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カテゴリー ダメダメ家庭と学校
配信日 05年1月21日 (10年11月26日 記述を追加)
タイトル 教員への盲従を強いる
ダメダメ家庭は、子育てに対する当事者意識がない。むしろ、子供を育てることによる被害の方に視点が向かっている。
そんなダメダメ家庭の常識としては「子供を育てるのは学校の務め。」となっている。
このことは以前にも書いたことがあります。

だから、子供の学校での問題を、家庭に持ち込むことは許さないわけ。
「子供が学校で直面している問題は、子供が学校の場で解決するものだ!」
「そもそもオマエが学校でヘマをするから、こんなことになるんじゃないか!」
「一体、誰のために、オレがこんな苦労をしていると思っているんだ!」
「いったい、何のために学校があると思っているんだ?」

勿論、子供だって、学校でのトラブルなどを家庭に「持ち込もう」とする時もあったりするわけです。例えば、「学校でちょっとしたトラブルがあった。」とかの相談に類することを親に対して言う時もあるでしょう。
また「学校の先生はこのように言ったけど、ボクはそうは思わない。」と言い出す時もあるでしょう。
「先生と議論になっちゃったよ!」

そもそも、ダメダメ家庭の親は、往々にして学校のことをよく言わないものです。
楽しい学校生活の話をすることなんて、まるでないわけ。
実際に、いい思い出なんてないわけですからね。
学校での楽しい思い出を言わないどころか、「学校の教員は世間知らずのアホばかりだ!」と子供の前で教員をけなすだけ。
普段はそんな感じで学校なり教員をけなしていても、自分の子供から学校の問題を持ちかけられると、子供からの依頼をいともあっさり却下してしまうんですね。
言下に「オマエはとにかく先生の言うことを聞いていればいいんだ!」などと言い渡すわけです。

「オマエの考えなど取るに足らん。文句を言わずに先生の言うことを聞け!」
「余計なことは言わなくていい!」
と、取り付く島もない状態。

マトモ家庭なら、「どのようなシチュエーションでそのような発言があったのか?」
「オマエはどう思うのか?」「そもそも、どうしてオマエはそのように考えたのか?」
あるいは、「このような時には、他に考慮に入れないといけないことはこれこれ・・・」
「たぶん、その先生としては、この面を考えて、そのようなことを言ったんだろうな。」
とか、話をしたりするでしょう。つまり会話が始まるわけですね。
しかし、ダメダメ家庭では子供の発言など言下に否定するわけ。

「先生の言うことを、文句を言わずに、聞きなさい。」そのように親が自分の子供に指導することは形の上では立派な教育です。
何か問題あるの?勿論のこと合法的ですよね?それどころか文部科学省ご推薦でしょ?

教員の発言に盲従するように親から要求された子供は、親に対して自分の意見も、そして希望も言わなくなります。つまり手がかからなくなるわけです。
それに、黙って教員の言うことに従っている子供は、親にとってもラクであるばかりでなく、教員にとっても大変にラクな存在と言えるわけですね。つまり社会にとっても扱いやすい存在といえるわけです。だから周囲から受け入れられやすいわけ。まさに、「目立たないおとなしい子」という、お約束の人物評になるわけ。

「親は子供の意向にはまるで関心がない。」「親は自分の味方ではなく、教員の味方である。」そのように認識するようになった子供の側は、学校においては、ひたすら自分の希望なり意向を殺して教員に従属し、それ以降のトラブルはすべて自分自身で対応するしかありませんよね?それこそ、学校でのトラブルは家に持ち込めないし、学校内なり家庭内のトラブルは学校の教員に相談できない。
だって、教員に対し文句も言えずに従うことを要求されているわけだから、教員は子供にしてみれば、教育者というよりも、いわば支配者ですよ。支配者に対して困りごとの相談なんてできませんよ。ということで、何かちょっとしたトラブルがあっても、何も解決せず、積み重なっていくだけ。そうして、子供のストレスも積み重なっていく。

そもそも、従っていることと、敬意を持っていることはまったく別。
あるいは、従っているということと、信頼しているということは別問題。
というよりも、現実的には支配と信頼は相反するものでしょ?
つまり、そんな家庭の子供の周囲には、信頼できる人間がいない状態。
ダメダメな親は子供に対し、支配されることを強いているわけ。
その支配者が教員だったり、親だったりのヴァリエーションはあっても、支配・被支配の関係で家庭なり学校を捉えていることは変わりない。

支配・被支配の関係であれば、支配者の側となる親も学校も、子供に対する説明は必要とされない。文句を言わず、従うことが優先され、子供が納得することは度外視となる。
それは親にしてみればラクなことと言える。
だから、ダメダメな親は、そんな問答無用な雰囲気が「ふつう」となっている地域環境を求め、生徒と対話をし、合意を形成しながら物事を進めていく学校ではなく、問答無用の命令だけの学校を求めることになる。

そして、学校に対し、子育てを丸投げすることになる。
そんなダメダメ家庭における子育ての目標は、子供が被支配の立場を受け入れること。そして、面倒をかけられない存在になること。
当然のこととして、子供が自立した精神を持ってほしいなんて考えていない。
だって、親自身がそんな自立とは無縁なんだし、子供が要らぬ知恵をつけて、親に逆らうような事態は避けたいと思っている。

ダメダメ家庭の周辺においては、子供は命令に従うことを要求されるだけで、会話によって相互理解を積み重ね、合意を形成していくというやり取りは、家庭も、学校もできないわけ。
家庭も学校も、命令することしか能がないレヴェルであり、だからこそ、ダメダメな親はそんな学校や地域を求めるわけです。
そんな現実があるのに、子供の事件があったりすると、「保護者と学校が連携して・・・」なる美辞麗句があったりするものですが、そもそもその手の事件が起こるような地域は、保護者も地域も学校も腐っているんですね。
そんな腐った連中が連携したら、子供がますます追い詰められるだけでしょ?
たとえ、学校側が、保護者サイドに、子供に関する依頼をしても、ダメダメな親は、それを生返事で受けて、子供に命令するだけになってしまう。
だから、子供がますます追い詰められ、トラブルが大きくなり、ストレスもますます大きくなる。

教員への盲従ということは、結局は、目先の扱いやすさを選んで、後々に問題を先送りしているだけと言えるでしょ?
あるいは、子供が自分のトラブルを親に対して言わせないようにしているだけ。
問題を見ないようにしているだけ。

そもそも、子供が教員に問答無用で従っていれば、親は何も手がかからないでしょ?
もし、何かトラブルが発生しても、子供の管理者たる教員のせいになってしまう。

ダメダメ家庭では「今現在が問題なければそれでOK!」と、お気楽な発想。だからこそ、問題が大きくなるわけです。
そして、事件が起こった後で、
「どうして、ウチにこんなことが起こるのか?」「ウチはうまく行っていたのに・・・」などと、ますます被害者意識に・・・
そして、教員に盲従し、我慢に我慢を重ねていた子供の側は、事件の後では、「おとなしい目立たない子供だった。」と周囲からのいつもの人物評が登場し、「どうしてこんなことに?」と、疑問が呈せられる。
しかし、それは家庭も、学校も、地域も問題を認識しようとしていないからなんですね。「どうして」も何も、そもそも「見ようとしていない」し、「聞こうとしていない」んだから、こうなるのは当然でしょ?

「オマエはとにかく先生の言うことを聞いていればいいんだ!」という言葉は教員の能力を高く評価してのものではなく、教員以外のものを絶対的に否定した二重否定的なもの。現実的には、教員を肯定したものではなく、子供を否定するための言葉なんですね。
そもそも、その教員に対し、それなりの敬意を持っている親だったら、逆にそんな要求を子供には課さないでしょ?
前にも書いていますが、従うということと、敬意を持つということは、かなり違っていますよ。
しかし、ダメダメな親は、その違いを分からないし、ダメダメな学校もその違いが分からない。逆に言うと、家庭も学校も、「従う」ことと「敬意を持つ」ことの違いが分からないもの同士で連携しているわけ。
これで子供がマトモに育ったら奇跡というもの。

敬意も持てない相手に従うことを強要されているんだから、それだけ、子供の価値を親から認められていないわけ。

それだけではなく、学校においても、家庭においても、会話による相互理解が不全になっているわけ。相互理解が不全になっていれば、トラブルの要因を見過ごしてしまうのは当然でしょ?

「オマエはとにかく先生の言うことを聞いていればいいんだ!」という言葉は、そんな言葉を発する親のダメダメさを示す言葉であるとともに、そんな言葉を喜んで受け入れる学校のダメダメさも明確に示しているもの。
だって、盲従をありがたがるということは、説明能力も低いし、合意形成能力も低いということでしょ?
逆説的になりますが、ダメダメな教員だからこそ、生徒の親の側から、「文句を言わずに、従う」先として認定されるわけです。
そんな地域は、説明能力がなく、命令するしか能がない人間にとってはパラダイス。
そして、そのツケは子供に集約することになるわけです。

(終了)
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発信後記

青森県のお猿さんが増えすぎて薬殺されてしまうそうです。
その自治体には抗議の電話が殺到しているそう。

何でもそうですが、当事者意識を持っていれば、抗議の電話をかけて自己満足に浸っているマネはできないでしょうね。
お猿さんの薬殺は悲しいことではありますが、抗議するだけでは改善されないでしょ?

そのような抗議の電話をかけて喜んでいるような人って、当事者意識がなく、人の話を聞かない・・・ダメダメ家庭を作る典型的なダイプと言えます。
まあ、それだけダメダメ家庭というものが、ポピュラーな存在と言えるわけですが。
R.10/11/26