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カテゴリー | 判断と選択 |
配信日 | 06年11月3日 |
タイトル | 選択からの逃避 |
「ワタシは悪くないわ!」 ダメダメ家庭の人間のお約束の言葉ですよね? そのヴァリエーションとして、「オレは悪くない!」という男性形もありますし、「アナタは全然悪くないわ!」と、他者を評価認定するスタイルもある。 と言っても・・・そもそも「悪くない」という意味自体が、どんな意味なの? あるいは、「悪くない」のはいいとして、「結局は、アンタはどうしたいの?」そっちの方が重要でしょ? しかし、ダメダメ家庭の人間が唯一主張するのが、この「悪くない!」と言うこと。 そして、その「悪くない!」と言えるように、普段から行動するわけ。 悪くない・・・と言えるためには、自分のせいではないことが必要でしょ?「このことを自分が選んだわけではないんだ!だからワタシに責任はない。」だから「ワタシは悪くないんだ!」 まあ、理屈は理屈としてあるでしょう。 自分が主体的に選択したわけではないのなら、自身としては責任は取れない・・・それも一理ありますよね?だから、そんな人は、普段から、選択の場を回避するようになってしまう。 一般論だけだとわかりにくいので、具体的な事例を考えてみましょう。 夫婦別姓の問題を取り上げてみます。 「夫婦が別の姓でもいいじゃないか?そのことを法律で認めよう!」 そんな運動がありますよね? まあ、個々の夫婦のスタイルを法律で縛るのはヤボというもの。どんな分野でも法律での縛り自体は可能な限り少ないのが理想でしょう。だから、そのような夫婦別姓を認めた法律も、あればあったでいいのでは? 法律の問題はあるでしょうが、ただ現実的に言うと簡単には言えない。もちろん、子供の苗字の問題もありますし、もっと根本的に考えると、夫婦の苗字も決められないような男女が、今後、何を決められるの?そういう問題も出てきますよね? 夫婦別姓もいいでしょうし、結婚後スグに夫婦が別居でも、論理的にはいいでしょうが・・・そんな状態だったら、無理して結婚しなくてもいいのに・・・ そもそも韓国や中国で、妻が夫の苗字を「名乗らない」のは、男尊女卑の社会だから、妻が夫の苗字を「名乗らせてもらえない」からで・・・それって、ほめられた事情とは言えない。 何も、妻の側が夫の苗字にしなくても、日本だって、夫の方が妻の側の苗字にする事例だって、結構ありますよね? そんな事例になっても、現実では大騒動になるわけでもありませんよ。「あっ?そうなの?ふーん・・・」でオシマイですよ。しばらくは「とまどい」があっても、人はスグになれてしまうもの。 夫婦お互いの事情を考慮して、話し合いで決めていけば済む話でしょ? しかし、ダメダメ人間は、そもそも会話の能力がない。話し合いそのものが苦手。 それだけではありません。「自分たちで決める」こと自体に、精神的な負担を感じるわけ。 だって、自分たちで決めたら、やっぱり自分たちで責任を取らないといけないでしょ?後になって「ワタシは悪くない!」とは言いにくい。 だから、自分たちで決めなくてもいい制度にしておきたい。 今のままの苗字を「だら〜」と使い続けているのなら、何も考えないでも済むでしょ? そもそも、ダメダメ家庭出身の人間は、自分の実家の問題を考えることから逃避している。だから、苗字の問題は考えたくないわけ。自分の親と同じ苗字を名乗り続けたいのか?相手の苗字に変更するのか? 自分の苗字をそのまま名乗りたいのなら、そのことについて相手に説明する必要があるでしょ?そうなったら、どうしても自分の実家の問題と向き合うことになっちゃうじゃないの?そんなことは「心が弱い」ダメダメ人間には出来ないことですよ。あるいは、自分の苗字の方を変えるにしても心理的に抵抗があるわけ。「実家に迷惑を掛けてはいけない!」そんな声が聞こえてしまう。ダメダメ家庭の序列意識と結びついて、「このままでは、自分の実家の序列が下がってしまう!」なんて、ヘンな方向に発想が進んでしまう。 そして「いったい誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ!」と子供の頃に親から散々聞かされたグチがフラッシュバックされてしまう。 このメールマガジンでは、以前に「名前の問題」を取り上げたことがあります。名前というものは、親が子供に与える最初のもの。だからその後の子育ての象徴となっているわけ。名前は、一般的には、その後、変更は利かない。しかし、苗字は変更が可能でしょ?それも、それほど面倒な手続きもなしで・・・ 何も苗字を変えるために結婚するわけではありませんが、結婚して苗字が変わっても誰も不思議には思いませんよ。 そんな機会があるんだから、実家について考えてみるチャンスでしょ? 「ワタシは自分の親と一緒の苗字を名乗りたくない!苗字を変えたいんだ!」 そのような考えもあるでしょう。だから、積極的に相手の苗字にしようとするパターンもある。そのように自分の実家のダメダメさを認識しているのなら、それはそれで一つの前進でしょ? まあ、「とりあえず、夫の苗字でいいや・・・」って、「て・き・と・う」のケースが一番多いでしょう。特に異存がないのなら、それはそれで本人たちの問題と言えます。そのパターンはマトモ家庭の出身者では一番ポピュラーなパターンでしょう。人間は苗字より中身ですよ。 しかし、逃避ばかりしているダメダメ家庭の人間は、「どのように選択するのか?」を、考えるのではなく、「どうやって選択の場から逃げるのか?」そのことを考えるんですね。 まさに夫婦別姓の運動がその典型でしょ? あるいは、そもそも結婚する時だって「アナタがこのワタシでいいと言うから結婚してやった!」などと、選択を相手に預けるような発想をするわけ。そうして、後になってモメた時に、「アンタが結婚したいというから、しょうがないから結婚してやったのに・・・ワタシは悪くないわ!」と主張する。こんな例は実にポピュラーでしょ? あるいは、就職する会社の選択も「て・き・と・う」で、自分自身で考えて選択しない。自分で選択していないからこそ「ワタシは悪くない!」と言える。まあ、理屈の上ではそうとも言えますよ。 「ワタシは悪くない!」 しかし・・・「悪くない」から、その人は、マトモなのか? そんなものではありませんよね? それこそ、その手の人は「こんにゃくゼリー」を買わないという選択すらできない。 だから、何も考えずに、買って、食べさせて、そして死なせてしまう。 そして、死なせてしまった後になって「ワタシは悪くない!こんにゃくゼリーがこの世に存在することが悪いんだ!」と裁判に打って出る。 そんな行為も、その人なりには論理が通っているわけです。だって、その人は、何も「間違った選択はしていない。」わけですからね。 しかし、「こんにゃくゼリー」を買わないという選択すらできないような人は、そもそも避妊もしないで性行為をして、「な〜んとなく」子供ができてしまって、何も判断しないままで子育てをするのは、当然の流れでしょ? 当人自身として何も選択も判断もしていないがゆえに、間違った選択も判断もしていない。 だから、そんな家庭で育った子供がトラブルを起こしても、「ワタシは悪くない!」と、親として言えてしまう。そして、それを確定させるために、裁判に打って出たり、市民運動などに入れ込むことになる。あるいは、そこまで行かなくても「時代が悪い!」とか「政治が悪い。」というグチばかりになってしまう。 当人が何も選択していないがゆえに、「悪くはない」と認められてしまい。それに味を占めてしまって、何も考えないという護身術を身につけてしまうわけです。 しかし、そんな人の周囲にいる人、なかんずくその人の子供にしてみれば、たまったものではないでしょ? 現実の世界で価値がある人は、多少の問題があっても、何かを成し遂げた人でしょ?何かを成し遂げた人というのは、それぞれの時点において、ちゃんと選択を・・・決断をした人ですよね? 選択をしていないのなら、確かに「悪いとは言えない」・・・しかし、そんな人は何を達成できるの? 常に選択の場から逃避していて、いつも「て・き・と・う」。 そうやって、「だら〜」と、生きている・・・そして、問題が起こると「ワタシは悪くない!」 「悪くない」という言葉が示しているのは、本人が何も考えていない、考えたくない・・・そんな「選択の場から逃避した」心理状態なんですね。 さてさて、まったく持って個人的なことですが、昨日(11月2日)に、インターネットのニュースを見たら、血の気が退いて、呼吸が止まってしまいました。 と言っても、一般的な意味でショッキングなニュースというわけではありません。 アメリカの作家ウィリアム・スタイロン氏がお亡くなりになったとのニュースでした。私は別にスタイロンと付き合いがあるわけではなく、単に一般読者です。そもそも、彼がまだ生きていたことすら知りませんでした。 ちなみに、そのスタイロン氏はメリル・ストリーブが主演した映画「ソフィーの選択」の原作者です。 この「ソフィーの選択」という作品について、まさに今、考えているところで・・・ 700ページに渡る原作を2回読みました。2回目はメモを取りながらです。その2回目がやっと読み終わって本を閉じてパソコンを付けたら、そのスタイロンの死がニュースになっていたわけ。 小説「ソフィーの選択」は79年の作品で、映画は82年です。映画の監督はアラン・J・パクラ。ちなみにオペラにもなっています。NICHOLAS MAWという人が台本をまとめ、作曲もしました。初演は2002年12月。 今現在の私の机の周りには、読み終えたばかりの小説「ソフィーの選択」の本(もちろん翻訳)や、映画「ソフィーの選択」のパンフレットや、オペラ「ソフィーの選択」の公演プログラムが転がっている状態。そんな状態の中で、原作者の死のニュースですからね。呼吸も止まりますよ。まさに「事実は小説より奇なり。」 まあ、フィクションだったら、こんな出来すぎたシーンは逆に使えないでしょうね。 この「ソフィーの選択」は、アウシュビッツ収容所の生き残りの女性ソフィーが主人公なんですが、単にホロコーストの問題を扱ったわけではありません。むしろ、父親の強い抑圧を受けて育った女性が向き合う「選択」の問題を扱っているわけ。 このソフィーも、「選択の場」を徹底的に回避しようとする人です。 何か選択の場になると、父親から抑圧された記憶が甦ってくるわけ。「オマエは間違いばかりする!」なんて父親から言われたことがトラウマになっているんですね。そうやって選択の場から逃げ回るわけですが、最後に「選択」をする。 その選択が、よりにもよって心中。 ちなみに、この冒頭にドメスティック・ヴァイオレンスの場面が出てきます。ケンカしてソフィーの元から出て行こうとする恋人のネイサンに向かってソフィーが言うわけ。ちなみに、そのネイサンがソフィーに暴力を振るう側です。 その場面の文章は、 「ネイサン、行かないで!」ソフィーは必死にせがんで両手を彼の方に差し伸べた。「あたしにはあなたが必要なの、ネイサン!あなたにはあたしが必要だし・・・」 と言うもの。 いや〜、見事に「入れ込み、入れ込まれの状態。」ツボを押さえているでしょ? この「ソフィーの選択」を、このメールマガジンで取り上げるかどうか?迷っていたのですが、まあ、取り上げるのが神様の意思・・・いや、スタイロンの遺志なのかも? ということで、そのうち、文章をまとめて配信したいと思います。 (終了) *************************************************** 発信後記 私個人は芸術家の死の報道に対して、それほど心を動かされるタイプではありません。芸術家は作品で語られればいいのであって、生涯を語るものではありませんものね。 しかし、さすがにあまりに完璧なタイミングだったのには、衝撃を受けました。おかげで、お風呂上りに貧血でひっくり返ってしまいました。心臓に負担になったんでしょうね。 ひっくり返りながら、頭の中を音楽が駆け巡る。 バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」という曲。この曲は、ソフィーとネイサンが心中する前に聞いた曲です。そもそもソフィーがネイサンと出会ったのは、ソフィーが気を失って倒れたのを、たまたま通りかかったネイサンが介抱したからです。 この私は、ソフィーのように、ひっくり返って動けない状態で、バッハのメロディーが頭の中を流れる中、そんな「ソフィーの選択」の様々なシーンが走馬灯のように目の前に広がってくる。 走馬灯のように・・・って、オイオイ、この私まで死んじゃうの?と、マジで焦りました。 しかし、単なる貧血だったので、30分ほどしたら、何とか息を吹き返すことができて、この文章を書いているところ。 ちなみに、その「ソフィーの選択」の原作者のスタイロンのお葬式で、きっと「詩」が朗読されるでしょうね。 その詩は、以前にこのメールマガジンで取り上げた、アメリカの女流詩人のエミリー・ディキンソンの詩。ただ朗読される詩は、以前にこのメールマガジンで取り上げた詩ではなく、作品829番の詩。 どうして、そんなことがわかるんだ? と思われるでしょうが、映画を見たり、小説を読めばわかりますよ。 お時間がありましたら、ヴィデオを借りたり、本をお読みになることをお勧めいたします。 |
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R.10/12/5 |