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カテゴリー | ダメダメ家庭は立派な言葉が好き |
配信日 | 07年1月16日 (11年1月9日 記述を追加) |
タイトル | 起こった後では何でも言える |
このメールマガジンのバックナンバーのサイトは昨年(06年)の5月にリニューアルいたしました。と言っても、400本以上の文章をどのようにレイアウトしても、見通しがよくなるはずもなく・・・ と言うことで、様々なダイジェスト的なラインアップが選択できるようにいたしました。 たとえば、事件系を取り上げ、私なりに考えてみた文章のラインアップもあります。 設置したアクセスカウンターによると、様々なトピックス系の中でも、一番アクセスが多いのは「逆上メールをもらったもの」というカテゴリーです。 まあ、確かにそうでしょうね。「読んだ人が逆上したって、いったいどんな文章なんだろう?」って思うでしょう。この私だって、もし、他人のサイトにそんな表記があったら、興味を持ちますって。 それに、わざわざ「逆上された文章」なんて、堂々と、いささか自慢気に公表するなんて、あまり一般的ではない。そのような意味でも興味を持つんでしょうね。 「この文章で逆上されちゃったんだよ!どう?スゴイだろう?」なんて、一般的な神経とは言いがたい。ちょっと、らんぼうな発想と言える。 さてさて、その「逆上された文章」のカテゴリーに入っている文章のどの文章をお読みいただいたのかは色々とあるでしょうが、その中の一つに、例の「長崎県の小学校6年生の殺害事件」についての文章があります。「被害者の女の子」の父親の手記を元に考えた文章です。 この文章を配信した後で、逆上メールをいただいたので、その時に配信した文章も、読み手を「逆上させることができたスゴイ文章」という栄誉を得ることができました。 今回は、その逆上させた文章と言うより、いただいた逆上メールの中の言葉から、ダメダメの問題を考えてみることにいたします。 その言葉は、「起こった後では何でも言える」と言うもの。 ちなみに、実際の逆上メールの中での表現は、正確には、 「事件の後に『こうだったら』なんてことは誰にでも言えます。」 と言う表現でした。 表現の細部には違いがあるでしょう。しかし、重要なことは、「事件の後では・・・」と言うことでしょう。確かに事件の後では、誰でも、色々と言うことは可能ですよ。確かにね。 ちなみに、実際の逆上メールでの表現ですと、『誰にでも言えます』とのことですが、しかし、これって本当でしょうか? 本当に誰にでも言えるの? じゃあ、あの長崎県の事件について、実際に、誰がどのように言っているの? 私の文章のように、まるで見てきたように、その心理を書いている文章なんて他にあるの? あったら、教えてほしいものですよ。 現実では、あーでもない、こーでもない・・・と、議論のための議論をウダウダとしているだけでしょ?そして「インターネットが悪い!」とか、お約束と言える「新参者を犯人認定」するだけ。 それで、物事が理解されたとでも言うの?そして事態が改善されたとでも言うの?改善されたのなら、もうあの手の事件は起こらなくなるはずですよね? しかし、現実は違うでしょ? 現実には、『誰にでも言えます。』とは言えていない状態ですよね? まあ、その点はいいでしょう。重要なことは、「事件の後では・・・」ということなんですからね。 そもそも事件の後で、誰が何を言っても、確かにしょうがない。もう被害者の血が流れてしまったわけですからね。覆水盆に返らず。 事件の後になって、「あの事件での当事者の心理は・・・」と、まるで見てきたように語る私ですので、そのような文章をお読みになった方は、読んで逆上するまでは行かなくても、「事件の後に何を言っても・・・無意味じゃないの?」と思われる方も多いでしょう。 それは当然ですよ。 だから重要なことは、「事件の後に」・・・と言うことではなく、「事件の前に・・・」ということでしょ? しかし、自慢じゃあありませんが、この私は、事件が起こってから、「見てきたように語る」だけでなく、「事件が起こる前の段階」でも、見ているように語る人間です。このことは知っている人は知っていますから、それ以上は言いませんが・・・ しかし、事件が起こる前の段階でも「見ているように語る」私ですが、それって、相談されないと、語れないでしょ? 「今、こんな感じで、ちょっと上手く行っていないけど・・・どこが問題なのでしょうか?」とか、 「ちょっとしたトラブルが起こっているけど・・・そのトラブルに対処する際の注意点はどんなところなの?」とか・・・ 実際に事件が「起こった後」で、聞いてくるから、「事件が起こった後で言っても・・・」なんてことになるわけでしょ?事件が起こる前の、ちょっと問題がある・・・くらいの段階で聞いてくればいいじゃないの? そうすれば、大きな事件が起こる前ではなく、事件そのものを防ぐことができるわけですからね。 聞かれる前から、「ここは問題だ!このままでは事件が起こるぞ!」なんて、たとえわかっていてもなかなか言えませんし、それぞれの人の問題なんて、いくらこの私でも見えませんよ。相談されて、ある程度説明されるから見えるだけですよ。 それこそ、別のところで取り上げております映画「羊たちの沈黙」におけるレクター教授も、クラリスから説明を受けるから、クラリスに対して的確な解説ができるわけでしょ? 何も説明がなかったら、檻の外のことも分かりませんよ。天才の持つ洞察力と霊能力は別のものですよ。 実際に、たとえば「コンビニエンスストアーの前で、深夜でたむろっている中学生が、その後どうなるのか?」なんて、「事件前」でも判るでしょ?それこそ、誰にでもね。しかし、そんなことは、言えないでしょ?それこそ誰に対して言うの? そもそも親に当事者意識がないから、子供がそんなことになっているんでしょ?そんな親に言うだけムダですよ。 そんなケースは事件が起こってから、言うしかないじゃないの? しかし、当事者意識がある親だったら、ちょっと問題がある段階で、気がつくことができるでしょ?その段階で信頼できる人に相談すれば、事件にはなりませんよ。ダメダメな親は子供のことに関心がない、だから問題に気がつかない。事件が起こって初めて気がつく。だから「事件の後では・・・」なんて言わざるを得ない。 「事件が起こってからは、何でも言える。」とか「事件の後では誰でも言える。」という言葉はいいとして、じゃあ、そんな主張をする人間は、事件前には何をしていたの? それが重要でしょ? 事件前には何もしなかった人間に限って、「事件が起こってからは何でも言える。」なんて言ったりするものでしょ? このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、「言われていること」や「書かれていること」から考えるのではなく、「言われていないこと」、「書かれていないこと」から考えて行った方が考察が進むと頻繁に書いています。 まさに「事件が起こってからは何でも言える」という言葉はいいとして、「事件前に何をしていたのか?」、そのような「語られていない部分」が重要になるわけです。 もし、事件前に「やれることをやっていた」人間だったら、「事件が起こった後では何でも言える。」なんて主張はしませんよ。 「どの点が不十分だったか?」と言う点について、自問自答するだけ。 「事件が起こってからは何でも言える。」という言葉は、これもダメダメによくある言葉である「ワタシは悪くない!」なんて言葉と全く同じでしょ?「悪くない。」という主張は良いとして・・・「じゃあ、どのような状況判断を元にそのような行動を取ったの?」という点の方が重要ですし、説得力があるでしょ? 「ワタシは悪くない!」なんて涙目で絶叫している人間にマトモな人間はいませんよね?「事件が起こってからは何でも言える。」という言葉も基本的に同じなんですね。 それだけ、事件が起こらないように注意しながら、当事者意識を持って生きていないことが推測できる。 私に「事件の後に『こうだったら』なんてことは誰にでも言えます。」と主張した方ですが・・・そのように逆上したのですから、まあ、何がしかの『事件の後』の状態ってことは、スグに分かること。確かにその人にとっては『事件の後』なんでしょうが、そのような弁明がスグに出てくる人間の周囲にいる人にしてみたら、事件が起こることは判りきっていたこと。 「あそこは・・・そのうち・・・何かやるだろうなぁ・・・」 「あんなに分かりやすい前兆があるのに、あの親は見て見ぬふりをしているんだからなぁ・・・」 本来なら、そんな人間から子供を引き離すのが、事件にならない方法なんでしょうが、そうは行かない。そのような当事者意識がなく、被害者意識が強く、スグに逆上するような、そして会話の意欲も能力もない人間が唯一相手になってもらえるのが、自分の子供だけという現実がある。だからこそ、自分の子供にすがりつく。そして自分の子供相手に問答無用に自分の「被害」を語るだけ。 「いったい、誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」 これでは、子供も事件に巻き込まれますよ。 そもそも、そんな「事件が起こってからは何でも言える。」なんて、強圧的な自己弁明に終始するような親だからこそ、子供が困りごとを相談できないわけでしょ? これでは、行くところまで行ってしまいますよ。 そして、事件の前には何もせず、事件が起こってから大騒ぎ。周囲の人から『こうなる前に、何とかできなかったのか?』なんて言われると、「事件の後では何でも言える!」「悪いのは全部アイツのせいだ!」と更なる逆上。 じゃあ、事件が起こった後で、その人なりにはどのように考えたの? 「起こった後では何でも言える。」という人は、起こった後で、何も考えていないものでしょ?考えることと言えば、「誰のせいなのか?」という犯人探しをしているだけ。 逆に言うと、自分の至らなさについて思いを巡らすこともなく、犯人探しばかりの人だからこそ、その人の身近なところでトラブルが発生したわけでしょ? せめて、自分の子供が事件を起こしたり、巻き込まれたり、あるいは自殺したら、ちゃんと考えればいいのに、考えることすらしない。 そして、人から指摘があると「あー、もうっ!鬱陶しい!」とふて腐れるだけ。 そんな人からは、どんどんとマトモな人は離れて行ってしまい・・・相手になってくれるのは残された子供だけ。その子供に負荷が集約し、更なる「事件の後で・・・」が誕生することになる。 まあ、そう・・・なんですが、じゃあ、相手になってくれる子供がもういない場合はどうなるでしょうか? やっぱり・・と言うか、お約束と言うか・・・実は、この逆上メールをよこした人は福祉関係のお仕事の方でした。「どうして、そんなことまでわかるんだ?」と思われるでしょうが、会社のメールアドレスを使っての逆上メールですからね。勤務先も判りますよ。 ダメダメな人間と、福祉やボランティアとは実に関係が深い・・・このことはこのメールマガジンで頻繁に触れています。同格なり対等な間柄の人間との会話ができないダメダメ人間は、「オマエに恵んでやる。」という形の、相手よりも上の立場に立ちたがるわけ。 「恵んでもらっている」立場だったら、たとえ不快な人間に対しても文句は言いませんよ。と言うか、言えませんよね?それに付け込んで、上の立場から問答無用に自分の主張を通すことになる。 しかし、そんなことをするから、ますますダメダメになるんでしょ? 以前にも書いたことがありますが、この逆上メールとは別の逆上メールにあった表現ですが、こんな表現もありました。 「オマエの文章は気に入らないから、この文章に誤字脱字があるのは分かっているけど、そのまま送ってやった!」 その方は結婚前の女性とのことでしたが、そんな女性が、将来において、子供とどんな『会話?』をするのか、それについては火を見るより明らかでしょ?まさに、その文言が語っているわけですからね。 そんな女性によって育てられた子供がどうなるのか? その子供が親とどんな会話をするのか? そんなことは、「事件が起こる前」から、はっきりと判るわけです。 しかし、その点を事前に指摘すると、逆上するばかり。結局は、子供が事件に巻き込まれて、そんな人が言うのは「事件が起こってからは、何でも言える。」 まあ、論理的にはそうとも言えるのでしょうが、そんな人は事件が起こらないようには何もしていないもの。事件前には何も考えない人は、事件後も騒ぐだけで何も考えない。 逆に言うと、事件後に、ただ騒ぐだけで自己省察することがない人は、事件前にも何も考えていないわけです。 だからこそ、そんな「事件が起こってからは、何でも言える。」という言葉を聞くと、「事件は起こるべきところで起こるもの」と改めて再確認できるものなんですね。 (終了) *************** 発信後記 今回、逆上メールについて触れましたが、先週久しぶりに逆上メールをいただきました。それが結構興味深い逆上メール。 なかなか手が込んでいる逆上なんですね。 ということで、次回はその逆上メールについて考えた文章にする予定です。 ちょっとしたメールから、いかに多くのことがわかるのか?楽しんで読んでいただけると思っています。 |
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R.11/1/9 |