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カテゴリー 事例から考えるダメダメの問題
配信日 06年12月26日 (10年10月4日 記述を追加)
タイトル ユニセフからのダイレクトメール
さて、このメールマガジンでは、ボランティアの人たちのことをボロクソに書いています。
「腐臭に吸い寄せられるハエやゴキブリ」なんて、書いたりして・・・いささか、らんぼう。
ちなみに、ボランティアと言っても、私が問題にしているのは、「困っている人を助ける」類のものです。公園の美化活動のような、単なる労働奉仕?のようなものを問題にしているわけではありません。「困っている人」「気の毒な人」に「惹かれる」心情がダメダメだと申し上げているだけです。

さて、よりにもよって、そんな私の元にユニセフ(UNICEF)から、募金の依頼のダイレクトメールが来ました。ユニセフって、世界の子供たちのために活動している世界的な団体ですよね?国連の下部機関なのかな?
しかし、そのダイレクトメールがスゴイ!さすがボランティアはダメダメだと思わされるだけはありますよ。

今回のメールマガジンでは、そのユニセフの募金のダイレクトメールの問題を取り上げながら、ボランティア一般の問題を考えてみたいと思っています。

私の元にやってきたダイレクトメールが、本当に、スゴイわけ。
よくあるケースだと、以前にそのところから何か購入したことがあって、今度は別の商品の案内のダイレクトメールが来ることがありますよね?あるいは、ただ単に封筒の中にチラシが入っていて、それがポストに投げ入れてある・・・そんなスタイルが一般的ですよね?
「封筒に名前も書いていないから・・・まあ、このあたり全部の家に投函したんだろうなぁ・・・」と分かる。しかし、だから警戒されることはないわけ。

ところがユニセフのダイレクトメールは違う。
封筒にちゃんと私の名前と住所が書いてある。中をみると、振込用紙があって、そこにも名前と住所が事前に書いてある。
もしかすると、募金をする人がラクに振り込めるように・・・という配慮なのかもしれませんが・・・受け取った方はビビりますよ。

ユニセフという組織自体は知っていますが、じゃあ、ユニセフはどうやって私の名前と住所を調べたの?自分の名前と住所が、自分の預かり知らぬところで勝手に印字されてしまって・・・・それも、よりにもよって振り込み用紙なんだからシャレにならない。

もし、払わなかったら・・・「怖い」オニイサンがやってきて、「こらぁ!はよ払わんかい!シバクぞ、ボケっ!」なんてやるのかな?
少なくとも、この印字された振込用紙で、何も疑問を持たずに振込んでしまうような人間は、21世紀の日本人とは言えないでしょ?

そもそもその振込先だって、本当にユニセフの口座なのか、わからない。オレオレ詐欺の典型的な手口ですよ。
というか、この手口を真似て「オレもオレオレ詐欺をやろうかな?」なんて思う人も出てくるでしょうね。だって、振込み口座の番号を変えるだけで簡単にできてしまうでしょ?社会通念上不適切なダイレクトメールですよ。

「怖い」オニイサンが取り立てに来るかどうかは別として、このダイレクトメール自体は、とてつもなく「怖い」ものですよ。
そもそも、どうやって個人情報を調べたの?

「怖い、怖い。」って言っているだけではダメダメなのは先日配信したとおり。やっぱり何か対応策を取らないと・・・ということで、結局は、ユニセフに電話することに。
「住所と名前って、どうやって調べたの?」
『過去に募金してくれた人のリストとか・・・』
「私は今まで募金はしたことがありませんよ。」
『電話帳とか・・・』
「私の番号は電話帳に載せてありませんよ。」
『じゃあ、名簿業者から・・・』
「えっ?名簿業者?その会社の名前は?連絡先は?」
『○○という会社で、電話番号は・・・』

そんな感じのやり取りでした。
名簿業者って、私は今まで関わりがありません。というか一般的には関わりはないものですよね?それに・・・ちょっと、胡散臭そう。その名簿業者に電話しようかな?とも思いましたが、ヘタに電話すると、電話番号までバレるだけ。ということで、インターネットでその会社の名前から検索を掛けましたが、ヒットしませんでした。
名簿業者の全部が、胡散臭いというわけではないでしょう。マトモな業者さんもいるでしょうね。しかし、今時ホームページも持っていない業者って、カタギなの?どうやって、個人情報を集めたの?合法的な方法で集めたのなら、その方法を公表できるでしょ?

そんな「いわく」もわからない業者から名簿を買うユニセフって・・・
善意の募金をしたら、その一部が暴○団に流れてしまった・・・なんてシャレにもなりませんよ。

そんな問い合わせが多かったのか、さすがに、その募金のダイレクトメールに関する記載がユニセフのホームページに出てくるようになりました。何でも、アメリカとかヨーロッパでは一般的なんだそう。
「だってぇ・・・だってぇ・・・他のミンナもやっているじゃない!」

「他の人もやっている」のはいいとして、しかし、・・・「じゃあ、アンタはどう思うの?」

何も私はユニセフの活動のすべてを否定的に見ているわけではありませんよ。ちょっとは自分で考えたら?と思うだけです。
たとえば、個人情報を集めるにしても、もっと別の方法があるでしょ?

たとえば、それこそメールマガジンでも発行すればいいじゃないの?
無料でできるわけですからね。そのメールマガジンでの文章において、
最近のトピックスとか、
どんな場所でお金が使われているのか、とか・・・
お手軽な募金方法はこんなのがあります。とか・・・
そうやって、たとえば寄付金付きの年賀状でも発売して、そこから個人情報を登録してもらうってできるでしょ?
それにメールマガジンの文章を転送してもらえば、多くの人に紹介できるじゃないの?

そんな内容で週1回くらいの発行で、日頃から情報発信すればいいじゃないの?
普段からの地道な努力を何もしないで、「金で」名簿を買って、いきなりダイレクトメールなんて・・・お金が有り余っている人たちだねぇ・・・
逆に言うと、そのような地道な活動をしないことから、そんな人たちの心理として「恵んでやっている」という自分の持ち出しを意識していることが見えてくるわけ。
「誰かの困りごとをサポートする。」という相手先を向いた発想ではなく、「誰かをサポートする自分」という自分自身を向いた発想があるわけ。

21世紀の日本人のほとんどが、あのダイレクトメールには恐怖しますって・・・
そんなこともわからないの?
私は何も怒っているわけではありませんよ。怒るより呆れる・・・なんて言葉がありますが、まあ、呆れたのは確か。そして、「これはダメダメのネタだねぇ・・・」と思ったわけ。

そして疑問に思うのが、「大人の日本人の感情もわからないような人間が、本当に、アフリカの子供の感情をわかってあげることができるのかな?」ということ。
確かに、貧困にあえいでいる子供には、「とりあえず」の食料なり医薬品が必要でしょう。いささか問答無用で一方的な善意ですが、まあ、すること自体は、間違ってはいないでしょうね。
しかし、「これやっておけば、いいんじゃないのぉ〜」って、いかにも思考停止でしょ?

そのアフリカの子供が何を考えているのか?ちょっとは聞いてみたの?考えてみたの?
しかし、相手のことを考えることができる人だったら、日本人相手にあんなダイレクトメールは送らないでしょ?

しかし、相手の立場や気持ちに配慮しない人が唯一できることは、ボランティア。
これは残念ながら、現実。
だって、日本人の大人なら、電話で文句を言ったりする。
しかし、アフリカの子供は文句を言わない・・・というか、「言えない」。
だからこそ、そんな立場の弱い人間だけをはべらせて自分の善意に浸ることになる。
「ああ!ワタシって、なんていい人なの?!」

そんな情況が楽しいものだから、そのような情況を温存しようとするわけ。いわば子供たちを「生かさず殺さず」状態。
それこそ、ただ単に食料を援助して、医薬品を援助しただけだったら、不幸な情況の子供がどんどんと出産されるだけでしょ?母親への多少の教育はやっている・・・とのことですが、で、結果的にどうなったの?希望者を募って不妊手術くらいはやった方がいいのでは?あるいは、産児制限ということをもっと強い調子で訴えてもいいのでは?
しかし、ユニセフのような組織って、そのようなことはしないでしょ?
結果的に「覚悟もなく子供を作る親」を支援して、ダメダメな情況を助長しているだけでしょ?

心理的な共依存状態に陥っているので、相手が「自分を頼らなく」なることが怖いわけ。
「あの人たちにはワタシが必要だ!」
そんな盲目的な信念だけで生きている。
盲目的な信念だから、人の話を聞いて自分で考えることもしない。
説明能力もなく、自分で他者に説明することができないから、広告塔を準備する。
人から指摘を受けると「だって・・・ワタシたちは善意でやっているから・・・」「他の人もやっていることだから・・・」「こんな立派な人も推薦しているよ!」と言い訳。

それって、カルト集団の典型的な様相でしょ?
善意は善意でいいとして、それが本当にアフリカの子供の希望に沿っているの?
あるいは、根本的な改善につながることなの?
私の疑問はそこなんですね。
目の前の人に配慮できない人に限って、遠くの人への配慮を口にするもの。
結局は、自分で考えることから逃避したり、相手と会話することから逃避するわけ。
アフリカの気の毒な子供を言い訳にして、自分自身から逃避しているだけ。
そんなスタイルは、ダメダメ人間には、多いパターンでしょ?

実際にボランティアの人たちとやり取りをやったことがある方ならおわかりでしょうが、ボランティアの人は、説明能力がない。そもそも、自分自身で考えることから逃避して、権威筋認定の正論を連呼しているだけの人なので、相手に対してわかりやすく伝える発想もないし、当然のこととして能力もない。

説明して、相手からの合意を取るという発想がないがゆえに、相手からの反論をさせないという支配・被支配の構図を作ろうとするわけ。
やり取りのスタイルが、「合意を取る」というシンプルな肯定ではなく、「反論を否定」という二重否定なんですね。
つまり、対象とする相手を肯定的には見ていないわけ。
逆に言うと、対象とする相手は、「反論を言ってこない」人間であることが好都合。
立場の弱さとか、距離的な遠さとかが、好都合になる。

そんな人とのやり取りが楽しいわけがない。
実際に、ボランティアからのサポートを「受けた側」が、ボランティアの人たちのことを「よく言う」例は、ビックリするほど少ないもの。
「あの人たちには、一応は、よくしてもらったんだけど・・・なんだかなぁ・・・」という感想になってしまう。そんな感想って、意外なほどにポピュラーでしょ?
まあ、もっと厳しくいう人だと、こんな言葉が続いたりする。
「まあ、同じサービスをお金を取って仕事にすることが成立する理由もよくわかったよ。無料には無料の理由が、やっぱりあるんだね。」

ボランティアの人のことをよく言う人たちは、ボランティアの同類だけ。
「ああ!こんなに気の毒な人たちに恵んでやっているワタシたちって、なんていい人なの?!」と同類同士で盛り上がっているだけ。
ボランティア同士で盛り上がっても、相手の事情には何も配慮しない。
何度も書きますが、相手の事情なり感情に配慮しない人ができることは、「恵んでやる」という行為くらいであり、そんな人の相手をしてくれるのは、「施しを受けなくてはならない」弱い立場の者だけ。それが、ボランティアの現実なんですね。

ユニセフは世界最大のボランティア集団と言えるでしょうが、まさに、世界最大のダメダメ家庭OB集団と言えるのでは?実際に、それにふさわしいダメダメっぷりといえるわけ。
子供のためと言うのなら、キレイ事だけで物事が改善するの?
誰もが認める善人って、往々にして、結局は一番いかがわしい存在でしょ?
歯の浮くようなセリフを語っても、マズイ事態になりそうになったら、スグにトンズラしてしまう。
そうして、別のところで「ボクって、いい子でしょ?」とやりだす。
遠くから、「恵んでアゲて」いるだけで、手を汚さないから、確かに、「いい人」と言えるでしょう。

「ワタシって、なんていい人なの!」なんて自画自賛して、自分で何も考えない人間が親になる・・・そうして外面ばかりが「いい家庭」になる・・・しかし、そんな親は子供の話などは何も聞かず、権威筋からの正論を一方的に押し付けるだけ。

そんな家庭で育った子供は、自分の意向を親に聞いてもらえないので、「ボクって、いい人なんだよ!」と言いたいがために、今度は自分自身がボランティア活動をやり始めるわけ。しかし、自分自身の問題も解決できない人が、どうして人助けなんてできるの?

確かにアフリカの子供は、「何も悪くはない」のに、あんな悲惨な境遇にいる。それをどうやってサポートするのか?それぞれの考えはあるでしょう。

このメールマガジンでは、以前に映画「マイ・フェア・レイディ」を取り上げましたが、あの主人公のイライザだって、「何も悪くはない」わけでしょ?
彼女が「ドブ板英語」しか話せないのは、父親のせいであり、社会のせいであって、イライザ本人のせいではありません。しかし、「アナタは全然悪くはないのよ!」なんて言っても、事態が改善するの?
彼女が覚悟を決めて、「なけなし」の財産をはたいて、必死に努力する・・・そこから事態が改善されるわけでしょ?
周囲がサポートするのは、その「努力」に対して、すればいいじゃないの?
あるいは、そんな覚悟に導くお手伝いをするのが先なのでは?

しかし、必死の努力をして、事態が少し改善したイライザの前に、何の実務能力もない、キレイ事だけを連呼するフレディのような人間が現れて、今までの努力をフイにしてしまう。
映画「マイ・フェア・レイディ」の主人公のイライザをやったオードリー・ヘップバーンは、そのことをよくわかっているはずなのに・・・なんでヒギンズ教授ではなく、フレディの方の広告塔をやっているの?

(終了)
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発信後記

何回も書いていますが、ボランティアと言っても労働奉仕のようなものとか、単なる家族でのイヴェントのネタくらいだったら、本人の勝手でしょう。しかし、「困っている人」を助ける類のボランティアは、本人の勝手と言えるの?
じゃあ、そのボランティア活動によって相手の「困っている」情況がどのように改善されたの?

相手の悲惨な情況を改善するためには、どうすればいいのか?
そのためには、相手から話を聞いて、自分なりに考えることが必要でしょ?それをしなかったら、結局、自分自身が「なんていい人なんだ!」と自画自賛するだけで終わっちゃうわけでしょ?そのツケは、結局、子供たちじゃないの?
困っている人の数を増やして、より困らせる・・・しかし、そうなると、よりボランティアが必要になる・・・それって典型的な共依存状態でしょ?
R.10/10/4