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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者の行動 |
配信日 | 04年12月20日 (10年11月13日 記述を追加) |
タイトル | 仕切りたがり |
ダメダメ家庭の子供は親からグチの言われっぱなし。 オマケに、家庭内で会話もなく、子供の希望は全く無視されている。親から一方的に命令を言われるだけ。 だからどうしても、子供は、自分の意向を実現させる体験に飢えてしまう。 あるいは、命令を一方的に受けているだけの状況なので、自分としても人に対して要求を出してみたいと思っても、かなわない。 このような精神的な飢餓体験が積み重なると、長じて後に「仕切りたがり」になるケースがあります。 自分で何かでサークルなどを組織して、自分が長になり、集団を仕切るわけですね。 「ああ!これでワタシも、仕切ることができた!」 そんな調子。 何も、長じた後ではなくでも、自分の家庭で自分の意向が親に聞いてもらえない状況だと、子供時代から、いささか問答無用のボス的な雰囲気になったりする。 それこそ「ドラえもん」における「ジャイアン」は、そんな面もあるのでは? まあ、腕力があれば、そんな方法も取れるでしょう。 あるいは、まさに、学校でのボス的なキャラの子供は、その家庭内で自分の意向が反映されていない場合が多いでしょ? 「ジャイアン君」は子供だから笑って済む面もあるわけですが、大人になっても、ボス的な立ち居地を目指すような人もいるもの。何かよくわからないような愛好家サークルとか、それこそボランティア集団とか、あるいは、政治団体とか宗教団体とか、あるいは、もっと伝統的なボスとして地域の町内会の役員になりたがる人のようなパターンもある。また、今だったらインターネット掲示板でがんばっている?ような人とか・・・結構いるでしょ?仕切ることに生きがいを持っているような人。 そのような人は「仕切りたい」がためにグループを組織しているのであって、そのグループの目的実現のために「仕切って」いるわけではないんですね。 だからどうしても無理が出て来る。 そもそも、ダメダメ家庭出身者はコミュニケーション能力が低い。人の意見を聞いて、自分の意見を相手にわかりやすく伝えるという会話の基本が出来ていない。そんな人に「仕切られても」、その集団のメンバーは不快になってしまうんですね。 集団のメンバーがそのような不満を口にし出すと、ますますムキになって「仕切ろう」とする。 そのグループが結局はどうなってしまうのかについては、言うまでもないでしょう。 世の中には、各種サークルなどの色々なグループがあります。そのうち結構な数がこのような「仕切りたがり」の人間が長になっていますよね?そのような人は往々にして権威主義的だったりする。まさにダメダメ家庭のメンタリティーを踏襲しているわけです。 自分としてはどう考えるのかは、あまり言わないで、「人の見解」を引用して、自分に権威を持たせようとするわけ。「あの有名な○○先生がこうおっしゃった!!」「マルクスがこう書いている!」「だから、我々はそれに従うべきなんだ。」とべき論で問答無用。 それはそれでいいのでしょうが、そんな人と話をしていても面白くありませんよね? 本来は、参加者の見解を吸い上げ、そして整理することが、仕切る人間の仕事でしょ? しかし、ダメダメ家庭出身の仕切りは、むしろ、人の見解を抑えつける方向に向かってしまうことになる。 そもそも、自分の意向を親から汲み取ってもらえなかった反動として仕切っているだけなので、どうしても無理がある。それだけではなく、そんな人は自分の意向そのものを抑圧してきているので、参加者にわかってほしい自分の意向そのものがない。 その集団の名目はそれなりに立派でも、その目的を発展させたり、議論を詰めていく発想は持っていなくて、ただ、仕切りのための名目としているだけ。だから、どうしてもトラブルになってしまう。 子供の頃に親に自分の意向を汲んでもらえなかった代償として仕切っていることを本人が自覚すれば、まだ救いがあるのでしょうが、自分自身から逃避している人がそんな自覚が起きるわけがない。 結局は、その手の人はそのようなグループを作っては壊し、作っては壊しの繰り返しとなってしまうわけです。 この手の「仕切り」は、リーダーシップがあるという肯定的な能力から来ている訳ではないわけ。むしろ「人の話を聞けない。」「対等の立場ではやり取りができない。」という否定的な要素から来ているわけ。だから、結局は、せっかく作ったグループも瓦解してしまう。 それに「仕切ること」がそもそもの目的なので、掲げる目標が近い他のグループの活動を統合して大同団結していくことは考えない。あるいは、相互に協力関係を構築することもない。また、自分が仕切っているグループも、自分とは別の仕切りたがりの人が参加すると分裂したり・・・ まあ、当事者は真剣なんでしょうが、横から見ていると実に笑ってしまうほど。 そんなグループを作って仕切っているくらいなら、本人の勝手でしょうが、結局は自分自身の問題から目を逸らしているだけなんですね。 そもそも、その手の人は、その人自身に問題意識があるわけではない。 自分が直面している問題を一緒に考えていこうなどとは思っていないわけ。 ただ、「議論ごっこ」をしたいだけなんですね。 この手の仕切りたがりによって運営されているグループは、意外と「高尚な」ジャンルで多く発生しています。ダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、自分自身でその活動の価値を説明することができないので、他の人によってオーソライズされている分野に進みたがるわけです。反論や疑問を受けないで済むようにしたいわけ。 仕切ることそのものが目的なので、仕切るための理由は、大義名分が伴いやすい高尚でないとダメになる。 高尚なネタだったら、逆に言うと、「べき論」を使って問答無用で言い渡せば済むでしょ? その内容を相手にわかりやすく説明する必要もないでしょ? それこそ、学界とか、宗教界とか、芸術的分野とか、市民運動などの社会改革の分野とかに関わる分野が、仕切りたがりの人間の「お題」になったりするもの。 しかし、その「仕切りたがり」さんが元気で活動するせいで、結局は、四分五裂になってしまうんですね。 労働者の権利確立のための団体が運動方針をめぐって分裂とか、原水爆禁止の団体がケンカ別れとか、箸にも棒にもかからないような「自称」プロのオーケストラが日本で乱立とか、宗教界が教義をめぐって内輪モメとか・・・ 何も無理に仕切らなくても、対等の立場で合意を形成していけばいいだけですが、ダメダメ人間にはそれができない。ダメダメ人間は、説明能力が低いというだけでなく、説明そのものに対して、心理的な恐怖感を持っているもの。 説明をするのも恐怖だし、説明をされるのも恐怖なんですね。 そんな説明行為から解放される方法として、何かを恵むことによって、仕切ろうとしたりするもの。本来は、客観的な説明をして、相手から合意を取れば済むだけなのに、説明能力がないがゆえに、「モノ」で済ましてしまうわけ。 だから、この手の人は、実に「くれたがり」だったりする。 「これをあげるから、オレに従ってくれよ!」「以前にボクはアナタにあれをあげたじゃないか!だからボクの言うことを聞いてよ!」そんな物言いが頻発することになる。 モノのやり取りでまとまっている集団が、高尚なテーマで議論するなんて、ほとんどギャグですよ。しかし、現実にそんな集団はあるものでしょ? 高尚な目的を持つ団体でなかったら、そんな「くれたがり」の傾向はなおのこと顕著でしょ?それこそ地域の役員さんなんて、その役職に関わらず、「くれたがり」のことが多いもの。 しかし、自分たちの活動について、わかりやすく説明する能力は持っていない。 まあ、地域のオジチャン,オバチャンはもともとその程度でしょうから、しょうがない面もあるわけですが、高尚なテーマを持つ集団もそんなものなんですよ。 ジャンルとしては一応「高尚」なジャンルであっても、そこに発見されるのはダメダメ家庭出身者の「仕切りたがり」のメンタリティーだったりするわけです。 前にも書きましたが、マトモな集団においては、仕切ることは、集団の目標を達成するためだったり、議論を深めることを目的とするわけですが、ダメダメな集団においては、仕切るために、かりそめのテーマを掲げるという形であり、主従が逆転しているわけ。 そんな視点で見てみると、理解しやすいことも多いでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 前回はかなり長い内容でしたので、今回は短めにいたしました。 長い内容といいますと、以前の「不幸への憧れ」というお題が大変に長い文章でした。 先日、トルストイ原作の「アンナ・カレーニナ」をイギリスのBBCが製作したヴィデオを見ました。原作に忠実に映像化とのこと。そのせいで6時間の「長い」ヴィデオです。 トルストイが描く主人公のアンナ・カレーニナは、不幸への憧れを顕著に持っている人ですね。わざわざ自分には相性の悪い男性と結婚し、不倫に走ってしまい、出口を自分自身で閉じて行ってしまう・・・ 結婚相手を選ぶ際に、もっと慎重にすればいいのに・・・そもそも結婚相手がもっと自分と相性のいい人なら、こんなことにはならないはずなのに・・・ と、ヴィデオを見ながら思わずにはいられませんでした。 しかし、「そもそも何故に、こんな相性の悪い人と結婚したの?」ということでは、小説の主人公の女性アンナ・カレーニナよりも、原作者のレフ・トルストイの方が上。 この「アンナ・カレーニナ」とわりと似ているのが、フランスのフローベールの小説「ボヴァリー夫人」。フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ!」と言ったそうですが、トルストイなら「アンナ・カレーニナは私だ!」と言いたいところなんでしょうね。 と同時に21世紀の我々なら、この「アンナ・カレーニナ」の物語から、イギリスのダイアナ王妃を思い出すことは・・・実に自然。 それだけ、よくある話と言えるわけです。 |
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R.10/11/15 |