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カテゴリー ダメダメ家庭が好きな単語
配信日 06年11月21日 (10年7月27日,11年2月5日 記述を追加)
タイトル 平和
ダメダメ人間は、自分自身で考えることをしない。「とおりがいい」「ありがたい」「権威ある」「反論されにくい」「質問されにくい」言葉を使いたがる。だって、そんな立派な言葉を使っておけば、周囲の人から突っ込まれないで済むでしょ?
しかし、その言葉を自分で分かった上で使っていないので、「その○○って、どういう意味なの?」などと聞かれても、何も答えられない。

その典型の言葉が「ふつう」という言葉であることは、このメールマガジンで頻繁に触れています。
「ワタシの家庭は、ふつうの家庭。」
「ワタシの仕事は、ふつうの仕事。」
「両親は、ふつうの人。」
それはいいとして、「じゃあ、アンタの言う『ふつう』って、いったいどういう意味なの?」と聞くと、「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」と、それこそ、「普通の人」が全然理解できない説明が返ってくるだけ。

自分でも分かっていない言葉から、会話が進展するわけがないでしょ?それに思考だって進展しないでしょ?
しかし、会話の意欲もない、自分で考える意欲もないダメダメ人間には、だからこそ都合がいい。
さて、今回の文章では、そんな「とおりがいい」「権威ある」ダメダメな言葉の一つとして「平和」という言葉を取り上げましょう。
ダメダメな人は、ムダに「平和」という言葉を使いたがる。

そんなことを申し上げると、「オイオイ!『平和』を、ダメダメとして取り上げてはダメだろう?オマエは戦争愛好主義者なのか?この外道め!!」そのような突っ込みが当然あるでしょ?
しかし、私がダメダメと申し上げているのは、「平和」そのものでなくて、「平和という言葉」なんです。
ダメダメな人間は、不要なのに、「平和」とか、英語で「ピース」なる言葉をつけて、それこそ権威を持たせようとするもの。
それに平和と付けておけば、反論されないでしょ?「そこに付いている平和という言葉は不要なのでは?」なんて質問は、まあ、飛んでこない。つまり会話になりにくい。だから、自分で考えなくても済むし、説明しなくても済むことになる。

まさに水戸黄門での、葵の御紋と一緒。
「オマエたち!この平和の紋所が目に入らぬのかっ!」
『ははぁ!仰せのとおりにいたしますっ!』

反論がないから、平和である。
ある意味、それは確かですよね?
しかし、現実的に見て、そんな反論がまったくない世界って、「いい世界」なの?
人間にとって、「居心地がいい」世界といえるの?

19世紀のイタリアオペラでのシーンに、こんなやり取りがあります。

「その血まみれの代償は、世界の平和のために支払ったのだ。
改革派どもの思い上がりに鉄槌を下したのだ。
いつわりの夢を民衆に吹き込んでおったのだからな、
死もまた、わが手にかかれば、豊かなものとなりえるのだ。」

『何と?死の種を撒いて、
未来に何が刈り取れましょうか?』

「わがスペインを見るがいい!
町に住む職人たちも、田舎に住む農民たちも、
みな神に忠実に生き、運命に従っておる!
わがフランドルにも同じ運命を贈ってやるのだ!」

『とんでもない!そんな平和は墓場の平和ではありませんか!』

ちなみに、このやり取りは、19世紀イタリアオペラ界において、最大の作曲家と言えるジュゼッペ・ヴェルディの作品「ドン・カルロ」の中でのやり取りです。

この「ドン・カルロ」は、ドイツの文豪シラーの戯曲を元にしたオペラです。フェリペ2世時代のスペイン王室を舞台に、為政者の孤独と友情、キリスト教の旧教と新教の対立、スペインからのフランドルの独立問題、政治信条の対立、父と子の葛藤、夫婦の不和と不倫・・・などの様々な要素を、壮大なスケールで描いたグランドオペラです。脂の乗り切ったヴェルディが気合を入れて作曲しています。
ただ、気合を入れすぎて、内容を詰め込みすぎて、壮大すぎて・・・ちょっとコケている・・・そんな面もありますが、好きな人はやたら好きになる・・・そんな「ツウ好み」のオペラといえます。

上記のやりとりは、有無を言わせない独裁を敷くフェリペ2世と、「もっと民衆に自由を!」と要求するポーサ侯爵ロドリーゴのやり取りです。
ロドリーゴの諫言に同意しなかったフェリペ2世ですが、独裁者の自分に対しても厳しい諫言をするロドリーゴに対して、信頼を寄せるようになっていきます。

おっとぉ!このメールマガジンはオペラ解説が目的ではありませんネ。
しかし、19世紀のオペラのセリフが、なんと今日的であること!
スペインとかフランドルとかの地名がなかったら、中国とチベットを舞台にした21世紀のオペラと思ってしまう人もいるでしょうね。
それに、作品をまとめる際に、気合を入れすぎて、内容を詰め込みすぎて・・・コケる・・・って、どんな分野だってあること。まあ、この私が一番よくわかっていますって・・・

さて、ここで注目していただきたいのは、上記のやり取りにおける「平和」という言葉の位置づけです。

「権威あるオレの言うことを、民衆が黙って聞いて従えば、それが平和だろう!」
フェリペ2世の主張は、そんな感じになっている。
それを、ロドリーゴは「墓場の平和」だと、非難している。

「平和って、何?」
「アンタの言う『平和』って、いったいどういう意味なの?」
平和という言葉を、「とにかく」付けるのはいいとして、「その『平和』という言葉の意味は?」
そんな質問をしたら、どうなるでしょうか?
「平和って・・・平和なこと・・・」
そんな回答だったら、もうその時点で、その人は重症のダメダメですよね?
自分でも分かっていないような言葉を使うような人とは、会話も思考も発展しませんよ。

あるいは、「平和って・・・争いがないこと・・・」という回答だったら?
争いがないのは、基本的にはいいことでしょうが、人間が2人いたら意見の違いがあるでしょ?それをどうやって解決していくの?その方法論こそが重要でしょ?
「とにかく争いがないようにする。」となると、人間の個性を否定して、「オマエたちはオレの言うことを黙って聞いていればいいんだ!」そんな感じにならざるを得ないでしょ?
確かにそうなれば、争いはなくなるでしょうし、つまり、その人の言う「平和」と言えるのかも?
しかし・・・まさに「墓場の平和」じゃないの?
争いを避けるという大義名分を基に、人間一人ひとりの考え方が否定されてしまう。
だから、相互理解を目的とした会話も消失してしまい、その場かぎりのおしゃべりだけになってしまい、その場の雰囲気を壊さないことが優先されてしまう。
だから、相手からのリアクションに対応することもできなくなってしまい、たまにやり取りの相手からのリアクションが返ってくると、予期せぬ事態にパニック的になり逆上してしまう。

上記のオペラ「ドン・カルロ」はシラーの原作ですが、このメールマガジンでは、シラーの盟友といえるゲーテの「ファウスト」について頻繁に言及しております。
そのファウストですが、彼の行動のどこに平和があるのでしょうか?
もちろん、ゲーテもシラーもいわゆるシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の様式と解説されたりするくらいなので、平和とは無縁ともいえるでしょう。
しかし、まさにファウストがそうであるように、尊厳を求める日々はとてもじゃないけど平和とはいかないでしょ?疾風怒濤とまではいかなくても、やっぱり、嵐のような日々になってしまいますよ。
平穏な日々も結構ですが、じゃあ、その人は何を達成したいの?あるいは、それまでに何を達成したの?
平和というレッテルを貼り付けて喜んでいる人たちは、自身では何も達成していないものでしょ?むしろ、人のやっていることを妨害することばかりでしょ?
平和というレッテルは、自身の無為に大義名分を与えるために持ち出されていることが多いんですね。
平和という名目を持ち出し、周囲との間に違いがないようにして、個人個人の思考や行動を否定してしまう。

しかし、人間一人ひとりの考え方を否定されているということは、逆に言えば、自分では考えなくてもいい。あるいは、相互理解を目的とした会話も必要なくなる。
それは、自己逃避で、抑圧的で説明能力の欠如したダメダメ人間には心休まるもの。
しかし、別の言い方をすると、世界中が墓場となっている状態とも言えるでしょ?
まあ、上記のオペラでのフェリペ2世に近いことをしている『2世』が、日本の近くにいますよね?見事なまでに「墓場の平和」を実現しちゃって・・・
実際に、日本の「平和」愛好家って、その国を好きでしょ?

平和○○とか、ピース△△・・・そんなタイトルを付けたがる人って、会話から逃避したがっているわけです。問答無用の権威主義だからこそ、「ありがたい言葉に対して文句を言うな!」「黙って従え!」と言う心理をもって「平和」という言葉をつける。

実際に絶大な効果でしょ?
平和というタイトルが付いていたら、正面きって質問なり反論なりは出来ませんよ。
この私のように、ニヤニヤしながら、「その平和って、どういう意味なの?」などと聞いたり、オペラのセリフを引用しながら、その人の権威主義的独裁の面を浮かび上がらせる・・・そんな芸当は一般の人は難しい。だから会話にはならない。
「平和」という言葉を持ち出すことによって、気分は、もう水戸黄門!

平和という言葉を頻繁に使う人は、往々にして、自分の父親については語らないもの。
しかし、言葉で直接的に語らなくても、「平和」という言葉が持つ、有無を言わせない権威主義的な面を考えれば、その人の父親がどんな人だったのかが簡単に想像が付くでしょ?
まさに、「オマエはオレの言うことを黙って聞いていればいいんだ!文句は許さんっ!」そんな言葉を聞いて、家族は何も言えずシーンとなる。
ああ!なんて平和な家庭なんだろう!!

(終了)
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発信後記

本文中で言及したヴェルディ作曲のオペラ「ドン・カルロ」は、シラーの戯曲が原作。
これはフランドル(現在のオランダ,ベルギー,ルクセンブルク)に圧制を敷くスペインの側を描いています。

フランドルの側から描かれた戯曲となると、シラーの盟友とも言えるゲーテによって、フランドル独立運動の指導者のエグモント伯爵を描いた戯曲があります。エグモント伯は、スペインに対抗しましたが捕られて断首されました。そのエグモント伯を描いたゲーテの戯曲の付随音楽を作曲したのは、かのベートーヴェン。まあ、その序曲は「耳タコ」の人も多いでしょう。
フランドル独立の戦いのために命を掛けることは、平和な行為とは言いがたい。しかし、尊厳のある行為でしょ?

さて、ヴェルディとゲーテの結びつきは、私は記憶にありませんが、シラーとベートーヴェンの組み合わせとなると、もうすぐシーズンとなる例の第9交響曲の歌詞がシラーによるものです。
第3楽章の「平和」な音楽から一転して、第4楽章の怒涛の響きになだれ込む。「オレが求めているのはこんな音楽じゃないんだ!」なんて言葉とともに。

尊厳を求める行為は、平和とは行かない。自分自身の尊厳を獲得するためには、不断の戦いが必要でしょ?もちろん、自分の尊厳だけでなく、他者の尊厳にも配慮する必要があることはいうまでもないこと。多くの他者の尊厳に配慮したら、色々と問題も出てきますよ。

平和!平和!って叫ぶ人って、その「他者への尊厳への配慮」って全然ありませんよね?
まさに権威主義的独裁による墓場の平和を目指している・・・ちょうどその人たちの父親が、そうであったようにね。
R.11/2/5