努力もしたくはないわけです。

ダメダメ家庭では「格差」が発生したら、自分たちは「下」の階級に行く・・・と無意識的に思っている。だから格差自体をイヤがる。格差があっても自分たちが「上」にいるのなら問題はありませんものね。
あるいは、序列が下であっても、自分が本当にやりたいことをやれればいいわけでしょ?
逆にいうと、序列が上であっても、自分が習得したいことが習得できなければ意味ないじゃないの?
その子供としては、いったい何をしたいの?
そして、その親としては、自分の子供にどんなことを習得してもらいたいの?

しかし、子育てに対して当事者意識がないダメダメな親としては「こうしておけば、それでいいや!」と、子供を学校に放り込んでおけばそれで一丁上がりという状態が理想になっているわけ。

何も学校の選択だけではありません。
病院の選択だって同じ。どの病院でも同じレベルの治療を受けられるように・・・という理想論はいいとして、自分の大切な人に「少しでもいい治療を受けさせてあげたい。」と思わないような人を基準として考えること自体がナンセンスなんですね。

勿論のこと、「結婚相手についてもハズレがないようにすべき!」と考える。
どんな男と結婚してもドメスティック・ヴァイオレンスの被害にあわないような社会に「すべき」との主張になる。
そう言っても、ダメな男を社会から根絶するの?そんなことを言うより、そんなダメな男とわざわざ結婚しなくてもいいんじゃないの?男だって格差があるのは当たり前でしょ?

格差そのものがなくなったら、何も考えなくてもいいわけです。
何も考えずに、周囲の人に合わせていればそれでいいという「ふつう」状態を求める。
そして、自分の子供に対しては「ふつうの子供になれ!」と命令し、そして、周囲に対しては「ワタシたちは、ふつうの家庭を作りたい!」と語ることになる。
しかし、その「ふつうの家庭」について具体的には何も説明できない。

当人としては、ただ、周囲の人に合わせるだけ。
そして、周囲との間で相違点なりマイナスが発生してしまったら、慌てて対処することになる。
逆に言うと、マイナスが発生しない限り、何も対処しないし、何も考えないわけ。

だからこそ、マイナスなり、人との相違点を、見たくないし、顕在化させたくない。
そして、結果としての発生した不平等に対して、過敏に反応することになる。

そんな親の姿を見ている子供は、そんな親を信頼しているの?
そんなわけがないでしょ?
だって、そんな親は「周囲の人に合わせて、ふつうの子供になれ!」と一方的な要求をしてくるだけで、子供の意向を聞く気もないわけ。
現実として、「不平等をなくそう!」と熱心に主張している親の子供は、往々にして、周囲をうかがったオドオドした雰囲気でしょ?

だって、当然なんですね。
相違点があれば、過剰に反応する親と一緒にいるんだから、ちょっとでも周囲の子供と相違点が出てしまうと、子供の側が弾劾されてしまうことになる。

すべての学校が同じサービスであることを求める親なんだから、すべての子供が同じ成績なりキャラクターであることを求めることは誰でもわかること。
ダメダメな親にしてみれば、子育ても、コンビミエンスストアーで買い物をする感覚なんですね。
親からのその要求に従わなければならない子供の側は、切羽詰ってしまう。

そのストレスが積み重なり、結局は、大きなトラブルになってしまい、まさに大きなマイナスが発生し、「ふつうの家庭を作りたい。」と語る親は、ますます逆上することになる。

言葉としては、「すべての子供に同じ環境を与えるべきだ!」となっているわけですが、現実的には、「自分の子供と、周囲の子供との間の差異がない。」ということであり、もっと言えば、自分の子供の固有性を否定しているわけ。まさに、自分の子供が「その他大勢」となっているわけです。

子供の固有性を否定している、そんな親は、子供の名前をまったく呼ばなかったり、その手の市民運動には熱心でも、レジャーとかのイヴェントには無関心だったりするもの。
固有につながるものは、排除されてしまう。

言葉の上では平等という言葉ですが、現実的に言うと、「差異を許さない」という二重否定でしょ?
だからこそ、子供の固有性を否定して、出る杭を叩き続けるわけです。

そんな家庭環境で育った人間が、それこそインターネットの掲示板に入り浸り、「出る杭をたたき続ける」ことになる。
そんな姿を見た、親の側が、インターネットをたたくことになる。
「出る杭をたたく」掲示板常駐者の姿は、まさに「子は親の鏡」になっているわけです。

(終了)
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発信後記

最近、異様に暑くなってきましたので、皆さんお身体お気をつけください。
私はさすがにへばり気味です。
R.10/11/18