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カテゴリー | 会話のスタイル(聞き手側) |
配信日 | 05年9月12日 (11年2月9日 記述を追加) |
タイトル | 完全降伏 (全面降伏) |
ダメダメ家庭の人間は自分で考えることをしない。権威筋から与えられた「ご高説」をオウム返しにしているだけ。自分で考える意欲もないから、人の話を聞く必要もない。 このような人間は往々にして説教臭かったりするもの。権威筋による現実無視の「ご高説」を、周囲の人間に対しやたら説教する。 と言っても説教された側だって、そんなお説教を、いつもおとなしく聞いているばかりとは限らない。 的確無比の反論をしたりするケースだって、やっぱりあるわけです。 説教大好き人間は、そんな的確無比の反論をされると、対応できない。だって、そんな人はその説教の内容だって自分自身で考えたものではない。自分の言っている言葉の意味だって、自分自身で説明できない。普段から正論を誰かに説教するだけで、相手に分かりやすい形で説明しているわけではないので、説明能力もない。結局は、自分が受けた反論に対する再反論が何もできない。 問答無用に正論を語ることは、「ワタシって、こんなにいい子なのよ!」という主張になっていて、相手のことを考えているわけではないんですね。あるいは、一種のあら探しともいえる。一般論的な正論を語ることで、相手の「あら」を浮かび上がらせようとしているわけです。 この手の人は、問答無用で「べき論」を語り、「本来はこうすべきなのに、あの○○ときたら、まったくなっていないんだから・・・」という形で誰かを非難する。そうして、「あの○○のせいで、ワタシはうまくいかない!」と被害者意識に浸ることになる。 権威筋認定の正論というのは、別の言い方をすると、減点面への過剰な反応となっている。 自分の減点面を指摘されたくないし、相手の減点については必死に指摘しているわけです。 おまけに、権威筋認定のご高説を言っていれば、自分では考える必要がないでしょ? つまり、自分自身から逃避することができるわけです。 減点法の精神が基本となっていて、自分の減点を見つけられないようにして、相手の減点を指摘するというやり取りばかりだから、相手から的確な反論を受けてしまうと、どうしても、ダメダメな対応となってしまう。代表的なケースは逆上するパターンです。顔を真っ赤にして、目を吊り上げ、大声を上げることになる。まあ、韓国人などがおなじみですよね? あるいはインターネット上でのやり取りですと、このメールマガジンで何回も書いていますが、逆上メールを送りつけてきたりする。 逆上という状態に入ってしまうと、「自分で考える」ことから逃げることができるでしょ?自分自身についての「耳の痛い」指摘については、もう考えなくてもよくなる。だって逆上しているんだから、こうなってしまうと考える能力すら喪失してしまっているわけでしょ? しかし、そんな感じで、すぐに逆上するような人間が子供を育てたって、子供がマトモに育つわけがありませんよね? 今回、このメールマガジンで触れるのは、逆上とは別のケースです。 完敗を認める方法です。 人に対して説教したら、ものの見事に反論されてしまった。挙句には自分自身の問題を、返り討ちのように指摘されてしまった。 こんな時には、いっそのこと、完敗を認め、完全に白旗を上げてしまうわけです。 以前に配信した文章の中に書きましたが、この手の完敗の決めセリフは、 「アナタの話を素直に聞くことができた!」と言うもの。 この言葉に実際に接しられた方もいらっしゃるでしょ? 「そんな感じで『素直に』完敗を認めたのだったらいいじゃないの?」 「自分の問題を認め、改善へのワンステップを歩み出したと言えるのでは?」 そう思われる方もいらっしゃるでしょう? しかし、違うんですね。 完敗を認めてしまったら、もうその反論に対しての再反論はする必要はないでしょ? 「素直に聞くことができた。」ということは、その意味として、「ははぁ〜、参りました!おっしゃるとおりです!!」と言っているわけですからね。 これ以上は、自分で考える必要はなくなることになる 「相手から納得できない反論を食らったから、その反論に対して再反論したい!」 そう思ったら、相手からの反論の内容を吟味して、自分自身の考えをさらに緻密にまとめる必要があるでしょ?つまり、相手の話を聞き、理解し、自分で考えるという作業が必要になってきます。そして、自分なりの考えを、相手に分かりやすく伝える必要があるでしょ? つまり会話の作業が発生することになる。 しかし、ダメダメな人間は自分で考えることもしないし、説明能力も会話の能力もない。 気に入らない考えに対し、逆上する形での「逃避」もありますが、気に入らない考えを全面的に「肯定」する形での「逃避」もあるわけです。 全面的な肯定であっても、結局は、相手からの指摘を吟味することから逃避できてしまう。 当然のことながら、完敗を認める形での「逃避」の方がはるかに厄介と言えます。だって、そのような場合は、完敗を認めている当人自身としては、形の上では自分の完敗を認めているがゆえに、「本音では、その意見を自分が受け入れているわけではない。」ことが自覚できなくなっている。 それに、目の前で完敗を認められてしまったら、「切り返した」側も、それ以上は何も言えないでしょ? 「アナタの話を素直に聞くことができた。」と言われてしまったら、釈然としない気持ちで『あっ、そう?ふーん・・・』でオシマイとなってしまいますよ。相手から完敗を認められてしまったら、追加して言う言葉もありませんよね? と言うことで、それ以上のやり取りには絶対に発展しなくなる。 だから、その説教好きのダメダメ人間は、その時に完敗を認めたはずの説教を、今度は別の人に繰り返すことになる。 いったい何を「素直に聞く」ことができたのやら? そんな人って、皆様の周囲にも結構いたりするでしょ? 相手に対して、完敗を認めるって、いわば捨てゼリフなんですね。 「ああっ!もうっ!ワカッタ!分かったからもう言うな!」 そんな言葉と同じでしょ?言われた方だって不快ですよね? 会話が全然ありませんし、自分の意見も全くありませんよね?そもそもスグに完敗を認めるような主張など最初からしてはダメですよね? せめて、「ワタシとしては、このような認識のもとで、このように考えて、先ほどの考えをアナタに語った。」とでも追加説明するのがスジというものでは? しかし、その手の人が語る正論が、相手に対する思いやりを元にしているのではなく、「ワタシって、いい子でしょ?」という主張だったり、「あの○○のせいで、うまくいかないんだ!」という犯人認定の主張とみると、以前に完敗を認めた正論を、別のところで再び持ち出してくることも理解できるようになる。 結局は、相手ではなく、自分だけを見ているわけです。そして、自分では考えたくないわけです。 やり取りおいてに、スグに白旗をあげるような人間って、スグに逆上する人間と心理的には同じになっている。だから、完敗を認めたところに、さらに突っ込みをかけると、結局は逆上してしまう。 「もう、しつこいわね!アンタが言っていることは全部正しいって、もう認めているじゃないの!もう何も言わないでよ!」と、怒り出す。 「その人自身が、その正論がなぜに正しいと思っていたのか?」 あるいは、「相手から切り返され、全面降伏した相手側の考えの、どの点が、適切だと考え、全面降伏したのか?」そのような点について、何も説明できない。とにもかくにも、自分で考えることが怖いんですね。 そんな人は、周囲の人間、なかんずく子供にとっては、とんでもなく厄介な人間といえるわけです。 ちなみに、このメールマガジンは、できるだけ読者さんに違和感を持っていただきたいと思っています。読者さんが全面的に肯定するのではなく、「うーん・・・ちょっと違うような・・・しかし、何となく説得力もあるし・・・」そんな感じで受け取っていただけたらなぁ・・・と思っています。 逆上も、白旗も、会話や思考につながらない、だから、次のアクションにつながらない。 違和感も持つことによって、今まで当たり前だったことも、自分自身で考えたり、自分の目で改めで見直すことができるでしょ? しかし、違和感を持ち続けるのは心理的に負担になってしまう。 だから、考えることから逃避するダメダメ人間は、「すべてか?ゼロか?」の単純な二項対立の図式に落とし込んで、自分で考えることから逃避してしまう。 前にも書いておりますが、現実的に言うと、「アナタの話を素直に聞くことができた。」と語る人は、ちょっとのことで逆上する人なんですよ。まあ、ベテランの私が言うんだから、間違いはない。まあ、そのような私の見解に全面的に賛同する必要はないわけですが、ちょっとはアタマに入れておくと、トラブルを回避できることにつながるわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんが言っていますが「あいまいな日本」という言葉がありますよね? ただ、私はその本を読んでいませんから誤解しているかもしれません。 日本は物事を明確にせず、「なあなあ」で、「あいまいなまま」済ませてしまうことが一般的でした。 しかし、その社会の構成員が均質であれば問題ないわけですが、その構成員がバラバラのキャラクターであれば、「あいまいな」ままでは居心地が悪い。そもそも「あいまいな」ままでいるためには、あまり人と違ったことをしてはいけないから、周囲の人に合わせて生きる必要が出てくるわけ。だから周囲の目を常にうかがう必要が出てきます。 均質な社会が崩壊してしまっている現在の日本では、「あいまい」な状態で耐えられるメンタリティーはもうなくなっているわけ。 「なあなあな」ままにせず、ひとつひとつを明確にしながら、前に進んでいくのが、今の日本人のメンタリティー。 昔の「あいまいな日本」は、それなりに「いい社会」だったのでしょうが、今の時代は今の時代に沿った美質なり「居心地」を見出していかないといけないわけ。 そのような「生みの苦しみ」の最中に、今の日本はいるんでしょう。 かなり前から、そんな社会になっていたわけですが、昨晩の結果は「あいまい」ではなく、まさに「明確」に出てしまいましたね? |
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R.11/2/9 |