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カテゴリー | 事件の前 |
配信日 | 05年5月23日 (10年6月25日 記述を追加) |
タイトル | ボタンの掛け違い |
以前に、このメールマガジンにおいて、プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」を取り上げました。 作曲者のプッチーニは、超一流のオペラ作曲者ですよね? では、優秀なオペラ作曲者と、二流のオペラ作曲者の違いって、どんな点なんでしょうか? 豊かなメロディーを生み出す能力? 伴奏のオーケストラの扱い? 勿論、そのようなこともあるでしょう。しかし、違っているんですよ。 優秀なオペラ作曲者というものは、すばらしいオペラの台本を作ることができる人であると言えるわけ。 オペラの制作においては、作曲者が台本を書くケースもあったりしますが、ほとんどは台本作者に書いてもらいます。自分のためにおもしろい台本を作ってもらうことができる作曲者が、優秀なオペラ作家なんですね。 だって、おもしろい台本であれば、音楽がついていなくても、楽しめる。 つまらない台本だと、いくらいい音楽をつけても、やっぱりつまらないわけ。それにつまらない台本だと、作曲者もイマジネーションが膨らまないでしょ? 細やかな感情表現を音楽で表現できる能力があったとしても、台本としてそれが要求されていないのなら、宝の持ち腐れになってしまうだけ。 いいオペラ作曲者というものは、いいネタを見つけてきて、優秀な台本作家を探し出し、その台本にしつこくダメ出しをして、やっと自分の満足する台本を得るもの。 あとは、効果的に音楽を付ければいいだけです。 それこそモーツァルトだって、台本にはうるさい人でした。プッチーニだって台本作家と大喧嘩しながら、台本を作っていったわけ。 プッチーニの「トゥーランドット」というオペラでも、プッチーニは「この作品をオレの集大成とするんだ!」と気合を入れていたので、台本作家にいつも以上のダメ出しをして、やっと会心の台本ができた頃には、プッチーニの癌が悪化して、結局は、オペラ作曲の途中でお亡くなりになってしまいました。 笑うに笑えない話ですよね? 「ほどほどの台本で満足して、後は音楽でがんばればいいじゃないの?」 そのように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「いいもの」を作ろうとしたらやっぱり素材から吟味することが必要であるわけ。 いい台本を作ってもらって、後は効果的に音楽をつけるだけ。そんなスタイルで作曲をするオペラ作曲家が一流の作曲者というわけ。台本を「て・き・と・う」 なものであっても、「オレがこの作曲のウデで、見事なオペラにしてみせるから大丈夫さ!」などと言ったりするような作曲者は、所詮は二流なんですね。 そのようなことは、オペラの分野だけでなく、もっと身近な分野と言える料理だって同じでしょ? いい料理を作ろうとしたら、素材の吟味が重要ですよね? ダメダメな素材を何とかしようとして、調味料をバンバン入れたとしても、ますますドツボにハマルだけ。 結果よければすべてよし。 なんですが、いい結果を得るためには、まずは「最初が肝心」なんですね。 ダメダメな人は往々にして、この最初の段階が、いい加減。 それこそ株の世界でもそう。 「持っている株をいかに高く売ろうか?」と一生懸命考えますが、最初に「いくらになったらこの株を買うのか?」という点については、いい加減だったりするわけ。 まあ、一般の人はオペラを作曲するわけではありませんし、株だってやらなければいいだけ。料理の失敗なら笑って済むこと。 しかし、このような「最初がいい加減」で、後になって大騒ぎ! と言ったスタイルだと、後で騒いだって、結局はうまくいかないんですね。 ボタンの掛け違いをしてしまった場合は、面倒でも最初のボタンを掛け直すしかないでしょ? しかし、物事をいい加減に始めて、後になって大騒ぎをしていると、周囲には「まあ、お気の毒な!」という声が沸き起こったりするもの。そうして、グチの共鳴になって、双方が満足することになる。 以前にも書きましたが、「オレが就職した業界は、こんなに非常識だった!」と言った内容のメールマガジンがありました。まあ、その業界は実際に非常識だったんでしょうが、しかし、じゃあ、そんな業界に、わざわざ就職しなければよかったのに・・・どうして、そんな業界に飛び込んでしまったのか? その点が、まずは最初に考えなければならないことでしょ? また、同じような流れは、結婚において、典型的に発生したりするものです。 いい加減に結婚した後で、結局は上手くいかず、 「どうしたら、離婚せずにやっていけるのかしら?」 「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」 と、ウダウダ考えたりするわけ。 結局は、自分自身の被害者意識を膨らませるだけなんですね。 ダメダメな人は、「離婚しないための方法」については考えても、「ワタシはどうして、こんな人と結婚なんかしたんだろう?」とは考えたりはしないもの。 だって、そのような最初の自分の判断ミスから考えたりすると、自分自身の被害者意識が崩れてしまうからです。 結局は、最初のボタンの掛け違いを放置したまま「あーでもない!こーでもない!」とブチブチ文句を言うだけ。 しかし、そんなグチで物事が解決したことなんてありませんよね? ただ、ヘタをすると、ボタンの掛け違いを2度やることによって、結果的にうまくいくケースはあったりします。 以前にも書きましたが、「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし。」そのもの。 しかし、2度の失敗によって、結果的にうまくいくことは、本当にたまたまでしょ?不思議そのものですよ。 そんなたまたまの成功を、またやろうとしてもムリですよ。 結局は、お約束のトラブルに。 そして、やっぱり嘆き節。 まあ、本人はそれで勝手でしょう。だって、自分が大好きなグチが言えるわけですからね。 しかし、そんな「いい加減」な人が親になってしまう。だって、親になること自体も、覚悟もなく、いい加減なんですからね。何も考えずに、「て・き・と・う」に親になってしまうわけ。 しかし、子供ができてから、やっぱりグチるわけです。 「あ〜あ、大変!」 「子育てで、自分の人生を棒に振ってしまった!」 「どうして、子供が好きでもないワタシが子供を作ってしまったんだろう?」 「どんなつもりで、子供を作ってしまったんだろう?」 と、最初の段階に戻って考えたりはしない。ひたすら自分の被害者意識の中にいるだけ。 結局は、そうやって、子供にグチるわけです。 ボタンの掛け違いは、面倒でも最初に戻るしかないわけ。就職先が自分に合わない場合は、会社や業界を恨むよりも、最初の自分の選択ミスについて考えた方がマトモでしょ?そこから自分自身・・・そして自分の両親についての理解も得られるわけです。 つまり、最初のボタン掛けについて、その選択の土壌について、もっと考えることになるわけ。 その時点で自分自身を見つめ直さないと、「て・き・と・う」に結婚して、「て・き・と・う」に子供を作って、子供にグチグチ言うだけのダメ親になることは必至なんですね。「て・き・と・う」に作った子供の前で、親は自分の被害者意識に浸りきっているだけ。そんな親の前で子供としてはどうすればいいの?そんな家庭がどうなるのかなんて言うまでもないことでしょ? ボタンの掛け違いは、放置しておくとますます広がってしまうもの。 面倒でも最初に戻るしかないわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 ちなみに、本文中で書いていますプッチーニのオペラの「トゥーランドット」の一部がテレビCMでよく流れています。「誰も寝てはならぬ」というアリア。 皆さんもメロディーを聞くと、「ああ、あの曲ね!」と思い出す方も多いでしょう。 さっきも水虫治療薬のCM!!で使われていました。ちょっと前には映画のCMで使われていました。そのCMで「死んではダメだ!」とかのセリフを言っていましたので、「寝てはならぬ」と「死ぬな!」と掛けているんでしょうね。 この「トゥーランドット」というオペラも、台本だけでも十分に面白い作品です。オペラのヴィデオだと図書館においてあったりしますから、借りてご覧になると楽しめると思いますよ。ただし、最後の部分はプッチーニが死んでしまったので、他人が追加補筆しています。 まあ、このケースも典型的な「セ・ラ・ヴィ」といえますね。 |
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R.10/7/27 |