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カテゴリー ダメダメ家庭をめぐる環境
配信日 07年3月9日 (10年6月28日 記述を大幅に追加)
タイトル 二極化
現在、社会の格差の問題が深刻になってきていますよね?
まあ、いわゆる「勝ち組」と「負け組」の問題です。

「政府がちゃんと対策を取らないから、こんな格差がついてしまったんだ!」
そんな主張にも一理あるでしょう。

しかし、ダメダメ家庭というものは当事者意識がなく、被害者意識だけがあり、会話の能力のない人間たちによる家庭といえます。そんな環境の中で育った人間はどうなってしまうのでしょうか?現実的に見て、社会の中で成功を収めるのは難しくなりますよね?
そもそもダメダメ家庭の人間は、自身の達成したい目標自体があいまいなんだから、当人なりに努力しようにも具体的なものにはならない。そのようなことを考えると、政府の責任というだけではいかないでしょ?
政府として対処することも必要でしょうが、個人個人でも色々と対処することも必要なのでは?そして、努力するにせよ、当人の問題点を自覚した上で努力しないと、単ある努力のための努力になってしまいますよ。

ただ、「な〜んとなく」の雰囲気で生きていて、結果的にうまくいっていない状況の場合には、まずは「な〜んとなく」生きている状況について問題視する必要があるのでは?
それこそ、経済的に苦境にある状況だったら、子供を作るのは、とりあえずは、ペンディングとしておくのが常識的な判断といえるのでは?
経済的に苦況にありながら、ポコポコと子供を作っておいて、「あとは政府が何とかしろ!」と言われても、ちょっと困ってしまうでしょ?
そんなことを考えさせられた光景を見たことがあるんですよ。

世の中には「ユーズド・ショップ」なるお店がありますよね?いわゆる中古屋さん。
昔からある古本屋さんとか、電気製品の中古品を扱っているお店とか、最近多い古着屋さんとか・・・
あの手のお店の利用者も、二極化している。

「この手のジャンルには、特に関心がないから、中古品で十分。」なんて感覚の利用者がいたりしますよね?
まあ、中古パソコンのユーザーに多いのがこのパターンでしょう。
どうせ、メールとインターネットしかしないし・・・高い新品を買うのはもったいない。だから安い中古品で十分だ。
このような判断は、まあ、合理的な判断。

あるいは、「ダメもと」のような感覚で、ユーズド・ショップを利用する。そんな人もいるでしょ?古本とか古着とかは、この感覚の人もいるでしょうね。実際に着てみたら、合わなかったけど、どうせ、¥300だし・・・まあ、いいっか・・・

これらは、どっちかと言うと、趣味というか遊びの領域。
あるいは、マタニティー・ウェアのように、一時的にしか使わないものだったら、そんなもので十分。そんな考えもあるでしょう。
しかし、世の中には生活臭漂う人も利用していたりしますよね?
私がちょっと前に見てビックリしたのは、とある古着屋さんでのこと。
大きなお腹を抱えた妊婦さんが古着を物色している。その傍らでは、3人の小さな子供が「ママ!ママ!」

何と言ったらいいのかなぁ・・・

その妊婦さんが、負け組だと申し上げているわけではありませんヨ。もしかすると、趣味で古着屋さんを覗いていたのかも?まあ、そんな格好はしていませんでしたが・・・
と言うか、顔の表情で判りますよね?
だって、その女性は人生に疲れた顔つきの典型でしたからね。

いわゆる格差社会と言っても、簡単じゃあない。
前にも書いていますが、少なくとも、自分が「負け組」か、それに近い位置にいると思っているのなら、自分でも対処法を考えてみる必要があるでしょ?
少なくとも、3人目や4人目の子供を作るのは、自重した方がいいのでは?
しかし、当事者意識が希薄なダメダメ人間は何も考えなかったりする。
おまけに周囲の「善意の人」が、同情してくれる。
「まあ、アナタ・・・何てお気の毒なの!!あなたは格差社会の犠牲者よ!!」
被害者意識が強いダメダメ人間は、他の人から、自らを被害者として認定してもらって大喜び!

同情してもらって、喜んでいるだけだったらまだしも、何も考えないことで人からの同情をゲットするという甘い体験が得られたから、それ以降も「負け組になることによって得られた成功体験」にすがってしまう。
ということで、4人目の子供の後は、5人目、6人目。

ダメダメ家庭を考えるに当たって、重要になることは「スパイラル」ということです。最初は小さなダメダメでも、それを放置して、どんどんとダメダメが進行してしまう。
マトモな家庭が、自分たちの問題点を確実に解決して、ますますマトモになって行き、ダメダメ家庭は、自分たちのダメダメを放置して、ますますダメダメになってしまう。
そりゃ、二極化が進行するのは当然ですよ。

それに、マトモな人間の周囲には、同じようなマトモな人間が集まってくる。
グチばかり言っているダメダメ人間の周囲には、同じようなグチばかり言っているダメダメ人間が集まってくる。周囲とのやり取りによって、ますますスパイラルが加速する。
当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ人間は、自分がかわいそうな被害者であると説明してくれる論理を渇望している。
そんなメンタリティに「二極化社会の『被害者』」という言葉は、甘く響く。
『政府の政策の問題はいいとして、アンタ自身もちょっとは考えてみたら?』『そもそも、どうして子供を作ったの?』なんて言ったりすると、それこそ「ワタシが子供を持ったのは、政府の少子化対策のせいだ!ワタシは政府の政策の犠牲者なんだ!」と真顔で反論されるだけ。「じょーだん」と思う方もいらっしゃるでしょうが、現実ですよ。

政府としても、本来は「耳の痛い」ことを言わなくてはいけないでしょ?それから逃げているのは、大問題。
自分に耳の痛いこともしっかり聞いて、自分自身の問題点について考えて、そして対処法についても考える。
国としても、そんな当事者意識を持っている人に対してサポートすればいいだけであって、「ワタシはかわいそうな被害者なんだ!」と主張しているだけのダメダメ人間をヘタにサポートすると、「国も認めているように、やっぱり自分は被害者なんだ!」といった認識や、被害者としてのメンタリティを強化するだけ。

そして、何も考えずに、ポコポコと子供を作ってしまう。
格差社会の本当の犠牲者って、そんな家庭に育たざるを得ない、そして、そんな親を持たざるを得ない子供たちの側でしょ?
いい加減な同情をするより、ダメダメな親から子供たちを引き離す・・・そんな強制力をもったな対処法が必要ですよ。しかし、そんなことをしようとすると、「差別だ!」「格差社会の犠牲者に何てことを!」「負け組みの人間は子供を持つこともできないのか?!」と大騒ぎする人が現れてしまう。しかし、そんな感じで騒ぐ「善意」の人間たちは、困った境遇にある子供たちを助けようとはしない。

その「アナタは二極化の犠牲者よ!」と同情するだけの「善意」の人間が、家庭のダメダメのスパイラルの進行に大きな役割を果たして、「二極化」の増大に寄与し、犠牲者を生み出してしまっている・・・現実はそんなものでしょ?

逆に言うと、周囲にいる人たちを見ると、当人についても分かってくるわけです。
グチばかり言っている人は、自分のグチに共鳴してくれる人ばかりを置こうとする。
実際にグチが共鳴してしまうので、自分で対処していくという当事者意識が、ますますなくなってしまう。
だから、語ることが、グチというか、傍観者然とした感想ばかりとなってしまって、それが当たり前になってしまう。

それこそ、どこかでおいしいお菓子を食べたのはいいとして、「おいしいわ!」との感想をブログに書き込む・・・
まあ、そんな感想は誰でも持つでしょう。
じゃあ、そのお菓子をおいしく思った人は、何に対して主体的に取り組んでいるの?
何かの国家試験に取り組んでいて、たまたま食べたお菓子がおいしかった・・・というのなら、気分転換としての効果があったということ。

しかし、別の発想として、「こんなにおいしいお菓子を自分でも作ってみたい!」と考えてもいいわけでしょ?
普段から、自分で色々とやっているのならともかく、「何かいいことはないかなぁ・・・」と周囲を見回しているだけの状態だったら、せっかくおいしいお菓子と出会ったのなら、自分でも作れるようになればいいじゃないの?
そんな発想を持っていれば、お菓子を食べる際にも、もっと色々な感じ方ができますよ。
しかし、当事者意識がないがゆえに、ちょっといいことがあると、「感動をありがとう!」とか「勇気をもらった!」と、常に受身の姿勢に徹している。
「感動をありがとう!」という言葉そのものはともかく、それだけ受身なんだから、ちょっと不快な事態になってしまうと、その受身の精神から、「被害」と認識してしまう。

いいことがあると「感動をありがとう!」と、うれしそうに叫んでいる人と、日頃から、やたらグチっぽい人とは、そのメンツは意外にも共通しているでしょ?
そんな人は、作品に接しても、「オレはこの作品に満足できない。」なんて、上から目線のコメントをして喜んでいるだけ。
満足できないのなら、それで結構ですが、自分で満足できる作品を、自分で作ってみればいいじゃないの?
それこそ、アニメや漫画でも、ヘタはヘタなりに自分で作ってみたら?
その意識を持っていれば、アニメや漫画と接した際にも、今までとは違ったものが見えるようになりますよ。

自分なりに取り組んでいる人は、それこそ通り魔事件のようなことは起こしていないでしょ?と言うか、そんな事件を起こすヒマはないでしょう。
自分が作っているフィクションの世界で楽しめばいいだけですよ。
たとえヘタクソでも、何かをまとめれば、それが成功体験になって、まさに自信につながっていくことになる。しかし、当事者意識がないので、そんなチャレンジをしようとしない。
何も成果がないがゆえに、自信がない。自信がないから、自分への厳しい言葉を受け入れる土壌がない。
「まあ、なんてお気の毒なのっ?!」という同情の言葉しか受け入れられない。
だから事態がますます悪くなり、ますます自信がなくなる。

そんな人は、事態解決の成功体験を持っていない。
むしろ「被害を語れば → 人から構ってもらえる。」
そんな失敗を語ることによる成功体験を習得してしまう。

だからますます不幸を語るようになり、不幸への憧れを持ってしまい、それが語りやすいように、当人は何もしない。当人が何もしないどころか、子供にも何もさせない。
個人として具体的な成功体験がないがゆえに、民族的自負心とかの意味不明な言葉を持ち出すしかない。
そして、そんな意味不明な説明が通用するような関係性を作ることに発想が行ってしまう。
そして、どんどんと自分の被害を語ることになる。
しかし、被害は語れても、成果は語れない。

被害を語る人間は、ますます被害を語るようになり、
成果を語る人間は、ますます成果を語るようになる。

心の貧しい人間は、ますます心が貧しくなり、
心の豊かな人間は、ますます心が豊かになる。

心の貧しい親に育てられた子供は、「悪いのは全部○○のせいだ!」と思うようになり、他者を恨むだけの人間になってしまう。だから、成果もあげられないし、経済的にも貧しくなる。
心が豊かな親に育てられた子供は、責任感も付き、主体的に行動し、ますます豊かになる。

心が貧しい人間の周囲には、同じような心の貧しい人間が集まってきて、一緒になってグチ大会になり、だからますます心が貧しくなる
心が豊かな人間の周囲は、やっぱり心が豊かな人間であり、会話も弾み、ますます豊かになる、それに情報も集まるので、成果もあげやすく、経済的にも豊かになる。

ダメダメな当人としては、自分では何も達成しているものがなく、だからこそ、自分より下の存在を必死に探すことになる。

自分の前を見ずに、下を見て、
自分自身を見ずに、敵を見る。

「自分より下がいるから、安心だ!」
「うまく行かないのは、敵である、アイツのせいだ!」
そんなことばかり言っている。
それこそ、ボランティアなんて、まさにその典型でしょ?
「下」や「敵」ばかりを探している、そんな人間が周囲にいたら、二極化もますます進行してしまうのも当然なんですね。

(終了)
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発信後記

ちなみに、この手の「二極化」は、地域の問題でもありますよね?
そのうちに、その「地域の二極化」についても書いてみようと思っています。
ただ・・・誰か興味のある方は、投稿されても結構です。
それほど難しい内容ではありませんからね。
まあ、投稿されなくても・・・一度考えてみてくださいな。
R.11/2/7