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カテゴリー 相談という場におけるダメダメ家庭
配信日 05年3月18日 (10年11月10日,11年2月4日 記述を追加)
タイトル 相談者の松竹梅
今週は、ダメダメ家庭の周辺で発生する、相談というシチュエーションについて考えてきました。
前々回、前回と、今まではダメダメ家庭の問題を相談する場において、「相談を持ちかける側」の問題点について書いてきました。

相談というスタイルをとっていても、結局はグチの延長であって、事態を解決する意欲も覚悟がないのに相談を持ちかけているケースも多い。相談を持ちかける側自身に当事者意識がなく、結局は、その人自身が諸問題の原因そのものの場合も多い。そんな人は、当事者意識がなく被害者意識だけがあるので、相談という形を使って自分の被害を強調することになる。
しかし、当然のこととして、「相談を持ちかけられる側」だって、色々と「至らない点」があったりするもの。
今回は、そのような相談を「受ける」側の問題について考えてみます。

ここでは、その相談を受ける側のレヴェルを松・竹・梅とランク分けしてみましょう。優・良・可という分け方よりも、味わいがありますからネ。今回はそのようなネーミングにします。

1. 論外レヴェル・・・まあ、「不可」ですね。
ダメダメ家庭の問題を相談するに当たって、難しいのは自分の相談を聞いてもらう相手を選択することです。やっぱり自分自身の問題について理解のある人でないと、有意義な回答は得られないでしょ?ちゃんとした人を選んで相談しないとね。しかし、実際にはそれ以前のレヴェルであることも多い。

そもそも「困りごと」を言わせないような環境なんですね。
そんな環境では、困っている当人が、困りごとを言えないので、その周囲には問題は見えなくなってしまう。「ウチには、全く問題がないわ!すばらしい理想家庭だわ!」
「この近辺には、うまく行っている家庭ばかり!なんていい地域なんだろう!」目の前で、そんな風に言われてしまったら、困りごとを相談できないでしょ?
相談者のレヴェルを云々する以前に、相談という場そのものが機能していない状態となっている。
まるで北朝鮮のように「全員が天国にいるように幸せ!」状態。
これではダメダメも進行していくだけですよ。

2. 梅レヴェル
たとえば、子供が自分の家庭の問題を相談する機会があるとしましょう。
形の上では相談という場が機能している。
しかし、実に多い事例が、この梅レヴェルです。

それは、相談を受ける側が、相談での困り事を実際に聞く前に、すでに回答が出来てしまっているケースです。
「子供を愛さない親はいないのだから、親とゆっくり話し合ったら?」
「人間はただ生きているというだけで、すばらしい存在なんだよ!」
あるいは、「子供には、親であるアナタが必要なんだから、親としてもっとガンバレ!」

真剣に困りごとを語っている人に対し、教科書的な回答しかできないわけです。
この手の梅レヴェルの人は、往々にしてヒマを持て余している。自分の善意を分けてあげようと、そのようなボランティアの場に参加する。
しかし、その手の人は、結局のところは、自分自身の問題なり、自分の目の前の問題が見えていないんですね。自分の目の前にある問題が見えないわけだから、時間が余ってしまうことになる。だから、別の人のサポートをすることを考える。結局は、上記の論外のレヴェルより、形だけはマシというだけ。相談を持ちかけてきている人の話も、音響的には聴いていても、話の中身は聞いていない。

相談を持ちかけている人の本音を聞くことができないので、結局は相手の話を教科書的に理解して、教科書的な回答をするだけ。一種の説教で終わってしまう。
しかし、それで満足したのは、相談を受けた側の善意だけで、相談してきた人の問題は何も解決していないわけです。
しかし、この手の人は、自分の善意に酔いしれ、「ああ!困った人を助けているワタシって、なんていい人なの?!」と勝手に歓喜するばかり。
逆に言うと、そんな満足感を味わうために、相談を受けてアゲているんですね。

3. 竹レヴェル
この竹レヴェルは、相談の内容を真剣に、誠実に聞く人です。
相談の言葉の内容も理解できている。
そうして、その人なりに真摯に考え、真摯に回答する。
相談という場において、相手の話を真剣に聞くというのは、基本中の基本ですよね?
竹レヴェルであれば、そのようなことはできているわけです。
そうして、この手の人は、人の話をちゃんと聞く習慣があるので、相応の教養もあり、態度としてもしっかりしている。やり取りとしては、ちゃんと成立しているわけです。
ほとんどの相談者が梅レヴェルなのに対し、竹レヴェルの相談者に遭遇できればラッキーと言えるでしょう。相談を持ちかけた人にしてみれば、少なくとも自分の話は真剣に聞いてもらえるわけですからね。

では、なぜそのような人が竹レヴェルとまりで、松レヴェルには至らないの?人の話を真剣に聞いてくれる人のどこが不十分なの?
と言うことで・・・

4. 松レヴェル
上記の竹レヴェルの人は、相談を持ちかける人の話を真剣に聞く。
それは当然のこと。
しかし、話を真剣に聞いて、マジメに考えることができるのですが、洞察力に問題があるわけです。まあ、善意や教養はあるかもしれないけど、それ以上のものは持っていない。別の言い方をすると、相談の言葉は理解できているけど、相談者周辺の情景までは再構築できていない。
竹レヴェルの真剣さに洞察力が加わってくると、この松レヴェルになってくる。

ダメダメ家庭の問題を聞き取るに際し、非常な困難があります。
ダメダメ家庭の問題に関する相談において、現在のトラブルを引き起こしている最大の問題点は、決して「語られない」。
話を聞いて、聞いた言葉そのものからは、問題の本質は理解されないわけです。
多くの「語られている」言葉の羅列から、「語られていない」言葉を「見出す」作業が必要なんですね。

たとえば、児童買春の問題を考えてみましょう。
「売っちゃった」子供の問題と、「買っちゃった」男性の問題が言われますが、自分の子供をそのような状況にしてしまっている、子供の親が最大の問題点でしょ?
しかし、そのような「親の問題」は子供の方からも、語られない。
同じようなことは、夫婦間のドメスティック・ヴァイオレンスの問題でも同じです。そんな暴力男との結婚をなぜに許してしまったの?本来はその点を考えることが重要でしょ?
しかし、往々にして「被害者」と称される人は、そのような自分の親の問題には触れようとしない。

だって、ダメダメ家庭では親は常に被害者意識を持っている。
親は「自分は、子供を育てる手間を背負わされた被害者」だと思っている。
「いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ!」と、自分の子供に言い続ける。
そんな環境で育っているので、子供も「これ以上親には迷惑を掛けられない。」と思ってしまう。おまけに、そんな環境に順応してしまうので、自分の希望を抑圧するようになり、また、現実を認識することからも逃避することになる。だから、ダメダメ家庭の人間が話す困りごとには、一番大きな原因の話が抜けてしまう。
むしろ、一番大きな原因の周辺の問題について、「ああでもない、こうでもない。」と、色々と言うことになる。

だから相談を受ける側は、相談を持ちかける側の話を真剣に聞いて、「語られない」言葉を聞き取る必要があるわけです。
たとえば離婚の問題でも、その実家の問題は往々にして語られない。
しかし、そんな結婚を許してしまった実家にも大きな原因はあるわけでしょ?
現実的には、実家がダメダメであればあるほど、そのダメダメな実家については語られなくなってしまう。
大元の問題であるがゆえに、アンタッチャブルになってしまっている。
その相談の時点で、大きくなってしまっている問題も、それまで自分が見たくないと避けていた部分が段々と大きくなってしまって、自分自身の身動きが取れなくなってしまって、発生してしまったもの。だから、相談を受ける側としては、断片的に語られる現状から、それまでの過程を再構築する必要がある。

ダメダメ家庭の相談では、相手が語る話を真剣に聞いて、「語られていない」ものを洞察する必要がある。そして、その「語られないもの」「本人が見たくないもの」を、本人に見せてあげる必要があるわけです。
本人が「見たくない」と無意識的に思っていることこそ、今発生しているトラブルの根幹なんですね。しかし、その根幹部分は決して「語られない」。しかし、相談を持ちかけている人が「絶対に見ようとしない」「絶対に語ろうとしない」ことこそ、本当の問題点と言える。
まあ、本人が「見たくない」と思って避けていた部分なので、相談を持ちかけた本人も認めるのに抵抗する。現実的には、逆上することも多い。
しかし、そこを認めない限り、事態の改善なんてありえません。

相談をされる側も、単に「竹レヴェル」だと、グチの聞き役で終わってしまう。というか、なまじっか話をしっかり聞いてくれるので、グチを語りたい人には都合がいい。しかし、事態の改善のためには、本当の問題点をちゃんと示してあげることが必要でしょ?

と言っても、この「松レヴェル」の人なんて・・・日本に何人いるのかなぁ・・・
それに、まあ、この「松レヴェル」だと、色々と厄介な面もあったりする。
それこそ、一を聞いたら、十を分かっちゃうようなところもあるから、まあ、そんな人はキャラクター的にクセがあったりするもの。

それこそ、映画「マイ・フェア・レイディ」のヒギンズ教授くらいのレヴェルのクセならともかく、映画「羊たちの沈黙」のレクター教授くらいのクセなら、命に関わるくらいのクセがある。
人と違ったレヴェルまで洞察できる人に対して、一般人と同じ行動基準を求めても無理がある。しかし、トラブルの解決のためには、一般人とは違ったレヴェルの洞察力を持つ人の知恵を借りるのが、有効でしょ?
まあ、上手に距離を取りながら、そんなトンデモな人の洞察力を利用すればいいだけですよ。

逆に、一般の人から「あの人はいい人だ。」と言われるような人からは、たいした知見は出てこないものなんですね。「当り前のことを、当たり前に言われる。」だけになってしまう。まさに「人生相談のマニュアルどおり」に対応してくれる。そして、その回答もマニュアルどおり。
世に言う倫理的な、そして正義感の強い「いい人さん」は、往々にしてそんなものでしょ?
まさに、今回の文章で記載した「竹レヴェル」の人と言えるでしょう。
そんな「竹レヴェル」の人は、普段のやり取りにおいては、「いい人」といえるわけですが、トラブルを解決するためには、別の視点を持っている人の見解を取り入れた方がいいわけです。
実際に、竹レヴェルの人は、「あの○○さんからの相談を受けた。」「△△さんの相談も受けた。」と相談を受けた実績を語ることはできても、その相談によって事態が解決した実績は語れないものなんですね。

今後、誰かに相談されるような機会がある方は、今回のこの文章を、相談しようと思っている方に読ませてあげると参考になると思います。
読んだ人もどんな顔をするかな?
まあ、相談窓口の多くの人は「梅レヴェル」でしょうから、そもそも皮肉も通じない程度の知能といえるでしょう。
そんな人と相談を続けても何も解決しませんよ。
さっさとサヨナラするのが、セオリーというもの。
梅レヴェルの人に期待しても何も改善しませんし、梅レヴェルの人は、自分なりに相談対応能力を向上させようとも考えない。

これが、竹レヴェルの人なら、「どうして自分はこの問題を解決できないんだろう?」と自分なりに疑問を持つこともある。それなりに向上心を持っていることもある。
事態を解決できない自分の無能を責め、苦悩することもある。
しかし、そんな苦悩は、まさにその人が一般人であることの証明のようなもの。

それこそ、松レヴェルの相談者は別の苦悩を持ったりするものです。
「どうして、この人の問題は解決できるのに、自分自身の問題は解決できないんだろう?」という苦悩になってしまう。
それこそ、別のところで取り上げましたアナトール・フランスの小説の修道士パフニュスは、人からの相談は、神からの力によって、解決していきますが、自分はタイースの色香に落ちていってしまう。あるいは、トルストイの「セルゲイ神父」という作品では、主人公のセルゲイ神父は、困っている人の問題を次々と解決しても、自分自身を救うことができない。
ちなみに、その「タイース」と「セルゲイ神父」は、同じ1890年の出版です。
フランスの作品とロシアの作品ということで、距離的には離れた場所で成立した両作品といえますが、内容的にもよく似ていますしので、ご興味がありましたら、比較しながら読んでみては?
まあ、天才によくある苦悩が描かれていると言えるでしょう。
天才であれば、その苦悩にも共感できるでしょう。

ちなみに、人は助けることはできても、自分を救うことができないとなると、イエス・キリストがその代表です。そんな言葉でバカにされていたでしょ?
そんな苦悩を抱えている人に相談すれば、事態を解決するための、いい方策も見えてくるでしょう。ただ、相談を受けた側は、ますます苦悩しちゃうんですが。

(終了)
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発信後記

今週は相談3部作でした。
先日、時事問題的にソニーの問題について考えてみましたが、そのうち、ちょっとワイドショー的な事案について考えてみたいと思っています。
R.11/2/4