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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 04年8月30日 (10年5月5日,11年2月11日 記述を追加)
タイトル 偶然で片付ける  (たまたま)
スポーツなり戦争の世界には、このような言葉があるそうです。
「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし。」
実際にそのようなものですよね?

当事者意識を持って、やることをやっていれば、戦いにおいても、勝ちはなくても、負けはしない。
戦う相手と戦力が大きく違っていて、戦うと負けることが確実な状況なら、そもそもそのような戦いは避けることが必要なこと。
たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはないんですね。
負けという結果になるのは、「負けるべくして、負けている。」わけです。

まあ、勝っても負けても、スポーツの分野なら大したことはない。
しかし、「オレが負けたのは、たまたまだ!」などと自分自身を納得させてしまうような状況だと、何も身につかないでしょ?
結果としての「成功するか?失敗するか?」は運もあるでしょう。しかし、失敗したらその原因を考えて、次回以降をふまえた対策を取るのは運ではないでしょ?そのような「失敗に学ぶ」姿勢がないと、また次の失敗も「運が悪かった。」「たまたまダメだった。」で片付けてしまうことになってしまう。

「たまたまダメだった・・・」そのような発想は、自分自身の「やる必要があること」を意識していない当事者意識の欠如した人間に典型的な発想といえます。
このような発想は、就職するときの会社選びから、結婚相手の選択まで、人生の各局面に共通しているものなんですね。

「たまたま」、ある会社に就職して、その会社が自分と合わなくて離職する場合は、たまたま「合わない」のではなく、そもそも「たまたま」という感覚でその会社に就職したのが間違いでしょ?
だから、本質的には、「たまたま」ではないんですね。
事前に色々とその会社について調査をしておけば、このようなことにはならなかったはずです。しかし、ダメダメ家庭では自分で考えるようなことはしないし、自分自身の「やる必要があること」についての意識がないので、うまくいかなくなっても、偶然の産物として、勝手に納得してしまう。

もっと顕著な例は結婚相手の選択です。
ダメダメ家庭では、じっくりと考えずに、たまたま結婚する例が多い。
自分の親を見ているので、当人もそもそも結婚生活に期待していないし、
自分の能力なり価値について何も考えていないし、
自身の将来のヴィジョンも何もないし、
相手について考えることから逃避しているし、
当人自身のコミュニケーションにも問題があるし、
周囲も何もサポートもしないし・・・
と、そのような状況から「たまたま」結婚してしまうんですね。

「一体、あの人のどこがよくて結婚したの?」
『うーん・・・なんとなく、たまたまね・・・』
ダメダメ家庭ではこのような会話が、ありふれたものになっている。

「たまたま」結婚しても、うまくいくわけもなく、結局は、離婚することになる。そしてまたまた「たまたまダメだったわ!」で勝手に納得するだけになる。
しかし、たまたまで結婚したのなら、うまく行くことの方が「たまたま」なんですね。

そういえば、以前に日本の会社員の方がノーベル賞を取りましたが、その人の奥さんもまさか自分の結婚相手がノーベル賞を取るなんて思ってもみなかったでしょう。まさかお見合いするときに、相手方の論文を読んで「これならイケル!」と思って結婚したわけがありませんよね?
その方がノーベル賞を取ったのはたまたまといえるわけです。
しかし、まさかあの夫婦がドメスティック・ヴァイオレンスに陥っているわけもありませんよね?
結婚前における相手との話で、相手の男性が、ちゃんと会話が出来て、自分の仕事に愛情と誇りを持っている人間なら、後はちょっとした相性だけの問題となります。大失敗なんて起こるはずもありません。基本的なことをちゃんと確認すれば、少なくとも大失敗はないわけです。
そんな基本的な確認もせず、「ちゃんとした会話ができない人」や「自分の仕事に誇りを持っていない人」と、たまたま結婚したりすると、ドメスティック・ヴァイオレンスや離婚とかの問題が必然的に起こってくるわけです。

それこそ、どこからのカルト宗教のように、配偶者を教祖様に決めてもらって、結果的に「たまたま」うまく行かない状況になってしまったら、結婚生活のトラブルは、「たまたま」起こってしまったとは言えないでしょ?そもそも、教祖様に結婚相手を選んでもらっているという段階で、ちょっとヘンでしょ?
しかし、当人にしてみれば、教祖様に配偶者を決めてもらうと、後になって「うまく行かないのは、たまたまだ!」と言えてしまう。あるいは、「ワタシはヘンな宗教に騙された!」と嘆きの声を上げるだけで済んでしまう。だって、自身が結婚相手を見て考えて選択したわけではないんですからね。

そのように物事をすべて偶然で片付けるような人とは、話をしていても実にツマラナイ。
「どうしてこうなっちゃったの?」「アナタはどう考えるの?」と聞くと、
『たまたま』『私も昔は若かった・・』『どうしてかなぁ・・・』と言った返事しか返ってこない。結局は会話にならないわけです。そう言われちゃったらどう答えればいいの?
というか、こんな人とのやり取りをしているというだけで、あるいは、そんな人とやり取りが成立しているというだけで、将来的にトラブルが発生することになるのは、たまたまではなく、確実といえるでしょ?

当人が、たまたまの感覚で結婚して、結果的にドメスティック・ヴァイオレンスにあって、相手から殺されようと当人自身の問題といえます。
しかし、自身で何も判断せずに、「たまたま」で結婚するような人間は、何も処置もせずに、「たまたま」で子供ができてしまうのは論理的な必然というもの。
そのような人が子供を育てると、同じことの繰り返しになってしまうんですね。
だって「自分のやる必要があることを確実にやる。」という発想がないから、何も判断せずに、何事も偶然で片付けてしまう。
子供がそんな親に相談を持ちかけても、「オマエも、運が悪かったなぁ・・・」でオシマイとなるだけ。

何か事件があったら、偶然ではなく、ちゃんと理由があるわけです。
ちなみに以前にも書きましたが、長崎の新しい方の事件(小学校6年生による殺傷事件)ですが・・・
通り魔ならいざ知らず、顔見知り同士の犯罪なので、ちゃんと明確な理由があるわけです。
あの長崎の事件は、ダメダメ家庭の子供同士による「入れ込む」「入れ込まれる」という関係によるトラブルという、むしろ分かりやすい事例といえるでしょう。

あの事件についても、「こうなる前に、どうして親であるワタシに言ってくれなかったのか?」といった、本来は親がやらなければならないことについて思いを致さない点がいかにもダメダメ。加害者の親も被害者の親も典型的にダメダメ家庭の親ですね。何回も書いていますが、「入れ込まれる」にも理由があるわけです。決して偶然ではないんですね。
ただ、「自分のやる必要があることを確実にやる。」という発想がないものだから「たまたま殺された。」「たまたま自分の娘だった。」「たまたま犯人が知り合いだった。」と納得してオシマイとなってしまう。周囲の人の、事件後の発想も典型的なダメダメ思考なんですね。
マトモな環境だったら、あんな人は「浮いて」しまうわけですが、逆に言うと、何かあると、「偶然だ!」「たまたまだ!」「運が悪かっただけ。」と言えて、それが通ってしまうような環境だと、自分で考えることから逃避するダメダメ人間にとっては都合がいいことになる。

だからこそ、その手の自己逃避的なダメダメ人間は、「たまたま」という言葉が飛び交っているような状況に、「わざわざ」首を突っ込んだりする。そんな人間が集まってしまうので、まさに「たまたま」が絶対的な常識となってしまう。実際には、「たまたま」トラブルになったわけではないのに、「たまたま」ということですべての人が納得してしまって、「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と手を取り合って勝手に嘆くだけ。
何かあっても「たまたま」ですべてが片付く状況になってしまうと、具体的な対処も行われずに、トラブルがより多発することは、本来は小学生でも分かること。しかし、そんなダメダメな状況であるがゆえに、そんな「思考停止」を求めて、多くのダメダメな人間が寄って来てしまうことになる。

そんな構図も、「たまたま」と「わざわざ」を明確に区別すると、より明確になるものです。
ここでは、そんな「たまたま」と、「わざわざ」の組み合わせについて、考えて見ましょう。

○「たまたま」発生したトラブルを「たまたま」助ける。
事例としては、「道を歩いていたら、近くを歩いていた人が「たまたま」転んでしまって、「たまたま」そこを通りがかったので、助けた。」というパターンがあるでしょう。
そんな場合だったら、それこそ、助けた側もちょっとした善意といえるでしょう。
だって、道でコケた人は、まさに「たまたま」コケたわけですからね。
まさに、偶然と偶然が合わさっただけで、実質的には再現性は無い状況といえます。

○「たまたま」発生したトラブルに、「わざわざ」介入する。
自然災害の発生時に、サポートに入るパターンがその代表でしょう。
自然災害の発生自体は「たまたま」でも、そんな状況に「わざわざ」首を突っ込むのは、本人なりの「趣向」が反映されているでしょ?
そんな状況も、あまりクセになると、それこそ「このボクちゃんを必要としてくれる状況を待ち望む。」ようになってしまう。それこそ、自然災害どころか、放火でもして自分で火事を起こして、自分自身で消火活動をするようになってしまう。

○「わざわざ」発生させたトラブルに、「わざわざ」介入する。
それこそ、「わざわざ」暴力オトコと結婚し、ドメスティック・ヴァイオレンスの修羅場になってしまう。そんな状況を見つけて、ボランティアが「わざわざ」介入する事例が実際にあります。
避けるという判断が可能なのに、避けようとしないわけです。「わざわざ」介入する側は、当人が「わざわざ」介入できる状況を探し回っているし、そんな状況を温存しようとしているわけです。

○「わざわざ」発生させたトラブルに、「たまたま」介入する。
それこそ、上記のドメスティック・ヴァイオレンスの事例において、当事者ではない人間が、被害者から相談を受けるような場合も存在します。被害者の女性が、わざわざ作り上げた状況に、依頼されて介入する状況がこのパターンです。
そのようなシチュエーションでは、依頼されて介入することは、「たまたま」といえます。
依頼されて介入する側としては、そのようなシチュエーションにおいては主体的な再現性がない。まあ、実績ができてしまって、別の誰かから依頼されることによる再現性はありますが、ドメスティック・ヴァイオレンスの状況そのものを再現しているわけではないでしょ?
逆に言うと、当事者から相談を受ける前に介入するような人は、そんな修羅場的な状況に首を突っ込むこと、それ自体が好きなんですね。だから、そんな状況を温存しようとすることになる。
まさに「アナタは何も悪くないわ!」とかの甘言を弄して、トラブルが発生する土壌自体を温存しようとする。

トラブルというのは、意識的であるにせよ、未必の故意にせよ、「わざわざ」発生させることが多いもの。
そして、後になって「どうしてワタシだけ、こんなことに?!」と嘆くことになる。
逆に言うと、そのような嘆きを言えるように、的確に選択しているわけです。

何かトラブルが起こった後になって、偶然で片付けてしまうような人は、相変わらず何も判断しないままで生きていて、次にも同じようにトラブルを起こし、やっぱり「たまたま」とか「偶然」で片付けてしまう。逆に言うと、二言目には「たまたま」とか「偶然」とかの言葉を持ち出す人は、その言葉を使えるように、必然的に行動しているわけです。
そして、「ああ!ワタシはどうしてこんなに不幸なの?!」と嘆くことになる。

自身で判断したら、それは失敗となるわけですが、「たまたま」でのトラブルであれば、それは被害ということになる。
被害者という自身の立ち位置は、被害者意識が強いダメダメ人間にしてみれば、実は心の底では望んでいるもの。
求めていた被害に浸って、そうして、「どうして、このワタシがこんなことに?!」と大仰に嘆くことになる。
逆に言えば、そのように嘆くためには、自分で判断してはダメでしょ?
だからこそ、あらゆる判断から逃避し、すべてを偶然で片付けてしまって、実際にトラブルになって、心ゆくまで嘆くことになる。
当人が何も考えていないがゆえに、確かに「たまたま」と言えるわけですが、何も考えていないことは、必然そのものであり、再現性が高いといえます。
そんな家庭で育った子供が、親と同じようなトラブルを起こすのも必然なんですね。

(終了)
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発信後記

オリンピックを見ていると隣の国なのに随分違うなぁ・・・と思うことがあります。
特に人種構成で・・・
ヨーロッパのドイツはほとんど白人なのに対して、フランスは黒人選手も多い。
南米のアルゼンチンでは、ほとんど白人なのに対して、ブラジルは肌の色も色々。

さすがに東アジアでは黒人選手は非常にまれなケースですが、今後日本では増えていくでしょう。しかし、韓国では絶対にそのような事態にはならないはずです。日本と韓国は全然違っているんですね。

日本では鎖国の時代から、そのような混血の事例があったりします。有名なシーボルトの例もありますし、記録には残っていませんが、ロシアの漁船が難破して日本で救助されて、漁船の乗組員と介護に当たった日本の娘さんと仲良くなってしまって、子供ができてしまう事例が結構あったそう。記録には残っていなくても、子孫が残っていたりします。
日本は昔からそのような点は、おおらかといえるわけ。現在の日本で混血の人や、帰化した方が多いのは日本の歴史からみて当然のこと。

ダメダメ集団では妙に民族などの価値に拘ったりします。会話ができないので、会話の前から存在しているものに拘ってしまうんですね。本来は色々な人がいることは、基本的にはいいこと。それだけ多種多様な価値観があるわけですし、それだけ会話自体も豊かということなんですね。

といっても、江戸時代のロシアの漁船の乗組員と、日本の娘さんは言葉では会話はしなかったでしょうが・・・言葉の要らない会話というわけでしょう。
R.11/2/11