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カテゴリー | ダメダメ人間の自己逃避 |
配信日 | 04年11月19日 (10年10月25日 記述を追加) |
タイトル | 自分自身から目をそらす |
1960年代に活躍したイギリスのバンドにビートルズという名前のバンドがありました。あまりに有名ですので、皆さんも名前はご存知でしょう。 そのメンバーであった、ジョン・レノンが死ぬちょっと前になされたインタビューを読んだことがあります。その中で、かつてビートルズで一緒にやっていたジョージ・ハリソンについて語っているところがありました。 なんでもジョージの自伝を読んだ、ジョン・レノンが怒っていたようでした。その自伝においてジョージの音楽の形成に当たっての様々な影響をジョージ本人が語っていたのですが、ジョン・レノンは「取るに足らないサックスプレーヤーと同格の扱い。」だったそう。それでジョン・レノンが怒っていました。 ジョンとジョージはビートルズ結成前から一緒にやっているわけですし、一緒に演奏し、一緒に曲を作っていたわけですから、「取るに足らないサックスプレーヤーと同格の扱い」では怒りたくもなるでしょう。 ジョン・レノンだって自尊心を傷つけられたと言えるでしょうね。 と、同時に「オイオイ!それはおかしいだろ?!」とも思うはずです。 ティーンエイジの頃から、何年間も一緒に音楽活動をやってきた人間を、あえて「その他大勢の扱い」ということは、ジョージだって自分自身をわかっていないことになるからですね。 ジョージが本当に自分自身の音楽が確立できていたら、ジョン・レノンからの影響を功罪両面から語ることもできたはず。具体的な影響を考えたくないし語りたくはないから、「その他大勢の扱い」にせざるを得なかったわけです。一番考えたくないことだからこそ、「その他大勢」中に入れてごまかした・・・そんなわけでしょう。 そんな人間の心理なんて、ジョン・レノンのレヴェルの人間には手に取るようにわかっちゃうわけです。 そんな自分自身から目をそらしていたら、腰の据わった音楽活動なんてできませんよ。 まあ、これはあくまで音楽活動についての話。 しかし、ダメダメ家庭の問題も、往々にして、無意識的に避けてしまうような対応も多くあります。 最近(04年)ご活躍のライブドアの堀江社長ですが、「旧体制のオヤジをぶっ飛ばせ!」とゲンキがいいのは結構ですが、じゃあ自分自身のオヤジはどうなのか?ぶっ飛ばすの?ぶっ飛ばさないの?じゃあ、父親としてどんな人だったの? 彼は、自身の父親の問題が自分自身の中で片付いていないのが顕著でしょ?自分自身のオヤジの問題から目をそらしているので、どうしても攻撃の仕方が過激になり、味方ができなくなるわけ。 あるいは、女性運動の大家として名高いあの女性も、「男性による女性の抑圧」問題を取り上げるのはいいとして、では、自分自身の父親と母親の問題が自分自身で片付いているでしょうか? 自分自身でまだ片付いていないことは明白ですよね? そのような自分自身で触れたくない部分があるために、腰の据わった考察ができず、ワイワイ騒ぐだけで終ることになる。そして、触れられたくない部分に話題が近づいてくると、逆上することになる。 何も自分自身のプライヴァシーを売り物にするような三流芸能人のマネはしなくてもいいわけ。自分自身の頭の中で片がついていればOKなんですね。しかし、頭の中で片がついていないと、考えるに当たってそこは避けてしまうでしょ?そのような見たくないアンタッチャブルな部分がドンドン広がって、ますます自分自身から目をそむけるようになってくるんですね。 だからこそ、自分を騙すための儀式的な行動が必要になり、そのスケールも不必要なまでに大掛かりになり、行動も過激になってしまうわけ。 そのような流れは08年に起こった厚生省事務次官のOBの殺害事件などにも顕著でした。 もっとも重要な相手について考えることから逃避しているがゆえに、行動は過激になってしまうわけ。それだけ、自分を騙すのに必死なんですね。 そのような各方面でご活躍の方だけでなく、例えばメールマガジンの文章にしても、「ああ、この人は、何か問題を抱えていて、それから目をそらしているなぁ・・・」と言った類の人の文章ってありますよね? 何もプライヴァシーを売り物にしなくてもいいわけ。 しかし、「人の言葉や行動」について考えるのはいいとして、「じゃあ、自分自身はどうなのか?」と言うことについて、いつでも説明できる状態でないとダメじゃないの? ジョージ・ハリソンの例ではありませんが、自分自身の人間形成を考えるに当たって、学校の教員とか近所のオッサンとか親戚のお婆さんとかについては雄弁に語ることができても、自分の両親について全然語れない人っていますよね? 実際に語らなくてもいいわけです。しかし、頭の中で決着がついているのか?全然決着がついていないのか?それは文章に顕著に反映されているんですね。 ダメダメ家庭では、親は常に自分自身の被害を強調する。 「オマエのために人生を棒に振った!」 子供に対して、そんな物言いがお約束となっている。 だから、子供としては、どうしても自分の親の問題はアンタッチャブルになってしまう。「これ以上は親に迷惑を掛けないようにしなければならない。」と考えるわけ。だから自分自身の不満を何か別の対象にぶつけてしまう。 しかし、そんなことは自分自身から目をそらしているだけでしょ? 自分自身から目をそらしていること自体を認めたくないものだから、過激な儀式的な行為をして、自分に納得させることになる。 まあ、過激なテロリストにでもなるわけですよ。 また、そのような自分自身から目をそらしている人の文章って、妙に逃げ道が多い、浮ついた文章なんですね。そんな文章を読んだりしていると、ちょっと笑ってしまいます。 「コイツが自分自身の問題をごまかすために書いている文章を読まされている私って・・・」 まあ、浮ついた文章を書いているだけならまだしも、そんな人が子育てをしたらどうなっちゃうでしょうか? 自分自身の問題から目をそらしている人間が行う子育てなんて、結果は明白ですが、結構多い事例なんですね。何と言っても、子供をネタにすると、気軽に自己逃避ができてしまう。何かトラブルがあっても「子供のせいで・・・うまく行かなかったんだ。」と、まさに親譲りの論理を簡単に持ち出せる。だから、自己逃避であるがゆえに、逃避のネタとしての子供を求める人は多いわけ。 そんな家庭の人は、妙な熱血ボランティアの道に進んだり、地域の福祉委員などをやったりすることになる。まさに、逃避のネタを求めるわけ。しかし、そんな「立派な」活動の横で、自分の子供は家族の会話に飢えていたりするわけ。 逆に言うと、その手の善意に満ち溢れた福祉の活動家って、単純に信頼するわけにはいかないわけです。その活動も、自分の問題から目をそらすための美辞麗句や言い訳のためのネタになっているだけだったりするわけ。 何故に、自分の子供を放っておいて、他人の問題に首を突っ込むの? だって、他人の問題っていざとなったら逃げることができるでしょ? 「あとはアナタ自身で解決してね!」 と、お決まりのセリフ。 そうやって、次なるターゲットを探しに福祉活動にいそしむことになる。 まあ、その手の人にしてみれば、そのような福祉活動やボランティア活動をすることで、本来は逃げることのできない自分自身の問題から逃げているわけ。福祉というものは、自分から逃げる理由としては格好のものでしょ? 人助けという理由を付けて、自分自身の問題から目をそらす。 そんな人って、事態がクリティカルになったら、人助けの場面からも逃げてしまうので、そのサポートも頼りにはならないんですね。 ちなみに、ちょっと参考までに「死を前にして自分自身から逃げている王様」の姿を描いた戯曲のセリフを引用しましょう。 「・・・おれの思い出を歴史の教科書にして、永久にとどめてくれ。みんながおれの生涯をそらで覚えて、おれの生涯を再び生きてくれ。学生や学者たちが、おれだけを研究テーマにして、おれの王国、おれの業績だけを調べてくれ。他の本はすべて火にくべ、ほかの銅像はすべてぶち壊し、あらゆる広場におれの銅像だけを建ててくれ。おれの写真をあらゆる役所に、あらゆる村役場に、税務署や病院に飾ってくれ。あらゆる飛行機に、船に、手押車や蒸気機関車におれの名前をくっつけてくれ。おれ以外の王様や、将軍や詩人、歌うたいや哲学者、そいつは全部忘れてくれて、すべての人々におれだけしか意識させないでくれ・・・」(白水社 イヨネスコ戯曲全集「瀕死の王様」1962年作品 より) この王様は、国民のことを考えずに自分の利益だけを考えているのに、自分自身から逃げて誠実に向き合うことはしない人。また疑心暗鬼に陥って、部下を次々に殺してしまったりと・・・ まあ、この戯曲は1962年の作品なので日本では現在は上演されないようですが、ありがたいことに日本人は舞台とは別のステージで、ライブで見ることができますよね? 自分から逃げている心の弱い権力者の姿って、やっぱり似たところがあるわけです。それこそビートルズが活躍した1960年代においても、21世紀においても、自分自身から逃避しているがゆえに、行動は似てきてしまうもの。 実際に、その国家指導者のパターンだけでなく、ある種のカルト系の団体の統率者はそんな傾向があるでしょ?上記の戯曲の王様そのものの行動をしている統率者さんも多いでしょ? 本来は、宗教関係だったら、神に率先して仕えるのが統率者の務めというものですよ。 しかし、自分の名前なり業績をやたら誇示しようとする統率者もいたりするでしょ? あるいは、会社や競技スポーツの分野においても、必要以上に、実際の社員や競技者以上に、統率者の側が前に出てくるケースがありますよね? その手の集団は、実に排他的でしょ? 「その統率者を信じるか?信じないか?」だけの問題になってしまって、自分たちの考えを、客観的なスタイルで説明することができないわけ。 だから、周囲にいる人間は、その集団の方針が見えずに不安となってしまう。 だから、信頼感を持たれない。 客観的な説明ができないがゆえに、そして信頼とは無縁であるがゆえに、周囲から好意を持ってもらおうと過剰な善意や大義を口にし、それこそボランティア活動などをこれ見よがしに行うことになる。 自己逃避であるがゆえに、周囲の目を過剰に気にし、自意識過剰状態になってしまう。 だからこそ、ちょっとのことで、スグに逆上することになる。 周囲を気にすることで、そして、スグに逆上することで、結局は、ますます自分の内面の問題がどこかに行ってしまう。 しかし、自分の内面の問題がどこかに行ってしまっているがゆえに、当人にしてみればラクチン・・・それがこの手の人たちの発想なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 上記の「瀕死の王様」という戯曲は1962年の作品。大きな図書館には置いてあると思いますが、最近では図書館はネットワークを組んでいるので、近くの図書館で聞いてみれば連携している図書館から取り寄せることもできると思います。 このどうしようもない王様も、最後には改心するわけです。そして死の世界に入っていく。 その改心を導く女性はマルグリットという名前。 多分この名前はゲーテの「ファウスト」のマルグリット(=グレートヘン)からの引用なんでしょうね。 ゲーテの「ファウスト」の方はメチャクチャ長い作品ですが、「瀕死の王様」は2時間もあれば読めると思います。よろしかったらどうぞ! ちなみに、ゲーテの「ファウスト」の中心コンセプト「人間は完成に達することが重要ではない。完成に至る努力を続けることに意義がある。」は、私のメールマガジンの基本的コンセプトのひとつでもあります。 ゲーテの「ファウスト」ではありませんが、このメールマガジンをご購読されている方は、発行者が意外?にもヨーロッパの『知的伝統の系譜』(断じて『伝統的知性の系譜』ではありませんヨ)に連なっていることに気がついている人もいるかもしれませんが・・・ まあ、「死んだ後で、やっと理解される。」という系譜も踏襲しているんでしょうね。 だから私は週3回という超ハイペースで発行しているわけです。同時代の人間を当てにしているのなら、こんなハイペースでは発行しませんよ。 まあ、私もカナリアのように書いているわけ。ゲーテのようにね。 |
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R.10/10/25 |