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カテゴリー | ダメダメ家庭が好きな単語 |
配信日 | 05年10月17日 (10年7月13日,10年9月24日 記述を追加) |
タイトル | 「くだらない!」という言葉 |
ダメダメ家庭は会話が不全の家庭。 親の方が一方的に、子供に対しグチっているだけなんですね。 だからその物言いも、会話に発展しないような言い方になっているわけ。 代表的な例は、「べき」という言葉が多いこと。 「何々をすべき!」なんて、やり取りの相手側から言われちゃったら、どうやって会話に発展するの? 身になるやり取りになるの? そんなことは、ちょっと考えればスグにわかることでしょ? この「べき論」の多用については、また別の機会でまとめてみたいと思っています。 今回取り上げる、ダメダメ家庭の物言いは「くだらない!」という言葉。 ダメダメな親は、子供の意見などを、「くだらない!!」と、一刀両断に却下するわけ。 たとえば子供向けの本などを、子供が「買ってほしい!」なんてねだったりすることもありますよね? そんな時でも「な〜に、こんな本!フンっ、まったく、くだらないわ!」と、なるわけ。 そんな言い方をされちゃったら、子供だって反論できないでしょ?絶対に会話に発展しませんよね? では、「くだらない!」なんて断定している大人が、一体どんな本を読むの?現実的には、そんな物言いをするような人って、ほとんど本を読まないものでしょ?どんな本だって、「それなりに」新しい知見があったりするもの。要は本人がどれだけ問題意識を持って生活しているか?むしろそちらに依存するわけ。普段から何も考えていない人間は、どんな本を読んでも、何も得ることはないんですね。このことは本に限らず、どんなことだって同じ。それこそメールマガジンの文章に対しても、そんなものでしょ? それこそ、目の前にアフリカの彫刻があったとしましょうか?彫刻に対して感性がない人間に限って「な〜に、これ?くだらない!笑っちゃうわ!」なんてことになってしまうものでしょ?しかし、それこそ、ピカソなりモリディアーニなりのレヴェルの人だったら、逆に、「うーん・・・これはスゴイぞ!」「こんな発想があったのか?!」なんて、感心できるわけ。そんなものでしょ? しかし、そのピカソさんとしても、自分の目の前で、誰かさんからアフリカの彫刻を「フンっ!くだらない!」と言われちゃったら、どうするの?そんな人に対し、何か言う気なんてなくしてしまうでしょ? 「コイツには、何を言ってもムダ!」まあ、そうなっちゃいますよね? ピカソ程度の能力のある人だったら、その気になれば、アフリカの彫刻の持つ魅力を存分に語ることができるでしょう。しかし、「くだらない!」なんて言ったりする人に対しては、わざわざ語ったりはしないでしょ?もっと別の人と話をしますよね? ピカソだったら、そうするでしょう。しかし、子供だったら難しいわけ。 「この作品の何が魅力なのか?」子供だったら本人だって明確にはわかっていないもの。ただ「何となく、面白いなぁ。」そんな程度。 それに子供としては、親に話せないとなると、誰か別の人間に話すというわけにはなかなか行かないものでしょ?まあ、とりあえず「くだらない」なんて言下に否定しそうにない雰囲気の人に話しかけることになる。しかし、その人だっていつまでも聞いてくれるものではないし・・・それに親とのやり取りの積み重ねがないわけだから、他の人とのやり取りだってフランクには行かない。どうしても緊張してしまう。 子供にしてみれば、親に話せないとなると、選択肢がないわけ。こんな経験を繰り返していると、何も話さなくなるでしょ? ダメダメ家庭を作るような親は、ある種の無邪気さが許せないわけ。子供っぽさを拒否するものなんですね。そもそも、被害者意識が強く、「子供を育てるために自分の人生を棒に振った。」と思っているので、自分の子供が子供っぽく無邪気でいることよりも、人生に疲れてしまって、自分と一緒にグチを語り合うことを望んでいるわけです。 だから子供に与えるものも、子供っぽいものは少なくなる。服にしてもそうですし、本にしてもそんな感じ。「諸般の事情に配慮した大人に早くなれ!」と、そんな無言の圧力があるわけ。 そして、子供が子供っぽい意見を言ったり、あるいは子供っぽい興味を示したりすると、「くだらない!」と一刀両断。 そんなものでしょ? 大人同士の会話において、この「くだらない」なんて言葉が出てきたりするような人間は、当然のこととして、子供に対しても言っているわけですよね? そんな言葉を言われちゃった子供がどうなるか? そんな家庭がどうなっちゃうのか? それって、言うまでもないことでしょ? 大人同士で会話が発展しないような人なら尚のこと、子供との会話なんて存在しないわけ。大人にとっても話にくい人に対し、子供が話をするわけがありませんよね? ちなみに、この「くだらない!」という断罪の言葉とよく似た物言いが、「ケシカラン!」という物言い。「くだらない」という言葉に、権威主義的な目線が加わると、この「ケシカラン!」になるわけ。 そのような流れに近いことで、ちょっと前に、面白い報道がありました。昨年のノーベル文学賞を取ったイェリネクさんの「ピアニスト」という作品を、「ポルノに過ぎない!」と断罪した、ノーベル賞選考委員がいたそう。 芸術作品の評価において、「好き、嫌い」という面が出てくるのは致し方がない。しかし、あの作品をポルノとはねぇ・・・ この「ピアニスト」という小説を映画化したものを、昨年に、このメールマガジンで取り上げて考えております。 私が映画で見るところ、あの「ピアニスト」という作品は、ダメダメ家庭出身の女性が、自らの境遇を自覚して、改善への一歩を踏み出していく話と見ています。 だから窓から外を見るシーンが多かったり、ドアを開けるシーンを強調したりしているわけ。また、あの主人公がもつ作曲家シューベルトへのこだわりの意味を読み解いていくと、主人公の心情も理解できるものなんですね。 芸術作品というものは、そんなさりげないシーンに大きな意味があったりするもの。そのような「さりげない」シーンを見落とすような鈍感な人間は、往々にして派手なシーンしか印象に残らない。印象に残る派手なシーンって、まあ、性描写。エッチシーンしか印象に残らないから、「ポルノだ!」と思ってしまう。まあ、しょうなない面もありますが、それって、要は読み手が鈍感ということでしょ? この「ピアニスト」での問題と実に似ているケースが、マルグリット・デュラス原作の「ラ・マン」という作品。こちらも映画になりましたよね?鈍感な人間は中国人とフランス人の少女のエッチシーンしか印象に残らないので、援助交際の小説と思ってしまう。しかし、ちゃんと文章を読める人間なら、あの作品に引用されている映画作品なり、家庭内の描写から、援助交際以外の・・・もっと作者にとって本質的な面が読み取れるものなんですね。あの「ラ・マン」という作品はダメダメ家庭にいる少女が、「物書き・・・つまり芸術家になる!」と決意を固めていく話であることがわかるはず。 まあ・・そう・・なんですが、このケースは「ラ・マン」の翻訳者もあまりわかっていないよう。本に収められている解説もトンチンカン。しかし、これはしょうがない。知性の問題というより、発想や視点が違うというわけでしょう。物書きと学者は発想が全然違うものなんですね。 「くだらない!」とか「ケシカラン!」と一方的に断罪するのは勝手ですが、その作品の中のさりげない表現から、多くの情報を得ることによって、作品の本質がわかるわけ。 当然のこととして、これは日常生活においても同じ。日常の「さりげない」ところには実に多くの情報が隠されているもの。そこから本質を得ることができるかどうかは、その人の感性や問題意識が必要になってくる。 ダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、何とかして自分の目標を達成したいというよりも、傍観者的なスタンスとなっている。傍観者的だから、その物言いも概括的であり、具体的な各論が出てこない。概括的な形で言われたことに対して、検証ができないでしょ? だから、「ふーん・・・」と聞くだけ。 自分で実行することを前提として物事を見ない。 目線がコメンテイターのようなもの。 概括的で、傍観者的だからこそ、逆に言うと、聞いている側は傷つかない。 傷つかないものだから、そんな「ありきたり」な言葉を受け入れてしまう。 それこそ、マルグリット・デュラスが「面白くない本」の定義とする「感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・」を求めてしまうわけ。 デュラスにしてみれば「面白くない」わけですが、傍観者としては、そんな本の方がいいわけでしょ?だって、「悪くはない」わけですからね。 そして、厳しい指摘なり認識が表現されている文章などに対して「過激だ!」「偏っている!」とかで否定し、「フンっ!くだらない!」とか「なんて、ケシカラン!」と断罪する。 それはそれでいいとして、じゃあ、その人自身の問題は、どうなったの? あるいは、その人当人は、何も問題を抱えていないの? 新鮮な感性がなかったり、教養がなかったり、洞察力がないのはしょうがないとして、どうしてそんなに傍観者的で「聞いたふう」なことを言いたがるの? アンタがその作品を分からないのはいいとして、どうしてそんなに安っぽいコメントを出してしまうの? その安っぽさと、否定してばかりの精神が問題なのでは? 「くだらない!」なんて言っているうちは、問題の本質は開かれないわけです。 「ちょっとした小さなこと」を面白がる、いわば子供の精神が喪失してしまうと、そのような「くだらない」とか「ケシカラン」なるコメントが多発するようになる。 というか、そんな人は、自分の子供時代から逃避しているわけ。はっきり言うと思い出したくもないわけ。 「くだらない」という言葉を言いたがる人は、じゃあ、その人の子供時代はどんなものが好きだったの?あるいは、子供時代に楽しかったことはどんなことなの? 「くだらない」という言葉と、楽しい子供時代とは、結びつかないでしょ? そして、そんな人は、写真もなかったり、あるいは、あったとしても、時々取り出してみて家族で思い出話に花を咲かせるようなことはしない。まあ、その手の人は、自分から子供時代のことについて語ろうとはしないものでしょ? 自分の子供時代を否定しているわけ。 自分の子供時代を否定しているんだから、自分の子供を否定するのは、当然のこと。 だから、「くだらない」という言葉が頻発する人は、往々にして、自分の子供のことに対する不満を、周囲に語ったりするものでしょ? 逆に言えば、たとえ自分の子供のことではなくても、その「くだらない」という言葉が頻発する人は、実に危険人物なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中に昨年のノーベル文学賞について触れましたが、本年のノーベル文学賞はイギリスのハロルド・ビンダーさんが受賞されたそうです。 このメールマガジンで、ビンダーさんの原作でジョゼフ・ロージーさん監督の71年の「恋」という映画について触れたことがあります。典型的な下層階級の顔が出てくる映画ということで、ちょっと取り上げました。 ちなみに、「恋」という邦題は、実にいい加減な邦題。それこそ「ケシカラン!」と言いたいほど。原題は「THE GO-BETWEEN」というもの。男女の恋の橋渡しをすることで、2つの社会階級の間を「行ったり来たり」する少年の話。そのことによって、少年の心がズタズタになってしまうわけ。いい作品ですので、ヴィデオでも借りてご覧になってくださいネ。 なんでも、ハロルド・ビンダーさんは「日常生活の喧噪の中に潜む、危機の意識の在り方をえぐり出している。」作家なんだそう。ほっほぉ?! また、「日常のおしゃべりに潜む危機を暴き、抑圧された空間に入り込もうとした。」んだそう。へぇ・・・ そして「追いつめられた人間を突き放した目で見つめ、乾いた笑いを生む作風」らしい。ふぅーん・・・。 |
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R.10/9/24 |