トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | オペラに描かれたダメダメ家庭 |
配信日 | 06年2月24日 |
タイトル | 舞台祭典劇「ワルキューレ」(1856年作品) |
台本&作曲 | リヒャルト・ワーグナー |
このメールマガジンでは、「作品の中に描かれたダメダメ家庭」というカテゴリーを設け、様々な「作品」の中に登場しているダメダメ家庭の姿なり、ダメダメ家庭出身者の姿をピックアップしています。 ということで、今回は19世紀最大の作曲家といえるワーグナーが台本を書き、作曲もしたオペラ(正式には舞台祭典劇)の「ワルキューレ」を取り上げます。 オペラ「ワルキューレ」というと、その中の第三幕の前奏曲と言える「ワルキューレの騎行」が有名ですよね? ワルキューレというのは、戦場で命を落とした英雄の魂を、空にあるワルハラという城に運ぶ乙女という役柄。あの「ワルキューレの騎行」という音楽は、その英雄の魂を空の城に運ぶ・・・・そんな情景が描かれているわけ。いかにも空を飛んでいるような感じがする音楽でしょ? コッポラ監督の有名な「地獄の黙示録」という映画では、ヘリコプター部隊のBGMで使われていましたよね? さて、この「ワルキューレ」での主要登場人物のジークムントさんが、ダメダメ家庭出身者の典型的な姿をしているわけ。 ちなみに、彼が第一幕でいうセリフ(セリフというより歌われるわけですが)には、こんなものがあります。 「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。 何か不吉なものが私の上にありました。 私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。 私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。 どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」 (渡辺護氏対訳より) どう思います? このメールマガジンを購読されておられる方で、実際にダメダメ家庭出身の方の中には 「アチャ〜!」と思ってしまう方もいらっしゃるでしょう? 「これって、ワタシじゃん!」 まあ、ジークムントさんは、男性ですから「女を得よう」とするわけですが、より一般的な記述をすると、「愛を得よう」とするわけです。 「愛を得よう!安らぎを得よう!」として、拒絶される・・・そんなジークムントの姿は、典型的なダメダメ家庭出身者の姿です。 どうして?どうしてこうなっちゃうの? 皆様だって、知りたいでしょ? では、ワーグナーが描いた、ジークムントのキャラクターから、ダメダメ家庭出身者の問題を考えてみましょう。 その前に、この「ワルキューレ」の簡単なあらすじを・・・ 戦いで疲れ果てた、ジークムントがとある屋敷に逃げ込んでくる。とりあえず、その屋敷の亭主と妻に介護されるが、その屋敷の主人が、実は敵同士だったとわかり、決闘することとなる。実は、このジークムントは神々の長のヴォータンの息子。双子の妹がいたが、生き別れになっており、ジークムントは父であるヴォータンによって育てられた。屋敷の妻と話しているうちに、その妻が生き別れの妹であることがわかり、2人は結ばれる。(オシバイですから気にしないでね。)断腸の思いでヴォータンは自分の子供であるその2人を処罰することになるが、ワルキューレの一人でヴォータンの最愛の娘であるブリュンヒルデは、ヴォータンの本当の望みが、ジークムントを殺すことではなくジークムントを助けることであることがわかっているので、決闘の場でジークムントを助けようとする。 今度は、ヴォータンは、最愛の娘であるブリュンヒルデを処罰する・・・ イヤ〜、あらすじは、実にわかりにくいですよね?なんといっても4時間かかる作品ですし、この「ワルキューレ」は、「ニーベルングの指環」という4部作の第2作目。それにこの作品はアンビヴァレント(両義性)な感情に満ち溢れている。台本をじっくり読まないと登場人物の感情は簡単には理解できないでしょう。 まあ、お時間がありましたら、実際にCDやDVDでごらんになってください。音楽を聞かなくても、対訳を読むだけでも十分ですが。 最近は、公立の図書館などにはCDやDVDも置いてありますから。 実は、このジークムントは、一言で言ってしまうと、「人の気持ちがわからない人間」といえます。 人の気持ちがわからないのに、人に近づくから嫌われる。 人から嫌われても、人の気持ちがわからないので、「どうしてなの?」と悩んでしまう。 孤独感からますます人に近づこうとして、ますます嫌われる。 では、「人の気持ちがわからない」と、どんなことをするのでしょうか? ジークムントさんの言葉や行動に従って書いてみましょう。 1. 善悪を分けすぎる・・・オペラの中で、ジークムントの回顧があります。「若い娘さんが泣いていた。話を聞くと政略的な理由で愛のない男性と結婚することを兄に強いられている。」ジークムントは、その娘を助けようと、政略結婚を強いる兄たちを皆殺し。「どうです!娘さん!これからはアナタは自由ですよ!」娘はそんなことをされても感謝するわけもなく、娘は兄たちの屍を抱いて泣くばかり・・・って、当たり前でしょ?しかし、ジークムントにしてみれば、「助けてあげたのに、どうして感謝してくれないの?」と怪訝に思うばかり。 2. 会話の能力がない・・・ダメダメ家庭は会話不全の家庭。上記の若い娘のシチュエーションだって、政略結婚を強いる兄たちと話し合いを持って、言葉で説得すればいいわけでしょ?しかし、会話の能力がないので、いきなり「殺しちゃえ!」となってしまうわけ。 3. やり方が極端・・・それこそ上記のシチュエーションだって、何も殺さなくても、しばらくその娘を匿って、「ほとぼりが冷める」のを待ってもいいわけでしょ?その後でゆっくり話し合いをすればいいじゃないの?しかし、人の気持ちがわからないと、どうしても極端な行動に出てしまうわけ。 4. 功を焦る・・・人から嫌われて、遠ざけられてしまっているので、「とにもかくにも」仲間になりたい!早く手柄を立てたい!人から認められたい!と、功を焦るわけ。それだけ自分に自信がないわけです。そして、唯一自分が自信がある武力で片をつけようとするわけ。まあ、そんなことをすると、ますます嫌われてしまうでしょ?まあ、周囲から認められていない人が、功を焦ってスジの悪いものに手を出し、結局は、ドツボにハマって、「何をやっているの?アイツは?」と言われちゃうのは、ダメダメの世界ではポピュラーなんですね。 5. 強さを見せたい!・・・自分に自信がないので、「自分の価値を周囲にアピールしなければ!」と常に思っている。だから、それこそ得意な武力を使いたがるわけ。そして常に戦いを求めてしまう。自分の活躍できる場所は戦いの場しかないとわかっているわけ。しかし、そんなケンカ早い人間になんて、一般の人は好意を持つわけないでしょ?まあ、武力に限らず、何かと論争にしたがる人っていますよね?それが自分の信念なら、まだしも、どうでもいいようなことも論争にしてしまうわけ。そんな人はたとえ論争に勝っても、嫌われちゃうでしょ? 6. 自分の価値を押し付ける・・・人の気持ちが理解できない人間は、人が喜ぶことや嫌がることがわからない。だから自分が信じる大義を強引に押し付けるわけ。これって、イスラム教徒や韓国人でも同じでしょ?しかし、こんなことをすると嫌われるだけでしょ? 7. 目的があっての子供・・・ヴォータンは自分自身では達成できない望みを果たすためにこのジークムントを作りました。ダメダメ家庭は、このように妙な目的意識を持って子供を作るわけです。それこそ「自分の老後の面倒を見させるため」なんてね。だからそんな家庭で育ってしまうと、子供はその目的を果たさないと!と必死な状態で、常に余裕がないわけ。だから過激なことをしてしまう。 8. 人に入れ込む・・・自分の不幸に悩んでいるジークムントは、その不幸を理解してくれる人に入れ込んでしまうわけ。まあ、それが生き別れになっていた双子の妹のジークリンデ。ということで、この2人は「行くところまで行ってしまう。」(まあ、オシバイですから・・・)しかし、「自分の不幸を理解してくれる人が自分の理解者!」という認定の仕方は、典型的なダメダメ家庭出身者のものですよね? ということで、このジークムントは、決闘で死んでしまう。 このジークムントは神々の長のヴォータンによって、育てられたわけですが、常に戦いをして、戦うことしか知らない人間。そういう意味では本当に不幸なんですが、それを自覚するしかないわけ。自覚もなしに、カタギの人に近づくから嫌われちゃうわけです。 たぶん、ワーグナーはこのジークムントに、「自分を含めた多くの芸術家」の姿を象徴させたんでしょうね。 蛇足ですが、有名な「ワルキューレの騎行」は、第2幕の最後でジークムントが決闘で死んで、休憩を挟んで、第3幕の最初に演奏されます。不幸な宿命を背負ったジークムントの死・・・それも父であり神々の長であるヴォータンが助けたいと思っていてもできなかった・・・そのような悲痛な場面で第2幕が終わったわけ。そして第3幕の最後は神々の長のヴォータンが最愛の娘であるブリュンヒルデを罰する場面で終わります。自分の最愛の娘であり、そしてその娘が「自分がもっともしたかったこと」をやってくれたために処罰するわけ。 まあ、ヴォータンのアンビヴァレントな感情が盛り上がるわけです。 そのような観客の感情が昂ぶる場面を効果的にするために、その前に、いわば「息抜き」の音楽が必要・・・それが「ワルキューレの騎行」の音楽というわけ。 何事もそうですが、独りよがりではダメというわけ。 「ワルキューレの騎行」は、芸術的には「つまらない」音楽ですが、その「つまらなさ」ゆえに価値がある・・・表現する場合にはそんなことも考えないといけないわけ。 もちろん、人との会話において自分自身の考えを説明するのにも、ちょっとしたチェンジ・オヴ・ペースって、必要だったりしますよね? 相手にひたすら自分の思いをぶつけるだけでは、何も伝わらない。 作曲家のワーグナーは、その点をわかっていたわけですし、その作品中のジークムントはその点をわかっていないというわけ。 (終了) *************************************************** 発信後記 ドラマというものは、ある種アンビヴァレント(両義性)な感情によって盛り上がるものです。 愛するけど、罰しなくてはならない。とか、 万能の権力があるがゆえに、行動が制限される。とか。 もちろん、一番多くあるパターンは、 「好きになってはいけない人なのに、好きになってしまった!」というもの。 まあ、「不倫は文化」って、オペラなどでは常識。 「地方公務員の若い男性と、銀行に勤める若い女性が、友人の紹介で付き合いだして、やがて結婚。」なんて話は、絶対にドラマにはなりませんよ。 おめでたい話ではあるけど、ドラマ向きの話ではありませんよね? それだけ芸術の世界はカタギの人とは無縁なんですね。 芸術は断じて、情操教育には向かないわけ。「情操教育にいい」なんて人は、芸術がわかっていないわけです。音楽や美術や文学は情操に役に立つでしょうが、芸術は情操に悪影響なんですね。 |
|
R.10/5/7 |