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カテゴリー 判断と選択
配信日 05年5月16日 (10年5月10日,10年9月23日 に記述追加)
タイトル 勝ち負けだけで判断する
ダメダメ家庭は会話ができない。
相手に対して、自分の考えをわかりやすく伝える能力がない。というか、そもそも自分の考えそのものがないんだから、相手に分かりやすくも何もない。
伝える能力がないだけでなく、聞き取る能力というか意欲もない。
人の話を真摯に聞くことができないわけ。
会話ができれば、様々な人から様々な考え方を聞くことができますが、人の話を聞けなければ、多様な考え方なんて、得ることはできないでしょ?

だから会話ができないダメダメ家庭の人間は、判断に当たって単純明快なものしか受け入れないわけです。
往々にしてその判断基準は、「勝ったか?負けたか?」となるわけです。

だから、やり取りにおいても、「参加している人たちが、リラックスして楽しめることが重要。」とか、「今までとは別の世界を知ることができてヨカッタ。」とか、そんな風には考えないわけ。
とにもかくにも、『勝ったか?負けたか?』と、単純なものなんですね。

確かにスポーツの世界などでは、「勝ち」を目指してがんばることが重要でしょう。
「参加することに意義がある。」って美辞麗句もありますが、やっぱり基本的には勝ちを目指すもの。勝ちを目指すための試行錯誤なり切磋琢磨が、当人にとっても意味があったりするものでしょ?だから、負けは負けでも明日につながる負けというものもありますよね?
明日につながる負けにするには、グッドルーザーになる必要があるでしょ?
自分の負けを認めて、至らない点を反省し、次につなげればいいだけ。

勝つために一生懸命になれば、結果として負けても、それなりのものは得られる。
しかし、最初から参加することに意義があるという発想だと、何も得られない・・・そんなもの。
まず最初の段階は、勝つために精一杯努力しないとね。

ダメダメ人間は「勝ち」にこだわりますが、上手な負けはできないわけ。だから、明日につながらない。そのような明日につながらない負けしか知らないから、よけいに偏執的に目の前の「勝ちにこだわる」わけ。
スポーツの世界でイカサマをしても勝とうとしたり、負けた後で負けを認めず文句タラタラだったり。
周囲から「アイツ・・・見苦しいヤツ!」と思われても知らん顔。

このようなことって、それこそインターネットの掲示板などでもよく見られるでしょ?
議論が白熱しているのかも知れませんが、やたら汚らしい言葉で罵倒の限り。
本人は「アイツに勝ちたい!」と思っているのかもしれませんが、そんなやり取りを見ている方は呆れるだけですよね?

そんな汚らしい言葉でのやり取りって、結局は、双方が敗者でしょ?
しかし、会話ができずに、多様な考えを受け入れることができないダメダメ家庭の人間にしてみれば、「勝つためには手段を選ばない」発想で、結局は敗者になってしまうわけ。

スポーツでも議論でも、最終的に自分自身が豊かになればいいじゃないの?
すべてのやり取りを「勝ち負け」で判断するような人は、結局は豊かになることができず、すべてにおいて敗者になってしまうんですね。

しかし、ダメダメ家庭では、会話ができないばかりではなく、自分自身で考えるようなこともしないわけ。
「自分自身ではどのようにしたいのか?」
「どんなことを達成したいのか?」
そんなことを考えるのは自分自身でしかないでしょ?自分自身の希望を考えない人間は、とりあえずの希望として「アイツに勝とう!」と考えるわけ。
そして、その勝利のために偏執的に行動することになる。

実際に、この手の「アイツに勝ちたい!」などと偏執的に言ったりする人は、「自分の幸福は○○だ!」「ワタシは□□を達成したいと考えている。」などと、簡潔明瞭な形で説明することはありませんよね?
むしろ、「悪いのは全部△△のせいだ!」と、被害者意識を主張するだけでしょ?
まあ、そのようなことは韓国の人たちが代表例ですよね?

その手の人は、議論のような場においても、結果として勝ち負けが出るものにしたがる。ディヴェートのようなものにしてしまい、結果として相互理解につながらない。
そして、そんな人がするのは、「あら探し」。
やり取りの相手の欠点を見つけて、それを指摘して大喜び。
自分が勝つというよりも、相手を負けさせようとするわけ。

しかし、そんなことばかりしているから、相手にされなくなってしまう。
そして、久しぶりに議論の機会があると、「相手に勝つことによって、自分の価値を認めさせよう!」「ここで汚名挽回だ!」と、ますます気合が入ってしまう。
気合が入っても、やることと言えば、やっぱり「あら探し」。
そうやって、相互理解からは、ますます遠くなってしまう。
そんな人は、相手の希望なり考えを聞こうとしないだけでなく、自分の希望について考え、説明することからも逃避してしまう。相手の話を聞かない以上に、自分の心の声を聞かないわけ。

自分自身の希望を語れない人だからこそ、「勝ち」にこだわってしまうわけ。
そんな人が言う勝利って、本人の幸福にはつながらないでしょ?

本人がそんな喜びに浸っているのも勝手ですが、そんな人と一緒にいる人にしてみればたまったものではない。
だって、どんなやり取りをしても「勝ったか?負けたか?」しか関心がないわけですからね。
そのバトルに勝とうとして、相手を見ているのかもしれませんが、その分だけ、自分自身から逃げてしまっているわけ。というよりも、自分の問題から逃避するために、やり取りの相手を必死で凝視することになる。

議論の方向性が相互理解ではなく、常に勝ち負けとなっている。
自分で自分を理解していないんだから、相互理解なんて、そもそもが無理ですよ。
だから、相手との関係性に依存する、勝ち負けという結果だけしかないわけ。
そして、そんな人は、結局は、自分が「勝てる」ことがわかっているような相手を探し、チョッカイをかけ、形の上では勝利をおさめ、一人で大喜びすることになる。
そんな喜びの中で、自分の目標自体がない状態は手つかずのまま。
いわば、勝ち負けを目的化することで、自己逃避するわけ。

勝ち負けに異常にこだわるがゆえに、昨今の経済的な問題といえる「勝ち組」と「負け組」の問題には異常に関心を示す。
そんな言葉が出てきたら、実に食いつきがいい。
しかし、会話不全の人間が、経済的な「勝ち組」であるわけがなく・・・
その手の人は、「現在の『二極化』の問題は政府がしっかり対処すべきだ!」
と、主張することになる。
つまり、「悪いのは全部政府のせいだ!」と言外に言いたいわけ。

「勝ち組」と「負け組」の分類はそれでいいわけですが、じゃあ、「当人自身としてはどうしたいのか?」という問題もあるでしょ?
たとえ、今のところは、勝ち組階層に属していても、そのために自分を偽っている状態だったら、そのうちには無理がきますよ。
結局は、自分としてどうしたいの?

その点を自覚して、自分自身の希望の達成のために、自分なりに努力するのが一番合理的でしょ?
それがたとえ、結果的に「負け組」に属することになっても、当人が達成したものに対して、本人が心から納得していれば、それにまさる成果はないんじゃないの?
自分について判断し、評価するのは、まずもって自分自身ですよ。

勝ち負けという二極化の問題への一番適切な対処は、人それぞれの価値観を自覚し、尊重し合う、いわば多極化に向かうのが、一番適切なのでは?
「二極化を根絶」なんて言っているうちは、逆に言うと、人それぞれの価値観が尊重されていないわけでしょ?
みんなが「ふつう」ということを掲げ、自分で考えずに、周囲に合わせてばかりだからこそ、人々が自分を見失って二極化になってしまうとも言えるのでは?

「勝ち負け」のようなものが出てくると、異常に食いつきがいいのが、この手の人たち。
このようなことは、何も「勝ち組」「負け組」という経済的な分野に限らずあったりするでしょ?

なんでも、世の中には「B層」なる言葉があるそうです。
以前の小泉首相の郵政問題に関して、広告代理店が使った用語なんだそう。
基本的な意味としては、自分では考えずに、雰囲気に流されるレベルの人たち・・・くらいなんでしょうか?

ということで、インターネットの掲示板で、「オマエはB層だ!」とかの言葉で相手を罵倒しているのを見たことがあります。
まあ、本当に知的なレベルが高い人は「オレ様はA層だ!」「オマエはB層だ!」などと、阿呆を相手に、それもインターネットの掲示板で言ったりはしませんよ。
まあ、「知的な面で自分は勝利者なんだ!」と言いたいんでしょうが、そんなに知性があると自認しているのなら、そのご立派な知性を使って、ちゃんとした文章でも書けばいいだけ。

当人が誰かに対して、本当に伝えたいことが、「オレは賢いんだ!」なんてことは、本当に賢い人の行動ではないでしょ?
その知性を踏まえた考察で成果を上げていくことが、本当の知性というもの。
相手に勝ったとか、負けたという問題ではないわけ。
それも、阿呆というか、それこそB層さんを相手にね。

しかし、「じゃあ、自分が本当に伝えたいこと、残しておきたいことは何だろうか?」
そのことについて考えることは、抑圧的な人間にはできないこと。
知性の欠如というよりも、心理的な抑圧の問題になるわけ。
自分が本当にしたいことがないがゆえに、目先の勝ち負けにこだわることになる。
勝つと言う目標を掲げ行動することによって、相手の話を聞こうとしない、それ以上に、自分自身の声を聞こうとしない・・・
そんな人がマトモな家庭を作れるわけがないでしょ?

(終了)
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発信後記

何でも、若い女性を強制的にメイドにしていた男が逮捕されたそうですが・・・
まあ、その男がダメダメ家庭出身であることは明白でしょう。
そうなんですが、日本の男性は、たとえマトモな人間でも、ある種のメイドさん願望がある人が多いようです。それこそアニメの世界ではメイドものなるジャンルがあるようです。
かわいいメイドさんが突然に現れて、「ご主人様、精一杯ご奉仕させていただきます!」なんて言葉が出てくるヤツ。
以前、調べてみたことがありますが、実に多い。

ただあの手のメイドものには約束ごとがあるようで、メイドさんは人間ではないことが通例のようです。ロボットだったり、アンドロイドだったり、精霊だったり、宇宙人だったり、動物の生まれ変わりだったり・・・さすがに人間をメイドさんにするのは倫理的に問題だと思っているんでしょうね。

メイドものの古典となると、有名な「鶴の恩返し」となります。あの作品はキャラ設定なと、今のメイドものの要素をすべてを含んでいる完璧な作品です。あとメイドものの変種となると「ドラえもん」も、一種のメイドものでしょ?
日本の男性は、そんな作品が好きなんでしょうね。
どこの国にも、それぞれに、好きなジャンルがあったり、逆に受け付けないジャンルがあるようです。

今は5月ですが、5月にちなんでか「さつき」と「メイ」なんて名前の女の子が活躍するのが「となりのトトロ」。
あの手の魑魅魍魎というか、「もののけ」は、多くの日本人は受け付けることが可能ですが、受け付けない地域があります。ヨーロッパですと、ドイツあたりから東だったら、その手の「もののけ」の存在も受け付けることができる。
ただフランスではその手の「漠」としたものは、受け付けないんですね。

宮崎監督のアニメがベルリンの映画祭で賞を取りましたが、ベルリンだから賞を取れたという面もあるわけ。フランス人には、わからない世界なんですね。
フランスの怪談って、あまり聞かないでしょ?

フランス人の恐怖って、あの手の漠としたものではなく、もっと明晰で現実的なものに由来するようです。それこそ継子いじめをする母親とかね。
あの手のサディスティックな人間こそ、フランス人の恐怖の源泉のような気がします。
そもそもサディズムのご本尊のサド侯爵だって、フランス人。

現実的で、明晰な方法で、相手の「痛み」を執拗にえぐっていく・・・このようなサディスティックな面が、フランス人のある種の本質じゃないのかな?
言っておきますが、私はこれでも日本人ですヨ。
R.10/9/23