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カテゴリー | チェックポイント |
配信日 | 05年10月21日 (11年2月5日 記述を追加) |
タイトル | 身につけるもの |
子供がちょっとお出かけするので、色々と持たせてあげる。 持たせるって、何もお金とかの話ではなく、ハンカチとかちょっとしたもの。 そんなちょっとした持ち物によって、その子供の親のレヴェルって分かったりするものでしょ? 何もブランド物のハンカチでないとダメというわけではありませんよ。 ブランド物のクシャクシャのハンカチよりも、プレスが掛かった清潔なノーブランド物のハンカチの方がマトモでしょ?これって、何も子供だけでなく、大人でも同じですが。 服装だって、上着のような目立つものよりも、ソックスのようなちょっとしたものに、差が出たりする。勿論、靴のようなものだと、もっと顕著に判ったりするものです。その汚れ具合などでね。足元って、その人をよく表していたりするもの。まあ、大人だったら本人の問題ですが、子供だったら、背後にいる親が、その子供のことをどのように考えているのかについて見えたりするんですね。 ダメダメ家庭の親は、「子育ては、親である自分が押し付けられた被害。」「子育ては鬱陶しい。」と思っている。だから、子供に持たせるものだって「て・き・と・う」。親の側が持っている「子育てを、やらされている。」という不快感が、子供に持たせるものに滲み出てしまっている。そんな「ぞんざい」な親の態度に対して、子供の側がヘタに文句を言ったりすると、お決まりのセリフが登場することになる。 「一体、誰のために、こんな苦労していると思っているんだ?!」 だから、服なども、ボタンが取れてしまっていたり、あるいは破れていても、知らんぷり。 その点について子供が親に頼んでも、返ってくる答えは、いつものお約束のもの。 子供の服を見て、そのコーディネイトが審美眼の点での問題であれば、能力の面もあるわけですが、破れとかボタンが取れているということは、審美眼とかの能力の問題ではないでしょ? それだけ、親がネグレクトしているということですし、子供が親に対して何も言えないということでしょ? 身につけるものから、その家庭の内情なんて、簡単に推測できるものなんですね。 「身に付ける」ものとは言えないかもしれませんが、学校に持っていくお弁当なども、その家庭の配慮を顕著に表しているものですよね? いかにも「ぞんざいさ」が、はっきりわかるようなお弁当ってあったりするでしょ? お弁当箱を開けた時点で漂ってくる、「ぞんざいさ」・・・子供だって自分の目の前にあるそんなお弁当を見ていたら、「ゲンナリ」しちゃいますよね?そして、隣に座っている友人のお弁当の「マトモさ」を比べると、ますますゲンナリしてしまう。 親に文句を言いたくても、ダメダメ家庭では親の方が、子供より先にグチを言い出すのはいつも書いているとおり。 あるいは、ちょっとしたマンガ本とかからも見えてきたりする。 子供だったらマンガくらいは読むでしょ? そんなものと無縁だったら、逆に言うと、厳しい管理となっていることが推定できたりするわけです。そんな子供が、本について語っても、まさに権威スジ認定の「正しい考え」を盲目的に連呼するばかり。それこそ、無表情に「この本から命の大切さを学びました。」とかの物言いになってしまう。しかし、そんな子供自身は生きていて楽しいなんて思っていない。間違ったことをしでかして親から弾劾されないようにしなきゃと必死になっている。マンガも読まない子供って、そんなところがあるでしょ? 別の言い方をすると、PTAの厳しい管理下にある規格品的な子供と言ってもいいでしょう。 そんな日々だったら、いずれかは、臨界点を超えてしまうものなんですね。 身につけるものという言い方は語弊がありますし、ちょっとヤバゲな話ですが、興味深い実例があります。 私がとあるクラシック音楽のコンサートに行った際のことです。座席に座っていると、皇后さん(美智子さん)が入って来ました。どうやらそのコンサートに招待されたんでしょう。皇室ファンが喜んで拍手したりしている。まあ、それはそれ。 私がビックリしたのは、皇后の付き人の女官です。 配布されたA4版のプログラムを団扇のようにパタパタさせて自分をあおったりしている。オマケに演奏中にコックリコックリ。 「イヤぁ〜お行儀が悪いなぁ・・・」 それが平民ならいざ知らず、よりにもよって皇室関係者とは! ・・・そう、なんですが、まあ、皇后さんだって、好き好んでその女官に付いて来てもらったわけではないでしょう。自分の意向が働く女官だったら、「アナタ・・・プログラムを団扇のようにパタパタさせてはダメですよ!」って、注意できますからね。 だって、誰が見ても判るくらいの、お行儀の悪さなんですから。 その女官は、敢えてそのような「振る舞い」をした・・・と考えるのが自然でしょう。敢えてそんな振る舞いをしたのでなくても、そんなお行儀の悪い女官を選択した時点で「意図」があるわけです。知性が欠落しているケースだったらスグに判るものではありません。それこそ「会話の話題は、お天気と健康だけに限定!」と、事前に言い含めればスグにはバレることはない。しかし、お行儀の欠落はスグに判るものでしょ?よりにもよって皇室なんだから。 こんな満天下に恥をかかされている生活を続けては、あんな「生気のない」「人生に疲れた顔」になっちゃうのも当然ですし、長男の「嫁」が、病気になるのも当然ですよね? まあ、いとやんごとなき世界の人たちは、勝手にいがみあっていれば済む話ですよ。私たちには関係ありませんものネ。 ちなみに、ジジババが威張っている封建的家庭に「嫁」に行って、その女性が重症のストレスを抱え、結局は、子供が問題を起こし、登校拒否になったりする例は現実に多くあるでしょ? そんな封建的な家庭は、避けるのが利口ですよ。何も一般の平民が火中の栗を拾う必要なんてありませんよ。そんなところに飛び込んだりすると、それこそ「生気のない」顔になっちゃいますよ。封建家庭の「嫁」って、そんな「生気のない」顔の人が多いでしょ? 一般の平民はさすがに付き人がいるわけではありません。しかし、ちょっとした身につけるものを観察することによって、親なり、周囲の人間の配慮も見えてくるわけです。 一般人は付き人などとは縁がありませんが、頻繁にやり取りをしている人のキャラクターから見えてくるものも多いでしょ? 当人はなんとかごまかしていても、周囲にいる人の振る舞いから、その当人のキャラクターが見えてくることも多い。 それこそ、親子なり、あるいは、祖父母と孫の組み合わせでも、子供の側が異常に気を使っている雰囲気を漂わせている場合もあるでしょ? 傍にいるその子供の表情から、当人の資質もみえてくるわけです。 あるいは、グチに付き合うことしかできないようなボランティアがいつも近くにいるということは、当人自身はいつもグチばかりということ。 あるいは、「おべんちゃら」を言うしか能がない人間を侍らせているということは、当人自身が自分に厳しい人間ではなく、「いい加減」で「てきとう」な人間であるということ。 どんなに服装はキチっとしていても、周囲の人間がダメダメだったら、当人自身がマトモのわけがないじゃないの? それこそ以前に日本の芸能人の方がお亡くなりになって、離婚した妻と娘がお葬式に来ないということがありました。そのことに対し、その芸能人の弟が、「いくら呼んでも来てくれない。」と、報道陣にグチっていました。 しかし、そんな感じでグチばかり言っている人間を傍に置いている時点で、その芸能人も焼きが回っているということ。 もちろん、「呼んでも来てくれない。」というグチは、それこそ、いとやんごとないご家族でも、出て来ました。 まずは、そのようなグチに共鳴し、周囲に被害者アピールするしか能がない人間を切り捨てることも必要でしょ? ヨーロッパの王室において、道化と、相談役は、その役割として別ものですよ。 自分のグチに付き合ってもらうのは道化の役割であって、それはそれでいいのですが、自分たち自身の問題点を指摘してくれる人も置いておかないとね。 逆に言うと、周囲の人の言動から、当人の資質も見えてくるわけです。 友人だろうが、付き人だろうが、あるいは、被害話に共鳴するようなボランティアだろうが、お側の人からその人が見えてくるわけです。 どんなに立派な服装をしていても、周囲にいる人がダメダメだったら、その人自身もダメダメなんですね。 ダメダメ家庭というものは、目立つところにブランド物をしていても、実際的な面で、抜け落ちがあったりするもの。結局は、子供の気持ちを考えていないというわけです。そんなダメダメ人間が考えるのは自分の被害だけなんですね。 「コイツのせいで、ワタシは不快な目に!!」 言葉で言わなくても、身につけるものや、付き人や、お弁当のレヴェルが雄弁に語っているものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 皇后さんは、昨日(10月20日)が誕生日だったそう。 何はともあれ、おめでとうございます。 長女ももうすぐご結婚で、これも何はともあれ、おめでとうございます・・・と言ったところですね。 その長女は、皇后が困っているときに「ドンマイ!」って慰めてくれたそう。 それは結構なことですが、困っている親を子供の方が慰める状態がデフォルトになってしまった例が、まさに長崎県の「新しい」方の事件の家庭。 なんて言ったらいいのかなぁ? このメールマガジンはヤバゲな内容も随分と書いています。だから逆上メールもいただくこともあります。しかし、本格的な反論のメールっていただいたことはないんですよ。 それこそ長崎県の事件を考えた文章だって、本格的な反論が来るかなぁ・・・と思っていたのですが、来たのは支離滅裂な逆上メールだけ。 まあ、私の文章は説得力があるので、反論することで多くの人の目に触れさせるよりも、このまま埋もれさせることの方が得策と思っているんでしょうね。 私個人は、多くの人に読んでもらいたいなんて、思っているわけではありません。しかし、読んで、その内容が気に入らないのなら、そこからまさに「思考」が始まるわけでしょ?思考を放棄したら、進歩がないじゃないの?それがまさにダメダメなんですね。 |
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R.11/2/5 |