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カテゴリー ダメダメ家庭の人間の行動
配信日 06年2月15日  (10年4月15日に大幅に改訂)
タイトル 配慮と配慮  (窮鼠猫を噛む)
ビジネスの世界で、ある人が言っていたことがあります。
「相手のヘソの下を叩いてはいけない。」
ヘソの下・・・つまり急所を叩いてはダメと言うこと。
まあ、そんなところを実際に叩いたら、セクハラやヘンタイになってします。だからこの言葉の意味はもっと精神的なこと。
『競争相手や交渉相手の、一番触れては欲しくない部分を攻撃してはダメ。』
そんな意味なんですね。

それこそ、犯罪もののドラマで、自動車を運転して逃げる犯人を追いかける際に、その車のタイヤを狙撃するようなもの。犯人本人を撃ってしまったらシャレにならない。
やっぱり、攻撃にあたっては、効果がありながら、直撃は避けるのが大人の知恵と言うもの。

人と言うものは、一番「触れて欲しくない」部分が攻撃されると、まさに急所ならぬ「窮鼠ネコを噛む。」なんて事態になったりする。そうすると、攻撃する側の損害だってバカにならない。
戦国時代の豊臣秀吉が城攻めをする際には、ちゃんと相手の逃げ道を残して攻めたそうです。相手を全滅させてもしょうがない。その地や城を占領するためには、相手が城から出て行ってもらえば済む話。それなら「出て行きやすい」ように配慮する・・・それが彼の考え方なんでしょうね。

あるいは、スポーツの世界で、ケガをしているプレーヤーのケガの部分を執拗に攻撃したりする人もいますよね?勝負には勝つかもしれませんが、相手から尊敬 は得られないでしょ?
相手の急所(勿論、精神的な意味ですよ。モチロン。)を攻撃して、その勝負に勝ったとしても、そんな人間は、他の人たちから相手にされなくなってしまう。だから、そのような手法は短期的には効果的ですが、勝負の後のことを考えると、効果的とは言えない。

相手の「一番触れて欲しくない部分」に配慮する・・・それは人間関係の基本でしょ?

まあ、そうなんですが、ことは単純に行かない。
スポーツの世界なり、合戦の場合だったら、このような配慮は必要でしょう。勝負に当たってのフェアープレーの範疇と言えるわけですからね。競争や交渉のような状況においては、双方が対立することが前提になって進むもの。対立をどのように「埋めていくのか?」という状況において、「ヘソの下を叩かない」配慮も必要になる。
しかし、家庭問題だと、そうとは言えないわけです。

だって、家庭に関わる大きなトラブルは、そもそも、そんな一番触れたくない部分が、どんどん肥大化して、問題がにっちもさっちも行かなくなるから起こってしまっている。ダメダメ家庭の問題を考える際には、その「触れられたくない部分」こそが本質なんですね。
対立を埋める方向での検討においては、厳しすぎる指摘は、避ける必要がある。
しかし、事態を見ないことで、目をそむけることで、事態が悪化している状況においては、厳しい指摘も必要になってくるでしょ?

このメールマガジンでは、以前に「作られたいい人」というお題で、やたら周囲に配慮する「いい人」について書いたことがあります。
周囲に配慮するんだから、本当にいい人・・・と言えるのでしょうが、その手の人と実際にやり取りしたことがある方ならお分かりでしょうが、その手の配慮に満ちた「いい人」は、自分が一番触れられたくない部分を「何となく」意識しているんですね。

自分に触れられたくない部分があるので、相手の触れられたくないことは言及しない。
そして漠然として一般論的な美辞麗句で、誰も傷つかない結論を出して勝手に納得してしまう。
それって、相手に対する思いやりなり配慮と言うより、自分自身の保身のための方法論と言った方が近い。

だから、結局は、相手へのサポートにはならない。
そもそも、人助けという名目を掲げ、他人の問題に関わることだって、自分自身の問題から逃避することが心理的な動機だったりする。そして相手の問題を考える際にも、「相手への配慮」という美名の下に、「毒にも薬にもならない」結論を出す。
そんな人は「自分は相手に配慮している。」と自分では思い込んでいるので、そして、それを自分なりの「持ち出し」という形で認識している。持ち出しはある種の被害であり、その背景として被害者意識がある。だから、自分自身の問題を指摘されると、逆上してしまう。
「オレはあの人たちにこんなに配慮しているのに、どうしてオレには配慮してくれないんだ?!」そんな感じで大騒ぎし、被害者意識に浸ってしまう。つまり、その手の人の配慮は、間接的に自分への配慮を要求しているわけです。
結局は、そっちが本当の目的なんですね。

そもそも自分自身から逃避している人が、相手のトラブルをサポートできるわけがないでしょ?トラブル状況にある人が目を背けているものが何なのか?それによって、どんな状況になってしまったのか?それこそが事態の本質的な問題ですよ。そのような「目を背けている」点を指摘せずに何が改善できるの?
しかし、「目をそむけている点」を、誰かから指摘されると、まさに逆上となってしまうのは、実に当然のこと。
逆に言うと、指摘をしても相手が逆上しなかったという事は、相手が前から予想していたということでしょ?つまり、相談を持ちかけて来た人が、相談する前から分かっていたことであり、つまり、その相談は無意味であることが理解できるわけです。

もちろん、必ずしも逆上しない場合もある。
間接的な指摘を上手に組み立てて指摘することもできますよ。ただ、それは相談を持ちかけて来た人のレヴェルが高い場合に限られます。
相談を持ちかけた側が「自分でなんとかしたい!」「やり取りの相手から色々な視点を聞き取りたい!」という意欲を持って臨んできている人だったら、回答にあたって、直撃は避けた方がいいでしょう。聞き取る意欲がある人に対しては、問題点が自分で認識できるように誘導すればいいだけ。
しかし、聞く耳持たずの人には直撃するしかないでしょ?
結果として相手を傷つけることになっても、事態が解決しなければもっと困りますよ。
そもそも、相談というものは、事態を解決するためのものなんですからね。

相談において、「相手を傷つかなかったから、いい相談者だ!」と言えるの?
違うでしょ?
事態を解決に導くことができたからこそ、いい相談者だといえるわけでしょ?
しかし、減点法的な発想を持つダメダメ人間は、人へのサポートにあたって、相手に配慮はしても、事態は何も解決しない。

自分自身が傷つきたくないから、相手も傷つけない。
そんな人は、まさに周囲に配慮する「いい人」と言われたりする。
しかし、そんな「いい人」の言葉を聞くと、ダメダメ家庭の人にお約束の感想が出てきてしまうんですね。
「で、結局は、アンタはどうしたいの?」
自分への配慮を求めるのなら、「ワタシのこの点に配慮して下さい。」と、はっきりと言った方がいいのでは?だって、まずは本人が自覚できるわけですからね。

自分に対して配慮してほしいと切望していることを自覚できないからこそ、周囲に無用な配慮をする。
自分自身が分かっていないそんな人は、一見「いい人」と見えても、「触れられたくない部分」を指摘されると被害者意識が刺激され逆上したりするもの。そんなことは、よくあったりするでしょ?

「周囲に配慮する、腰の低い、いい人」って、その急所に火がつくと逆上する可能性を持っている。しかし、そんな事件があった後で、周囲の人は「あんな腰の低い『いい人』が、どうしてこんな大それた事件を?」なんて、言ったりするものでしょ?
それって、まさに、精神的な意味で「窮鼠ネコを噛む」ということなんですね。
必要以上に「いい人」って、切羽詰っていて、ある意味において、精神的には窮鼠の状態。だから逆上の火種を持っているわけです。

トラブル状況に陥っている人をサポートするに当たっては、相手への配慮も必要ですが、事態を改善することが最大の配慮じゃないの?
一緒にグチっているだけでオシマイということなら、配慮ができない人でもできること。
本当の意味での配慮ということなら、事態の本質を洞察することが先でしょ?
語られていることに真実があるわけではない。
ダメダメ家庭の領域においては、むしろ、「どうしても語ろうとしないこと」「どうしてもやろうとしないこと」の方に本質があるもの。
どうしても語ろうとしなかったことを、語れるようになったら、事態はかなり改善しているわけです。

ダメダメ家庭を作る人間は、被害者意識が強く、スグに自分の被害を声高に語ることになる。
そもそも当事者意識がないので、自分自身で問題を解決するという発想そのものを持っていないので、自分の問題点を見ようとしない。
うまく行かないことを、すべて自分がこうむった被害と認識してしまう。
しかし、スグに自分の被害を語る人間そのものが、トラブルの原因であることが通常でしょ?
そのような、さしさわりのあることまで切れ込まないと、ダメダメの本質は見えてこない。

語られた面だけに注目し、相手に配慮すると言う名目を掲げるのはいいとして、そうなると、自分の状況を主張する能力が低く、立場的に弱い存在である、子供の意向が無視されてしまう。
被害への配慮という美名の下に、子供の意向には配慮されなくなってしまう。
当たり障りのないことを、「あーでもない、こーでもない」と議論のための議論に終始している最中にも、親から抑圧されている子供の側は、何も言えない。
そして、被害者意識が強く、当事者意識がないダメダメな親が満足する理屈での結論になってしまう。だから、何も解決せず、トラブルが蓄積され、子供にしわ寄せが集中し、ドッカーンとなってしまう。

それこそ長崎での多くの事件なんて、まさにそんな流れが、事件前も、事件後も頻発しているでしょ?
トラブルが頻発しているダメダメの現場においては、当事者への配慮という名目はともかく、それが、実質的には「語れた被害への配慮」となってしまっている。だから、事態は悪くなるばかりなんですね。

(終了)
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発信後記

前回は、とあるメールを元に考えてみましたが、そのうち、私に寄せられた実際の逆上メールを元に考えてみたいと思っています。
逆上メールこそ、ダメダメの精髄のようなもの。
読んでいると、面白いんですよ。
まあ、掲載の許可を取るのが問題なんですが、「それなりに」考えはあります。
R.11/1/6