トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ家庭が好きな言い回し |
配信日 | 06年11月24日 (11年1月24日 記述を追加) |
タイトル | ああなりたくはないものだ! |
ボケ老人のお見舞いをした後などで、こんなことを言ったりする人がいますよね? 「ああなりたくはないものだ!」 そんな言葉を単なる知人が発したのなら、お気楽に聞くことができる。 『まあ・・・そうだよね・・・』 しかし、自分の親がそんな言葉を言うのを聞いたら、子供はどう思うでしょうか? 『・・・』と、こんな感じになってしまう。 実際に、『うーん・・・』となってしまうもの。明確な感想は出て来ないものです。そんなモンでしょ? 勿論、誰だってボケ老人になりたいわけがないでしょう。だからと言って、わざわざ「なりたくない!」なんて言っても、どうなるわけもないでしょ? 実は、この「ああなりたくはないものだ!」という言葉を発するのは、往々にしてダメダメな親なんですね。それも、わざわざ自分の子供の前で発することになる。 なぜかって? ダメダメ家庭は被害者意識が強い。どんなトラブルも、それを自分の「被害」と捉える。「ああなりたくはないものだ!」などと子供の前で言っておくことにより、「自分はあのようなボケ老人にはなりたくはなかったのから、もし本当にボケてしまった場合は、それは自分の意思ではなく、被害だ!」と言う意味になるわけです。 「なりたくてボケたわけではないのだから、ワタシが悪いわけではない。だから、精一杯看病するんだぞ!」 そう言いたいわけです。 確かに「被害」と言えば被害でしょうが、それを自分の子供の前で主張する・・・ダメダメ家庭の親って、そんなところがあるもの・・・でしょ? しかし、自分の目の前で「被害者意識」を主張された子供の方はたまったものではないでしょ? まだ「私がボケた時は、このようにしてね・・・」と具体的な対処方を言えばいいじゃないの?それだったら会話もできますし、現実的なシミュレーションもできる。 それこそ、覚悟を決めて、「ワタシがボケたら、施設に入れてくれていいから・・・」なんて言った方が現実的でしょ? あるいは、「殺してもかまわないわ!」でも、いいわけでしょ? しかし、「私はボケたくない!」なんて言われてもねぇ・・・会話にならないじゃないの?じゃあ、実際ボケたらどうすればいいの?その点こそが、「ああなりたくない。」という言葉を聞かされる子供にしてみれば、一番重要なことでしょ? それこそ、そんな「ああなりたくないものだ!」なんて言葉を聞かされた側が、『じゃあ、実際にボケたら、アンタを施設に入れるよ!それでいいね?』なんて聞いたらどう答えるでしょうか? 「うーん・・・」 それっきりでしょ? だってぇ・・・好きでボケたわけではないんだし・・・だからこそ・・・「ああなりたりなくない。」って、アンタに言っているじゃないの・・・ 御説はごもっとも・・・だけど、じゃあ、具体的にはどうすればいいの? 「ああなりたくない」のに「なってしまった」なんて、それこそダメダメ家庭でのお約束の「ああ!私って、なんてかわいそうなんだ?!」そのものですからね。 つまり、ダメダメ家庭の人間が大好きなグチに近いわけです。 グチというのは、基本的には、過去の事案なり現在の事案に対して発するもの。 しかし、未来志向のグチもあるわけです。 「ああなりたくないものだ。」という言葉も、未来志向のグチとみれば、その心理が理解できるようになるでしょ? そして、グチというものは、その基本としては独り言の一種と言えるもの。 だから、人に聞かせるものとは言えないでしょ? 対面で独り言を言われたら、どんな内容であれ、言われた側は、非常に不快な気分になりますよ。 それも、被害者意識が伴った独り言を言われても、不快にならないわけがないでしょ? ボケ老人というショッキングな光景を見たので、通常の判断力を喪失しているというケースも勿論あるでしょう。動転してしまって、周囲の人間が対応に困るような言葉を言ったりする・・・それも勿論あるでしょう。 しかし、ショッキングなものを見た後では、普段言っている言葉や発想がなおさら出てしまうもの。 このようなことは、何もボケ老人のようなショッキングな事例だけではありません。 家庭に関する問題の折には、頻繁に発生するもの。 登校拒否の問題なり、ニートの問題なり、離婚の連鎖なり、ドメスティック・ヴァイオレンスの問題だって同じ。 ダメダメな親は、その種の事案に接しても、「ああなりたくないものだ!」なんて言うだけで、実際には何も対策を取ろうとしない。 横にいる子供に対して、「オマエは何か困っていることはないか?」と聞くようなことすらしない。ただ、「ああなりたくないものだ。」と未来志向のグチを子供に聞かせるだけ。 むしろ、「ああなりたくない!」なんて言葉を発することにより、実際に起こってしまった場合には、自分の被害者意識に浸りきってしまうだけ。 「ああなりたくなかったのに・・・どうしてこんなことに?!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなんだ!!」 「ワタシが、ボケたら、施設に入れていいから・・・」なんて言う親は、自宅で看病となる。 「ああなりたくないものだ!」なんて子供の前で言っている親は、実際にボケた場合には、子供たちの間をたらい回しにされたり、自宅で看病されても、『早く逝っちゃえよ!クソババア!』と看病している人の表情にありあり。 現実って、そんなものでしょ? だって、ボケる前の日々に「楽しい」ことがないわけですからね。そんな人間の周囲にいる側としては、自分の目の前からいなくなってほしいと内心で思うことは当然でしょ? 「ああなりたくない!」なんて、ごくごく一般的な言葉ですが、そんな言葉が簡単に出てくるようでは、その家庭はダメダメ家庭の可能性が高いんですね。 それだけ事前の準備なり対策をするという発想自体がないわけです。 あるいは、「ああなりたくないものだ。」と心理的に近い言葉は、何かトラブルがあった際にダメダメな人が発するコメントである「あってはならないこと。」というコメントです。 この「あってはならないこと。」というコメントについては、別のところで文章をまとめております。 「あってはならないことだから・・・あるはずがない。」 「あるはずがないんだから・・・何も対策をしなくてもいい。」 しかし、何も対策を取っていないんだから、現実に発生してしまったり、あるいは、発生してしまった際の対処の方法を準備していない。 しかし、当事者は「ああ!あってはならないことが起こってしまって・・・ああ!こんな事態になって、オレってなんてかわいそうなんだ!」と困っている人を放り出して嘆くだけ。 事後に「あってはならないこと」とコメントする人間が、例外なくダメダメであるように、「ああなりたくないものだ。」と事前に語る人も、例外なくダメダメなんですね。 結局は、その事案について、具体的に考えようとはいないわけです。 つまり、そんな人は当事者意識がないわけです。そんな人が、子育てを当事者意識を持って行うわけがないでしょ?「てきとう」に子供を作ってしまって、「うまくいけばいいなぁ・・・」と他力本願に徹しているだけ。そうして、「ああなりたくないものだ。」と思っているだけ。 「ああなりたくないものだ!」という言葉は会話には発展しない言葉と言えます。聞かされても、「じゃあ、このワタシはいったいどうすればいいの?」そう思うだけ。そんな会話にならない言葉を頻繁に使う・・・それがまさに会話不全のダメダメ家庭ということでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 ボケ老人というと、先日、ボケた人が、首都高速道路を自転車で走っていて、車に衝突されて死去された事件がありました。 車の運転をされていた方は、逮捕されていました。 証拠隠滅のおそれはないわけですから、逮捕する必要はないのでしょうが、なんなんでしょうねぇ・・・警察もヒマなんでしょうね。 あの手の老人を抱えると、もう生活はメチャクチャになるようです。 それこそ「ババァを殺して、オレも死ぬ。」なんて決意の一歩前になるようです。まあ、一歩前では済まないケースも実際にありますよね? 逮捕された運転手さんは大変にお気の毒ですが、看病なさっていたご家族にしてみれば・・・どうなんでしょうね? |
|
R.11/1/24 |