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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 07年3月27日 (10年6月3日 記述を追加)
タイトル 説得の方法
かつて、日本の首相をされた田中角栄氏は「政治は説得だ!」なんて言ったそう。
「人に対し自分の考えを説得する」その能力が政治家にとって必要なことなんだ!
ということなんでしょうね。
これは、昔だけでなく、今でも同じこと。
じゃあ、どうやって説得するの?どのような論理で?どのような方法で?
さあ!どうする?

一番オーソドックスな方法は、言うまでもなく、数字を使ったものです。
それこそ政治の世界だったら、統計によって得られた多くの数値がありますよね?それらの数値が頭に入っていて、いつ何時でも自在に引き出すことができる。
その数字を組み合わせて、相手を説得していく。
そもそもそんな頭脳を持っている人の言うことであれば、当然のこととして説得力があるでしょ?あるいは、頭に入っている多くの数値から導き出された考えなんだから、客観性を持ち信頼に足るでしょ?

よく数字はウソをつかない・・・なんて言われますが、数字を使った説明のいいところは、基本的にごまかしがきかないところにあります。数字と言うものは客観的なものなんですね。だからお互いに共有しやすい。考えを共有・・・って、まさに説得ということ。
逆に言うと、数字を使わないで、散々と言われても、言われた側は途方に暮れてしまう。

数字を使わない・・・というと、たびたび取り上げたりしています韓国の歴史教科書がそのスタイルです。事件の年号も出てこないし、人口や生産額などの数値がほとんど出てこない。だから、読んでいても、「で・・・結局は、何を伝えたいの?」「結局は、どんな状態だったの?」と思うだけ。
そもそも歴史教科書で数字が出てこないということは、過去において、数字を使った政治をしてこなかったということでしょ?それこそ「政治は説得だ!」なんて言葉を例にすると、じゃあ、どうやって政治をしてきたんだろう?どうやって説得をしてきたんだろう?

まあ、政治においては、マトモな国の運営においては、数字が必要となり、それが政策の元となり、それが説得の元となる・・・って、当たり前のこと。
それに数字を使った説得は、努力をすれば誰にだってできることでしょ?
宮崎県の知事になった「そのまんま東さん」が、選挙キャンペーンの最中に多くの数字を出したそうですが、そのような説明をすることによって、「自分はよくわかっているヨ!」とアピールできるわけでしょ?
やり取りの場において、大声を出して、相手の話をさえぎって自分の考えを押し付けることは、説得ではなく、「反論を許さない」という二重否定にすぎませんよ。説得とは「合意を取る」ということであり、自分の考えを相手から肯定してもらうということ。
相手からの肯定を得るためには、相手の立場や理解力に配慮することも必要でしょ?
数字というものは、説得に当たって、実に便利な道具なんですね。

数字を使った説得とは違って、誰にだって出来るとは言いがたいのが、いわば芸術的な説得力です。
「芸術的な説得力」って、いったい何?なんて思うでしょ?

これは、その説明に接した当人でも気が付いていないような面を気が付かせてくれるような説得と言えるでしょう。
ロシアの作家のチェーホフの1892年の作品「6号病室」という小説を読んだレーニンは、「この主人公って、まるでオレじゃん?!」「この6号病室って、 ロシアそのものじゃん!」と絶句したそう。
途方もない洞察力で描かれた作品に接すると、「この作者さん・・・自分のことを知らないはずなのに・・・どうして完璧にワタシのことを知っているの?」
なんて思わされることもあるでしょ?
自分自身のことが完璧に書いてあるだけでなく、自分でも分かっていなかった自分のことまでちゃんと当たっている・・・
「ゲっ!そう言えば・・・ワタシ・・・こんなことしているわ!」
それはスゴイ説得力ですよね?

まあ、レーニンはさすがレーニンですから、「これって、まるでオレじゃん?!」と絶句しても、作者のチェーホフに逆上の手紙を送ることはしない。
しかし、一般的には、やっぱり逆上してしまって、作者に抗議のメールなんてことをやったりするわけ。
まあ、いいんだけどさっ、ネタになるんだし・・・

このような説得の手段は、数字を使ったものとは違って、誰にだって出来るというものではありません。しかし、数字を使ったものと同じように、検証することは誰にだって可能でしょ?
自分自身がどんな行動をしているのか?
それって、自分自身がその気になれば分かる話ですよ。だから検証してみて、指摘のとおりだったら、そのような人の考えを取り入れていけばいいだけ。作り出すことは誰にもできるわけではありませんが、検証したり受け入れることは誰にもできること。最初に挙げた数字を使った論理も当然のこととして検証可能でしょ?だから、数字を使ったものも、芸術的なものも、双方ともある種の客観性を持つことができる。

だから、「その指摘に対し、どのように対処すればいいのか?」受け手の側で判断できる。
しかし、受け手が判断しようもない説得の手段もあるわけです。
まさに、合意を取るという肯定形を向いたスタイルではなく、「反論を許さない」という二重否定のスタイルです。

ダメダメ家庭の人間は、権威主義的である。
このことは以前に書いて配信しております。自分で考えることから逃避するダメダメ人間は、「何を言っているのか?」という点については重要視せず、「誰が言っているのか?」という点だけを重要視する。

「権威ある○○先生がおっしゃっているのだから、オマエらは黙って従え!」
こんな調子なんですね。
「権威ある○○先生」と言っても・・・その人がそう思うだけで、別の人間はそう思っているとは限らないでしょ?
しかし、自分で考えることから逃避するダメダメ人間にしてみれば、そのように問答無用で言ってもらった方がラクになる。だって受け手は検証しようがないでしょ?検証しようがないがゆえに、考えなくてもいい。

そんな人間同士が集まって「○○先生がこう言った!」『△△先生はこう言っている!』なんてやり取りになってしまう。
実は、韓国の歴史教科書がまさにそんな感じです。そんな教科書で勉強した若い韓国人がバカになってしまうのは当然ですし、客観的な意味での説得力なんて付かないでしょ?
つまり、相手から合意を取る能力はまったく身に付かず、「反論させない」という二重否定的な能力が向上するばかり。

権威主義的な説得に終始する人は、客観的な説得力がないがゆえに、周囲からの同意を得ることができなくなり、相手にされなくなる。となると、その手の人は 説得力を強めようと、ますます権威主義的になり問答無用の度が進むことになる。
別の言い方をすると、ますます「反論されない」という二重否定に突き進み、「合意を取る」という単純な肯定からさらに遠くなってしまう。

そもそも、その「えらい○○先生」とやらは、どうやってそのような考えを持つに至ったの?数字を元にして?それとも極限の洞察力のパターンなの?
本来は、その「えらい○○先生」さんにも、思考の根拠があるはずでしょ?そして思考の組み立てのプロセスもあるわけでしょ?しかし、権威主義的な世界だと、その「えらい○○先生」の考えの根拠も、「もっと前の、えらい□□先生」になってしまう。まあ、結局は文献の解釈学に終始しておしまい。
そんな話を聞いていても、「で、結局は、何を伝えたいの?」と思うのは当然ですよ。

相手に自分の考えをわかってもらうためには、多くの実例をあげて説明するのが基本的な姿勢でしょ?だから、説明する側は、多くの事例を取り上げ、その実例を考える視点という形で、自分の考えを説明することになる。
そのような場合は、言及した実例が本質なのではなく、実例に示された視点が重要になるわけです。言及された実例は、洞窟の壁に写った影に過ぎないもの。
その「影」を見ながら、元となる本質的な見解について考えればいいだけ。

しかし、自分で考えることから逃避し、説明というものに対してぎこちないダメダメ人間は、「影」から本質を還元する能力が欠如している以前に、影から本質を還元するという発想そのものがない。
だから、実例として取り上げた対象の評価ばかりに注目することになる。
だから実例についての説明を、その実例とされた対象への論評と捉えてしまう。
説明のための例示と、論評との区別がつかない。

評価として捉え、自分では何も考えない。
ただ「ああ!アイツはバカなんだ!」「ああ!あの人は、意外に立派なんだ!」と評価を下してオシマイになってしまう。
オシマイになってしまって、自分では何も考えないので、実例として取り上げた対象と自分自身の間に同質性があっても、知らん顔。
自己逃避であるがゆえに、接した言葉によって「身につまされる」という感覚もなく、お気軽に受け入れてしまう。
そして、スグに誰かを論評したりする。誰かを論評したりするのはいいとして、そんな行動を、その人自身もやっている。

そして、お気軽に誰かを論評していい気になってしまう。
そんな姿を見た人がいう言葉は、「オマエが言うなよ!」でしょ?
「おいおい!アイツったら、色々と格好がいいことを言っているけど、その言葉で見えてくるのは、アイツ自身のバカっぷりだけじゃないの?」
そのように思わされることも多いでしょ?

こんな状態で、どこが説得なんだか?

逆に言うと、相手の人がどのような手段で説得しようとしているのか?その点を見るだけで、その人の説明能力や会話能力や思考力が分かることになる。
自分の言いたいことを自分自身でよく確認し、それを相手にわかりやすく伝える・・・説得って、そういうものでしょ?しかし、そんなことすらダメダメ人間にはできない。
ダメダメ人間は相手から合意を得ることを考えず、「反論を言わせない。」という二重否定方向に進化して、相手をつるし上げたり、権威者の言説を盲目的に持ち出すばかり。
そんな「説得」を受けても、困惑し、主張された内容に疑念を持つだけでしょ?

ダメダメ家庭は会話不全の家庭と言えます。これは単に言語能力の問題というより、説明の仕方なり、説得の仕方についての基本認識が違っている、そんな理由もあるわけです。
聞いていてツマラナイ人の話をガマンして無理に聞いていると、そんなダメダメに染まって、自分までダメになってしまう・・・そんなものなんですね。

(終了)
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発信後記

本文中でロシアの作家チェーホフについて言及しましたが、できれば、そのうちに彼の作品を紹介したいと思っています。
できることなら、皆さんも、彼の最後の4つの戯曲くらいは読んでみてくださいな。
途方もない洞察力に言葉を失ってしまうでしょう。
ダメダメ家庭の問題を、あまりに的確に描写しているので、読んでツライところもあるわけですが・・・

さて、次回は、またもや、日本の映像作品を取り上げます。
ダメダメ家庭そのものを描いた作品ではないのですが、ダメダメ家庭の問題を含めた色々な問題を解決するに当たって参考になる・・・そんな視点で、その作品を考えてみたいと思っています。
まあ、記念の回なので、ダメダメ家庭とは直接的には関係ないお話を取り上げてみるのもいいかな?と思っているんですよ。
R.11/1/31