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カテゴリー 会話のスタイル(聞き手側)
配信日 05年9月21日 (10年8月5日,11年1月28日 記述を追加)
タイトル 自己都合の解釈
ダメダメ家庭を作る人間は、当事者意識がない。だから「皮肉も通じない」。これは以前に配信しております。事態に対し自分で対処するという発想がないので、そのことについての問題を間接的に指摘されても、誰か別の人の問題だと思ってしまうんですね。
かと言って、直接的に指摘すると、持ち前の被害者意識に火がついて逆上するだけ。
煮ても焼いても食えないとは、全く、このこと。

さてさて、このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」も、05年現在で、発行が300回を超えています。この文章を書くにあたって、多くのネタを提供してくれた方々もいらっしゃいます。
ネタを提供と言っても、「アナタのメールマガジンにこの話を載せて見たら?」という形で提供を受けたわけではないんですね。身をもってダメダメを実践してくれる形で提供されたりするんですよ。

実は、その手の「身を持ってダメダメ家庭のネタを提供」してくれるような人は・・・つまり、その人の発言や行動が文章になっているような人は、なぜかこのメールマガジンに好意的だったりするんですよ。
「アナタのメールマガジンには本当に共感した!ワタシの親の問題がちゃんと書かれている!」・・・んだそう。
勿論、このメールマガジンにはそんな面があるでしょう。確かに、その人の『親』の問題が書かれているとも言えるでしょう。しかし、その人の親だけでなく、『その人自身』についても、書かれているわけです。

しかし、「身を持ってネタを提供してくれた」人が、どうしてこのメールマガジンの文章を、そんなに共感を持って読めるの?自分自身の行動や発言が書かれていることに気がつかなかったの?
ネタの提供者さんからそんな感じで感謝の言葉をもらったりすると、私の方が途方に暮れてしまう。
「アナタに該当する記述が、60%以上はあるのに・・・よくまあ、冷静に読めたものだなぁ・・・」と、私も絶句するだけ。

ダメダメ家庭を作る人間は当事者意識がない。被害者意識だけがあるだけ。だから私の文章で自分に該当するような記述があっても、「自分への被害」の部分だけ読み取って、「自分が与えている被害」には全く無頓着になってしまう。
別のところでも書いていますが、文章を読むに当たって、自分に都合のいいところだけを受け取る「いいとこ取り」を行っている。

以前より何回も書いていますが、私に逆上メールを送ってくる方もいらっしゃいます。ちなみに、逆上メールも身をもってネタを提供している典型と言えます。だって、ダメダメ家庭の会話不全を典型的に表しているわけですからね。
逆上メールを送りつけるような、激しい立腹のケースもあるでしょうが、このメールマガジンをご購読されておられる方で、「気に入らないなぁ・・・」「腹が立つなぁ。」と思われる時だってあるでしょ?

だって、「見たくないものを見せている」面が強いこのメールマガジンの文章は、読者の立腹は避けることができないものですし、ある意味において、その立腹を期待している面もあるわけです。
私の文章に立腹したということは、それなりに当事者意識があるということです。だから決して悪いこととは言えませんよ。その立腹で留まっているのがダメダメというだけです。
むしろ大問題なのは、立腹もしないで、大賛成されることなんですね。
だって、それだけ当事者意識がなく、自己逃避ということになりますからね。
この手の人は、やっぱり被害者意識が強いので、どの道、どこかで逆上するもの。

重症のダメダメ人間は、皮肉が通じないどころか、どんな文章や発言からも、自分が受けた被害だけを汲み取ってしまう。「ワタシはかわいそうな被害者だ。」ということが大前提になっているので、何を受け取るにせよ、そのフィルターを通して受け取ることになる。そして、「自分が受けた被害」のリストの項目がどんどんと増えていく。そして自らの被害者意識をますます膨らませることになる。

「この人がここで書いているとおりに、あの○○は行動しているぞ!」
「ホント、あの○○には困ったものだなぁ・・・」
「そうなんだ!やっぱり、そうだ!やっぱり、このワタシはかわいそうなんだ!」
「悪いのは、全部アイツのせいだ!」

しかし、その○○さんの行動が「書いてあるとおり」であるにせよ、その文章を読んでいる人自身も書いてあるとおりの行動をしていたりするもの。
しかし、当事者意識がなく、自己逃避であるので、自分に関わるような記述は、まったくの素通りだったり、あるいは、まったくの他者の問題としてしまう。

それこそ、「このサイトには、『悪いのは全部○○のせいだ!』なる文言は典型的なダメダメだと書いてあるぞ!やっぱりそうだったんだ!そう言えば、あの△△は、いつもそんな物言いをするよな!やっぱりな!どうりでオレはうまく行かないと思ったよ!アイツが『悪いのは全部○○のせいだ!』とスグに思考停止になってしまうようなダメダメだから、オレはうまく行かないんだ!ホント、悪いのは全部アイツのせいなんだ!」と自分を納得させるような事例が、本当にあったりするもの。

あるいは、このメールマガジンでは、キリストが言った「汝の隣人を愛せよ。」という言葉に言及することが多くあります。顔も名前も知らない遠くの人に愛を語るよりも、身近な人間を愛することの方が難しいわけです。だって身近な人間は、感情もあり、リアクションがある。みせかけの愛の言葉を受けても、愛されてはくれませんよ。
だから、人間にとって、自分の隣人を愛するのは難しいわけです。

そのことを踏まえ、私としては「汝の隣人を愛せよ。」という言葉に言及するわけですが、その文章を読んだ人が、別の誰かの行動を評価するのに使ったりする。
「この人は、自分の子供を放っておいて、市民運動などに明け暮れている!『汝の隣人を愛せよ。』という言葉を知らないのか?ケシカラン!よしっ!抗議してやる!」
その抗議はともかく、抗議される側だけでなく、抗議する側にも隣人がいるわけでしょ?
その隣人はどうなっているの?
その問題意識を踏まえることが、まずは必要でしょ?
そうでないと、抗議しても説得力はありませんよ。
そんな人は、相手を論破することはできても、合意を取ることはできるわけがないでしょ?

しかし、自己逃避のダメダメ人間は、自分の問題が見えていない。と言うか、見ようとしない。しかし、そんなことは、大昔からのこと。
それこそ、キリストさんは、「なぜ、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の中の梁には気がつかないのですか?兄弟に向って、『あなたの目のちりを取らせてください。』などと、どうして言うのですか?見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」と、おっしゃっています。
こんな状況は、2000年前も、今もまったく同じでしょ?
自分の問題について目を向けない人ほど、人に説教したがるもの。
そして、人のあら探しをして、自分の被害を語ることになる。

まったくの他者の問題としてしまっているから、「いいとこ取り」で集めた自分の被害なり、他者の問題点を、周囲の人に得意気に説明することになる。
「ねぇ!ねぇ!ちょっと聞いてよ!とある本に書いてあったけど、あの○○はこんなにダメダメなんだって・・・ホントに困ったものだわ!だから、アタシたちはうまく行かないのね!」「だって、あの○○って、△△のようなバカなことをやっているし、□□のようなトンチンカンなことをしているでしょ?ホント、あの人たちって、自分が何をしているか自分自身でも分かっているのかしら?」「ちょっと、ちょっと、この文章を見てよ!まったく・・・あの○○さんの行動そのものだわ!」と本などの記述を見せられることになる。
しかし、その記述内容は、そのまま、目の前で嘆いている人の行動そのまま。

こんな時に使われる言葉は、
「オマエが言うな!」
そして、
「ダメだ、こりゃ!」
でしょ?

その○○さんの問題点が、自分自身と共通していると自覚していて、それを踏まえて、周囲の人とやり取りをしている場合には、もっと、シリアスに説明しますよ。いわば、胸の痛みを伴った形になりますよ。
しかし、まったくの他人事としてしか受け取っていないので、「お気楽に」そして「被害者意識を持って」、その問題点を語ることになる。

自分が受けている被害の話ばかりを、お気楽に集め、それを自分なりに体系化してしまう。
しかし、その立派な大伽藍も、「自分が被害者である。」という土台があってのもの。
しかし、その土台自体が間違った認識に基づくものなんですね。しかし、その間違った土台の上に、大伽藍ができてしまっているので、もはや後戻りはできない。
ということで、「アンタ自身も、そういうことをやっているじゃないの?」という「自分が加害者」との指摘を誰かから受けると、思考停止を求めて、逆上してしまう。
人からの言葉を使って、得意気に自分の被害を語る人ほど、スグに逆上するものでしょ?

いわば、後戻りできない境地なので、後戻りする必要性の認識自体から逃避するわけです。
そうして、「ワタシはこんなにもかわいそうなのにぃ〜」と、自分を騙す儀式がますます加速してしまい、ますます押しつけがましく、周囲に対して「ワタシはこんなにもかわいそうなのよ!」という主張に熱が入ってしまう。

このメールマガジンの文章の基本的なコンセプトは、「汝自身を知れ!」というものです。
何も斬新なことを申し上げているわけではなく、ギリシャ以来から言われている、実に伝統的なものですよ。
しかし、「汝自身を知れ!」というコンセプトの文章から、他者のあら探しの記述ばかりを読み取る人も、実際にいるわけです。

そんな人は、実に心晴れ晴れとこの私の文章を読んでしまい、大いなる共感を表明することになる。しかし、本当にこの私の文章を理解できたのなら、そんな対応はありえませんよ。その点は、この文章をご購読いただいていらっしゃる方もご理解いただけるのでは?
「ワタシなんか・・・読んでいて気が重くなって、落ち込んでしまうのに、よくもま、心晴れ晴れと読めるものだ。そんな人が、この文章の内容を分かっているわけがないじゃないの?」
そのように思われるでしょ?
逆説的になりますが、何も分かっていないがゆえに、「そうだ!そうだ!この人の言うとおりだ!」となってしまう。読んで身につまされた人の方が、内容が分かっているものなんですね。

しかし、心楽しく共感を示してくる人に対して、「いや、アンタは、何も分かっちゃいないよ!」とは、無鉄砲な私も言いにくい。まあ、それでも言っちゃうと、やっぱり逆上してしまうし・・・
まあ、色々とタイヘンだったりするんですヨ。

自己逃避の人間に対して、「ワタシ自身は自己逃避状態である。」ということを理解させることは、論理的にも、現実的にも不可能でしょ?
重症の酔っ払いほど、「オレは、酔っていないぞぉ〜」と言うものでしょ?

この手の人は現実にいたりするものでしょ?当然のこととして会話の能力も全然ないわけですから、説得による改善は不可能といえます。そもそも何を言っても自分の都合で解釈されてしまっては、何とも言いようがないでしょ?

こうなってしまうと外部からの強制的な方法による解決しか残されていないんですね。
自己逃避の人間に対して、「自分自身を見つめなさいよ!」とサジェストしたり、会話ができない人間に対して、「会話によって説得しよう!」など正論をぶつのは、現実離れした詭弁以外の何ものでもないものなんですよ。

(終了)
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発信後記

東京の繁華街などでは中国人の観光客もいたりします。
やっぱり中国本土でデモしているような中国人とは顔つきが違っている。
中国でも「勝ち組」と「負け組」が明確に分かれているんでしょうね。

「勝ち組」は、お金があるから日本に行って日本製品も買える。「負け組」はそんなことはできない。だから「負け組」はますます反日運動に血道を上げることになる。
「勝ち組」に対する怨念が、日本への怨念に転換されてしまうわけ。

気持ちはわからないわけではありませんが、怨念の世界にいて、被害者意識に浸っているだけでは、豊かにはなりませんよ。まずは心の豊かにして、自分自身の品格を尊重するようにしないと、そんな怨念だけの人を周囲の人は信用しないでしょ?

このことは中国人でも、日本でも全く同じですが。
R.11/1/28