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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター |
配信日 | 06年10月10日 (10年6月22日,10年11月23日 に記述を追加) |
タイトル | 話し合い至上主義 |
ダメダメ家庭の人間は、理念的。 自分が考えていることを、「べき論」によって問答無用に押し付けるだけ。 自分の考えを、相手の考えも聞きながら、相手にわかりやすく伝えるということができないわけ。話し合いの精神がないんですね。 このことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。 しかし、「じゃあ、何でも話し合いで解決!」と行くか・・・となると、そうは行かないでしょ? そもそも、自分の側に会話の意欲があっても、相手に会話の意欲がなかったら、どうしようもないじゃないの?会話というものは、相手あってのものなんですからね。 しかし、ある種の理念的なダメダメ人間は、まさに理念的に「何でも話し合いで解決すべき!」なんて、周囲に押し付けたりするわけ。 もはや、「話し合い」というコミュニケーションの手段も、宗教の教義のようになってしまっているわけ。 強制力が望ましいわけがありませんが、必要な時もありますよね?だって、相手が「聞く耳持たん!」なんて人だったら、強制的な手段しか解決の方法がないじゃないの?だいたい、ダメダメ人間は被害者意識が強く、言葉によって説明したり説得しようとしても、その説得すら被害と捉えてしまい、「ああ!もうっ!鬱陶しいな!もうっ!放っておいてよ!」なんてことになる・・・これについても以前に書いております。そんな人とどうやって話し合いをするの? ちょっと前に、実に、途方に暮れるニュースがありました。 イランで16歳の女の子のレイプ事件があって、死刑になったというニュースです。 こんなことを書くと、こう思われるでしょ? 「死刑は確かに厳しすぎるかもしれないけど、レイプされた16歳の女の子の心の痛みを考えれば、それくらいの刑罰もやむを得ないのでは?」 ちなみに、私はあえてわかりにくい文章にしています。 実は、16歳の女の子がレイプされた事件で、死刑になったのは、犯人の男ではなく、レイプされた16歳の女の子の方なんですね。 まあ、結婚するまでは処女でいなくてはいけない・・・なんてイスラムの例のヤツ。ということで、処女を失った女の子は死刑。 イスラム教はイスラム教なりの考えがあるでしょう。 しかし、こんなことをする人間たちと、どうやって話し合えばいいの? もう、前提となる世界が全然違っているでしょ? 以前にも書きましたが、哲学者のルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが言っていた言葉である「もし、我々がライオンの言葉がわかっても、言っている意味はわからないだろう・・・」そのものですよね? 単に外国語云々の問題ではなく、前提としている世界が根本的に違ってしまっているわけ。 あるいは、以前より韓国の問題を取り上げています。 別に民族的偏見云々というより、ダメダメの実例の宝庫なんですね。 韓国との間で発生する問題だって、「話し合いで解決すべきだ!」との正論は正論でいいのですが、韓国の歴史教科書を読んでみてくださいな。 こんな教科書で学んで、疑問を持たなかった連中とどうやって会話するの? だって、あの教科書は執筆者の主観が羅列してあるだけ。歴史史料名とか、年号とかの記述もほとんどなく、ひたすら執筆者の主観が書いてある。 客観的な事実を元に、それを客観的に組み合わせていき、歴史的な事実を再構築していく・・・そのような科学的スタイルにはなっていない。 つまり、客観と言うものが消失している教科書なんですね。 客観がないがゆえに、相手に対する説得なり説明も、主観の押し付けになってしまう。 主観を一方的に押し付けられても、だからと言って合意するというものではないでしょ? 反論できないという二重否定的な状況と、双方が合意すると言う単純な肯定のスタイルは別のもの。 合意という肯定を目指すのか?あるいは、「反論されない」という二重否定を目指すのか? 話し合いというか、言葉でのやり取りと言っても、その手法なり目的がまったく違ってしまうわけ。 韓国の歴史教科書も、イスラムと同じように、根本となる世界が違っている状態。言葉は変換できても、元となっている世界、その考え方の枠組みの違いは埋めようがありませんよ。 話し合いの大切さだって、理念として「話し合いはすばらしい!」なんて問答無用で押し付けるのではなく、まさに話し合いによる成果の積み重ねにより実感として感じられるものでしょ? それこそ、今まで話し合いで解決してきた具体的な事例なり、その折の経緯とかを説明すれば、話し合いのすばらしさとやらも聞いていても分かりやすいもの。 「意見の対立があって、双方エキサイトして一触即発の状況だったけど、話し合いの場を適切にリードすることで、双方がそれなりに納得できる結論を得ることができた・・・」そんな具体的な事例を説明するのが先でしょ? しかし、権威主義的で問答無用なダメダメ人間は、「話し合いはすばらしい!」「話し合いで解決すべきだ!」「強制力なんてケシカラン!」と、まさに話し合いも何もアッタモンじゃなく、取り付く島もない状態。 そのような説教オヤジや正論オバンって、結構いるでしょ? それこそ、そんな人は「なんと、ケシカラン!アイツはどうして話し合いをしようとしないんだ!話し合いを拒否するような人間はぶっ殺してやる!」なんて平気で息巻くことになる。 そう言われれば、死にたくないから、話し合いの場にはつきますよ。 しかし、そんな話し合いで、どんな結論が得られるとでも言うの? 話し合いのすばらしさを、問答無用で押し付ける・・・シュールな光景ですが、実にポピュラーな光景でもあるんですね。 教条的なスタイルで「話し合いのすばらしさ」を主張する人が、今までどんな問題を話し合いで解決してきたの? そんな具体的な実績があるの? 「話し合いのすばらしさ」を一般論的に主張するような、そんな問答無用の人と、そもそも、言葉でのやり取りなんて成立しないでしょ? この手の話し合い至上主義的な言動は、それこそ、学校の教員などには典型的に見られますよね? 「なんでも話し合いで解決すべきだ!」と上の立場からご高説してばかり。 しかし、そんな教員は、生徒の困りごとにもまったく対応せず、あるいは、生徒の考えにもまったく聞く耳持たずで、問答無用の説教を繰り返すばかり。 逆に言うと、話し合いの能力がないがゆえに、相手から反論されると対処ができないので、反論されないような立派な正論を言いたがるわけ。その手の人は、「平和」とか「人権」とかの立派な言葉がお気に入りとなっている。その立派な言葉を使う背景には「これを言っておけば安心だ!」そんなズボラな心情が背景にあるわけ。あるいは、相手からの反論を受けて、自分で説明することができないがゆえに、説明しなくても「正しい」と認定されているご高説にすがってしまう。 そのような、反論されにくいご高説の一つとして、「話し合いはすばらしい!」と言う言葉になっているわけ。 この文章のタイトルで使った至上主義とは、別の言い方をすると、それ以外は認めないということで、まさに聞く耳持たぬという意味ですよね?だから、形の上では「話し合い」となっていても、お互いの見解についての理解にはつながらないわけ。 むしろ、自分以外の考えを「見たくない」というだけ。 形としての話し合いが優先され、相互理解の方法論としての会話が霧散してしまう。 だから、そんな「話し合い」によって相互理解から遠くなり、信頼からはかけ離れていく。 信頼と無縁であるがゆえに、結局は、支配関係によって、相手を指導し、ますます問答無用になってしまう。 話し合いという大義名分によって、支配関係を確立するわけ。 実質的な話し合いが必要となる、つまり、それまで相互理解がなされていない異質な人を追放し、押さえつけるための大義名分として、この「話し合い至上主義」が使われることも多いもの。だから、立派で権威筋認定のご高説が高らかに掲げられることになる。 それが教祖様への信仰心のパターンもあれば、いのちの大切さのパターンもあり、平和の尊さのパターンもあれば、話し合いの大切さのパターンもある。 しかし、逆らうものに対しては、問答無用で強圧的に指導するということは共通しているでしょ? 結局は、その手の人たちが主張する「話し合いの大切さ」とやらも、相手の話を聞かないで済むようにする支配のための大義名分にすぎないわけ。 相手から反論を言わせないことは、強制力があれば可能でしょう。 しかし、相手との間で合意に至るためには、かなりの努力が必要ですし、何回も書いておりますが、相手の側が真剣でないとありえないことでしょ? 折衝の場においても、まずはその真剣さというか、覚悟が問題になるものでしょ? そして、やり取りに当っては相手の覚悟を見るものでしょ? その覚悟がない状態で話し合いをしても、結局は、問題の先送りになるだけ。 何がしかのお金によって、問題を「見ない」ようにするだけ。 そして、「ああ!話し合いによって、トラブルは去った!」と大喜びすることになる。 しかし、それは解決ではなく、見ないようにしただけでしょ? しかし、抑圧的な人間は、見ないようにできただけで満足してしまうし、その手の安直な解決法に頼ってしまう。 だから、トラブルからお気楽に逃避できる方法として話し合いを絶対視する。 何も暴力的な方法がいいと申し上げているわけではないんですよ。 命がけの真剣さが必要だと申し上げているだけです。 話し合い至上主義の人は、事態を解決することはできずに、ただ、先送りをしているだけ。先送りの方法論として、お金によって、相手の一時的な沈黙を買っているだけ・・・それが現実でしょ? しかし、そんなズボラな態度だからこそ、トラブルはより頻発し、先送りの方法論も、より習慣化してしまうことになる。 自分子供を虐待している親との対応においても、話し合いという大義名分を持ち出し先送りしてしまう。真剣に事態と向き合うことからの逃避として、話し合いが利用されてしまうわけ。 抑圧的な人間は、現実を「見なければならない」事態になると、逆上することになる。 まさに、トルストイ描くアンナ・カレーニナのように「そんなものをワタシに見せないで!」と周囲に対して逆上気味に要求することになる。 その「見ないで済む」ための方法論として、話し合いがある・・・それがダメダメの現実なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 さてさて、昨日は、ダメダメのメッカの北朝鮮で核実験のニュースがありました。 とはいえ、日本政府も、アメリカ政府も事前に予想済みのようでした。 そもそも安倍総理の中国、韓国訪問がいかにも突然だなぁ・・・と思っていたのですが、計算済みだったのでしょうね。 まあ、アメリカ政府から情報というお土産をもらって、中国や韓国に得意げに振舞う・・・なんてことができたわけですから、安倍さんも収穫でしょう。アメリカとしては、「日本も周辺国とちょっと上手くやってよ!」なんてことなんでしょうね。 そもそも「青天の霹靂」だったら、日本に帰国していますよ。そもそも大した用件があるわけでなし・・・ まあ、オタオタする中国や韓国を前にして余裕を持って落ち着いて振舞う・・・それが目的だったというわけなんでしょうね。 やっぱり情報を制するものが、勝利するって、何でも同じ。 そして情報を得るためには、信用が第一って、これも同じ。 しかし、ダメダメ人間は、その信用がない・・・これも万国共通。 |
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R.10/11/23 |