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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 07年2月23日 (11年1月13日 記述を追加)
取り上げた作品 ヴァンパイヤ「VAMPYR」(1931年ドイツ) (吸血鬼の問題)
監督 カール・テオドール・ドライエル
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、ダメダメ家庭の問題を「考える視点」を提示することを目的としています。ダメダメの「評価基準」の提示を目的としているわけではありません。
もちろん、購読者がどのようにお読みになっても、それは購読者のご自由と言えるでしょう。

往々にして、人は自分の目の前の出来事が、見えていない。そして、そのこと自体がわかっていない。だから「新たな」視点が提示されても、それを自分自身に生かすことができにくい。多くの人は、視点となる考え方を他者から提示されても、それを評価基準ととらえてしまうことになる。

自分自身の問題について常に考えている人だったら、「ああ!こんな見方をすると、このことも理解しやすいなぁ・・・」と思えるわけですが、自分自身の問題について考えないタイプの人は、自分で考えるための材料ではなく、考えなくても済むような「出来上がった」解答の方を求めるものなんですね。

典型的に現れるのは、韓国の問題です。
このメールマガジンでは度々韓国の問題に言及していますが、私としては、韓国人を「評価」するつもりはありません。韓国人の行動を鏡として、自分自身を振り返る・・・そのようなことができればいいなぁ・・・・と思って登場させているだけです。
実際に、日本のダメダメ家庭の人間も、あんなことをやっていたりするものなんですね。

ダメダメ家庭の観点から見てみると、韓国人の珍妙な行動なり発言の、心理的なバックボーンも理解しやすい。あるいは、このメールマガジンでは度々、ボランティアの人間の行動を取り上げたりしています。ボランティアの人間の行動も、ダメダメ家庭のメンタリティを理解していると、「すんなり」理解できるもの。

あと、このメールマガジンでは、頻繁に芸術家や芸能人を取り上げたりしています。様々な芸術家による個々の芸術観なり特徴的な表現手法はあるでしょうが、自分自身が親から認められて来なかったことから来る「自己表現への希求」は、ダメダメ家庭の観点から見ると、すんなり理解できることも多かったりする。
もちろん、その自己表現が永遠の領域に到達できる人は、ほんの少数と言えます。
大多数のダメダメ人間の自己表現は、「ワタシは悪くない!」なんて、自己弁護で終わってしまう・・・それが現実です。
自分に厳しい真の芸術家だけが、永遠の生命を持つ作品を創作することができる。

まあ、そうなんですが、永遠の生命に到達した大芸術家であっても、やっぱりダメダメ家庭のメンタリティを維持していたような人も多くいます。たとえばルネッサンス期の大芸術家のミケランジェロなんて、対抗心は強いは、周囲とケンカばかりしているは、と、典型的なダメダメ。

そのミケランジェロは、同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチに対し、異常に「絡んだ」ことはご存じの方も多いでしょう。レオナルドのやることすべてにケチを付けました。まるで韓国人が日本にケチをつけるような感じ。ミケランジェロもレオナルドも、ダメダメ家庭の出身であり、双方ともボーイズ・ラヴの人でした。だからレオナルドも似たもの同士のミケランジェロから入れ込まれちゃったんでしょうねぇ・・・

レオナルドの作品においては、男性も、柔和な表情をしていて、どっちかというと女性的に描かれているでしょ?それに対し、ミケランジェロはその作品において、女性ですらマッチョで男性的ですよね?ということは・・・「そっち」の世界では、ミケランジェロが○○で、レオナルドが△△で・・・とかなるのかな?まあ、私は作品の芸風については分かりますが、ゲイ風はわかりませんので、何とも言えませんが・・・
ミケランジェロがレオナルドに「絡む」ようになったのは、一緒の部屋で絵を制作していた時からです。きっと、ミケランジェロがレオナルドの後ろから寄って行って「レオちゃん!」なんて言いながらおしりでも突いたんでしょうねぇ・・・レオナルドがビックリして「何すんのよ!」なんて拒絶したから、絡むようになったのでは?

ミケランジェロにしてみれば、「オマエのことを本当に分かってあげられるのは、このオレなのに・・・」なんて思っていたのでは?だから、入れ込み、拒絶され逆上。その手のシーンはダメダメ家庭の周辺ではおなじみですよね?
本来なら、アーティストたるもの、自分のやりたいことを、自分の流儀でやればいいだけ。他のアーティストのことなんて放っておけば済むこと・・・なんですが、自分と似たタイプだとそうは行かないんでしょうね。可愛さ余って憎さ百倍、なんて言葉もありますよね?
だからミケランジェロは、同時代の画家と言ってもラファエッロには絡みませんでした。ラファエッロは「オンナ好き」で有名な人でしたから、ボーイズ・ラヴのミケランジェロにしてみれば、全くの部外者であり、だから「絡み」ようがない・・・

まあ、閑話休題。
アーティストも行動も、ダメダメ家庭の観点から見てみると、意外とリアリティが出てくるものでしょ?

いつもながらの長い前振りですが、今回は、かなり昔の映画を取り上げながら、その作品に込められているアーティストの発想を見てみたいと思っています。
一般的には不自然な題材であっても、ダメダメ家庭の観点からみると、意外にも自然に見えたりするものなんですよ。

と言うことで、今回取り上げる映画作品はデンマーク出身の伝説的な映画監督のカール・ドライエルの31年の作品「ヴァンパイヤ」。ヴァンパイヤって、まあ、吸血鬼のことです。

カール・ドライエル監督は28年の伝説的な作品「裁かるるジャンヌ」という作品があります。火あぶりに処せられたフランスのジャンヌ・ダルクの受難を扱った作品です。映画の歴史において、欠かすことができない超重要な作品です。サイレント映画ですが、できればご覧になってくださいな。まあ、サイレント映画だから、逆に言うと、外国語の問題はありませんからね。ちなみに、今回取り上げた「ヴァンパイヤ」の方はトーキーです。続けて見ると技術の進歩が堪能できる。
「おお!セリフの声が聞こえるぞ!なんてハイテクなんだ!」

さてさて、今回とりあげる「ヴァンパイヤ」なんですが、このカール・ドライエル監督以外にも、このような吸血鬼ものって多いでしょ?これは映画作品に限らず、マンガとかアニメにもあったりしますよね?
このような吸血鬼ものも、ダメダメ家庭の観点から見ると、実にリアリティを持って見ることができたりするんですね。
そんなことを書くと、
「オイオイ!いくらなんでもダメダメ家庭の人間と、吸血鬼を一緒にしたらダメだろ!」
「ダメダメ家庭の人間が、人間の生き血を吸うとでも思っているのか?」
そうおっしゃりたい人もいるでしょう?

もちろん、ダメダメ家庭の人間が、人間の生き血を吸う例がある・・・なんて言っているわけではありませんよ。その「生き血を吸う」と言うこと以外の面が、ダメダメ家庭の人間と吸血鬼には共通点が多い・・・そう申し上げているだけです。

そんな共通点を具体的に例示してみましょう。

1. 恐怖感・・・一般の人間は「訳わからない」存在である吸血鬼を恐怖している。同じように吸血鬼の側も自分たちを襲ってくる一般の人間たちを恐怖の目を持って見ている。一般の人間との間にある恐怖感・・・これはダメダメ家庭の人間と一般の人間にあるものと同じでしょ?

2. 憎悪・・・吸血鬼は一般の人間を恐怖を持って見ている。それに対し、憎悪の念を持って見ているのが自分自身。この「ヴァンパイヤ」という作品においても、血を吸われて吸血鬼になった人間が「ワタシは呪われている!いっそ死ねば楽になるのに・・・」なんてセリフが出てきます。自分自身への憎悪という点は、吸血鬼もダメダメ家庭の人間も同じですよね?

3. はかない現実感・・・この「ヴァンパイヤ」という作品においては、影が重要な要素になっています。マトモな人間にとって見れば、吸血鬼は何も生産的なことをするわけでもなく、現実感が希薄な影のような存在といえます。このはかない現実感は、吸血鬼もダメダメ家庭の人間も同じ。

4. 妖しい存在感・・・吸血鬼は独特のオーラを放っている。この点はダメダメ家庭の人間も同じ。それに、少なくとも作品の中においては、吸血鬼は往々にして美形となっている。ダメダメ家庭の人間は意外にも容姿端麗なケースが多いことは以前に書いています。美形で独特のオーラという点では、まさに同類なんですね。

5. 夜の住人・・・ダメダメ家庭の人間は、どっちかというと夜行性。と言うことで、吸血鬼とお仲間。

6. 閉鎖性・・・一般の人間に対する恐怖感を持っているもの同士でないと連帯できない。吸血鬼は吸血鬼同士で連帯し、ダメダメ家庭の人間はダメダメ家庭の人間同士で集まることになる。

7. 増殖・・・吸血鬼は生き血を吸うことで仲間を増やす。自分と同じ吸血鬼にすることで増殖していくわけです。ダメダメ家庭の人間は、それこそボランティアなどをして「アナタは全然悪くはないのよ!」などと甘い言葉を使い、当事者意識がなく被害者意識だけがあるダメダメ人間を増殖させてしまう。あるいは、自分のグチに巻き込んで、相手の人までダメにしたりする。結局は、その人が本来持っている生命力を吸い取っているという点では吸血鬼と全く同じなんですね。

8.相補性の欠落・・・ヴァンパイヤは生き血が必要なので、一般人が必要になる。しかし、一般人にしてみれば、吸血鬼なんて百害あって一利なしの存在といえる。ダメダメ家庭の人間も、マトモな一般人とのやり取りが必要になるけど、一般人にしてみれば、ダメダメ家庭の人間とやり取りなどはする必要もない。つまり、お互いが補い合う関係にならず、一方的なものになっているわけです。だからこそ、吸血鬼も、ダメダメ家庭の人間も、立場が弱く、それゆえに、一般人に対して恐怖を持つことになってしまう。

9. 不老・・・吸血鬼は歳を取らない。まあ、不老不死の存在と言える。ダメダメ家庭の人間は不老不死とは行きませんが、歳をとっても容姿が変わらないケースが多い。もちろん、容姿が老けないと言って、その人がダメダメ家庭の人間と確定できるわけでもありませんし、ダメダメ家庭の人間すべてが、老けないというわけでもありません。しかし、「ドモホルン○ンクル」のCMなんてメじゃないほどに、実年齢と容姿年齢がズレてしまっている・・・そんなケースが発生したら、ダメダメ家庭の可能性が高いといえるでしょう。吸血鬼のように不老不死とは行きませんが、ちょっとした不老ではあるんですね。


まあ、「どうもマトモな一般人って苦手だなぁ・・・」なんて日頃から思っている人で、鏡を見てみたら、年令不相応な若い顔・・・そんなアナタは立派な吸血鬼と言うわけです。

このように具体例を挙げて見てみると、なんともまあ、吸血鬼とダメダメ家庭の人間は共通点が多いでしょ?
つまり、監督のドライエルが、どんな問題意識をもって作品を作ったのかについて分かってきますよね?

観客を怖がらせようなんてチンケな動機でない。
まさに画家のゴーギャンのように「自分は誰で、どこから来て、どこに行くのか?」そんな問題意識が反映されているといえます。
このような問題意識は、吸血鬼ものの他の作品を作った作家も共通しているわけです。
「あ〜あ、オレって、やっぱり一般人じゃないなぁ・・・」
その意識から、吸血鬼ものの映画を作ったりマンガを作ったりするんでしょう。

吸血鬼ものは、まあ、恐怖映画の王道のようなもの。
では、恐怖って何?
人それぞれに考え方はあるでしょう。私個人が怖いと思うのは、「今までの日常性が崩壊し、突然に非日常になる瞬間。」そんな瞬間に「怖い!」なんて思います。
今まで何の思いもなく見ていたドアや影や一般の人・・・それらの日常性の向こうに、異形のものが見える・・・そんな瞬間って、多くの人もあったりしますよね?
日常性がある世界だから、怖いと思う。今まであった日常性がなくなってしまったから怖い。

それこそ、怪談そのものが怖いというより、怪談を聞いた後で夜にトイレに行くのが怖い・・・そんなものでは?今まで当たり前に行けていた夜のトイレの日常性がなくなってしまった・・・それが怖いということでしょ?

ちなみに、日本の作家の三島由紀夫氏は「美とは現世に現れた彼岸である。」と言ったそう。そういう意味で「怖い」という感情は「美」に似ている・・・
日常性を見ながら、その向こうに存在している世界を見る・・・そのような点は全く同じでしょ?

ということで、「怖さ」を持っている芸術作品って、結構ありますよね?

私が「あれっ?」と思ったのは、以前にルネ・マグリットの展覧会に出かけた時です。
ルネ・マグリットはベルギーの20世紀のシュール・レアリズムの画家です。まあ、珍妙な組み合わせの絵でおなじみですよね?
マグリットの絵を続けて見ると、このマグリットが一般人に対する恐怖感を持っていることが実によく分かる。
ほとんどの人はマグリットの絵を見て「何これ?」と思うだけでしょう。あの絵から恐怖感を読み取る人はほとんどいないでしょう。しかし、まあ、「見る人が見る」と、色々と見えてくるものなんですね。

このマグリットさん・・・子供の頃に修羅場をくぐったねぇ・・・絵を見ていると見えてくることになる。
後で調べてみると、子供時代に母親が自殺したらしい。
子供時代に修羅場をくぐって、一般人に対する恐怖感を持っている・・・それってアーティストすべてに共通というわけではありません。そんな恐怖感はベルギーのシュールレアリストと言ってもポール・デルボーにはありませんし、スペインのサルヴァトール・ダリにもありません。

しかし、カール・ドライエルの「ヴァンパイヤ」の映像表現が持つ恐怖感って、「見る人が見る」と、マグリットに似ているところがあるんですね。
いわば、日常性が崩壊する恐怖感。
あるいは、マグリットの絵に頻繁に出てくる山高帽の紳士って、一種ヴァンパイヤ的なキャラクターと言えるでしょ?あるいは、マグリットの絵には、「無時間性がある」と言えるのでは?ちなみに「無時間性がある」と、「時間性がない」とは、意味が違っています。まあ、言葉って難しい。しかし、マグリットの絵には時間の進行を排除した感覚があったりするでしょ?いわば不老不死の感覚といえるようなもの。

このメールマガジンでは、様々なアーティストなり芸術作品を紹介していますが、そんな作品の中からダメダメ家庭のリアリティを取り出してみたいと思っているわけです。
そうすることにより、閉じた問題であるダメダメ家庭の問題が、別の時代なり別の場所でも同じように直面している問題であることが分かるものでしょ?

ヴァンパイヤは不老不死で永遠に生き続ける。
その映画を作ったドライエルは死んでしまったけど、
その作品も永遠に生き続ける。
なぜって、そのテーマは、いつだって我々の目の前にある問題なんですからね。
ダメダメ家庭の問題も、残念ながら、不老不死なんですね。


ちなみに・・・
マグリットの絵を見て、「この人・・・子供時代に修羅場をくぐっているねぇ・・・」なんて分かる人は、それほどいないと思います。
まあ、「アンタ、どうして、そこまで分かるのさ?」なんて言われるだけ。

まあ、「分かる」んだからしょうがない。説明のしようもない。むしろ「どうして分からないの?」と疑問に思うだけ。
・・・なんですが・・・
この手の問題も、いささか不老不死です。
カール・ドライエルの「裁かるるジャンヌ」に描かれたジャンヌ・ダルクは、まさにそんな人。

彼女も、「こうすれば、こうなって、このような結果になる。」って見えたんでしょうね。だから「こうすればいいよ!」と言うことになる。
そして結果として、そのとおりの結果が得られて、周囲は喜ぶ・・・んですが、ことは単純じゃあない。「どうして、そこまで分かるの?」という疑問が解決されたわけではないので、こんなことを言い出す人も出てくる。
「アイツは魔女だ!」
「悪魔と契約して、教えてもらったんだ!」
ということで、火あぶりに。

「裁かるるジャンヌ」に描かれたジャンヌ・ダルクの話って、シャレにならない。もちろん、ジャンヌ・ダルクだってシャレで火やぶりになったわけがないでしょう。
しかし、「アンタ・・・どうして、そんなことまで分かるの?」なんて人から言われる人間は、このような危険がつきまとっているんですね。

私も人から相談されて、私の見解が参考になればそれでいいのですが・・・ヘタにドンピシャだと、後になって「アイツは悪魔が乗り移って語ったんだ!」「アイツを火やぶりにしろ!」なんて話になったらイヤだよ。
私も相談には乗りますが、後になって宗教裁判所に告発しないでね。
まあ、本当に悪魔から色々と教えてもらえるのなら、ダメダメ家庭の問題ではなく、競馬とか株券の銘柄を教えてもらいますよ。

つまり、「裁かるるジャンヌ」という作品を作ったドライエル自身も、そのような問題意識があったことが見えてくるわけです。まあ、ドライエル自身も色々と見える人だったのでしょう。
作品の作り手であるドライエル自身の問題意識によって、我々受け手の問題を顕在化させる・・・作品の受容って、そういうことでしょ?

吸血鬼ものにおいては、アーティストは、「吸血鬼に襲われる」一般人の側に自己投影しているのではなく、集団化された「一般人に襲われる」吸血鬼の側に自己投影している。
特段の能力があるわけでもなく、妖しい美形でもないけど、まさに集団化して、自分たちに逆襲している一般の人間たちに対する恐怖・・・それこそが、吸血鬼ものの作品の根本テーマであることが多いわけです。

あるいは、ジャンヌ・ダルクものにおいても、特別な能力があるがゆえに、一般人たちに処刑されてしまうジャンヌ・ダルクを描くことで、一般人になりきれない自身や、一般人に対する恐怖を描いているわけです。

アーティストは、一般人になろうとして、なりきれないドロップアウトした人間といえる。
一般人に対して、憧れと、恐怖を持っている。
そして、結局は一般人にやられてしまう。
しかし、歴史を経ると、血祭りに上げた一般人ではなく、血祭りに上げられた側の成果が後生まで残っていたりする。
それがアーティストであり、吸血鬼であり、ジャンヌ・ダルクという存在なんですね。

芸術家は芸術論を語るのではなく、見えているものを語っているだけ。ただ、その見えているものが一般人と違っている。実際に今回のドライエルの「ヴァンパイヤ」という映画でも、ダメダメ家庭の観点から考えるとリアリティがあるでしょ?考え方自体に、それほど飛躍はありませんよね?「今回のように説明されれば、ワタシもそう思ったことがある!」なんて思った方もいらっしゃったでしょう?まあ、一般人を恐怖の念を持ってみる・・・という「見えているもの」が違う状態・・・ということが一般人には見えないだけ。しかし、その「見えているものが違うんだよ!」と、ヘタに言ってしまうとどうなるか?
まさに、ジャンヌ・ダルクのようになっちゃうわけです。

(終了)
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発信後記

今回取り上げたカール・テオドール・ドライエル監督の「ヴァンパイヤ」ですが・・・
カール・テオドール・ドライエルは英語風に言うと、カール・ドライヤーになります。ただ、その名称でインターネットの検索をかけると、たぶん電気製品がヒットするんじゃないかと思います。
まあ、これはしょうがない・・・だから検索をかける際にはカール・テオドール・ドライエルか、カール・ドライエルの方がいいのでは?

あと、タイトルの「ヴァンパイヤ」ですが、「ヴァンパイア」だったり「バンパイヤ」だったり・・・と色々とあります。もちろん「吸血鬼」というタイトルもある。
興味がある方は色々なキーワードで検索してみてくださいな。
やっぱり人間の頭脳による検索の方が、こんな点は有効なんでしょうね。

ちなみに、本文中で「ヴァンパイヤ」という作品とマグリットの絵のフィーリングの共通性について書きましたが、「裁かるるジャンヌ」という作品では、どっちかというとジェームス・アンソールの絵との共通性があるように思います。俗っぽい人物の描き方がかなり似ている。ちなみにアンソールもベルギーの画家。
このメールマガジンは美術についてのメールマガジンではありませんから、これくらいにしておきます。皆様も興味がありましたら、色々とお調べになってくださいな。
R.11/1/13